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26歳の女性弁護士に縁談は来なかった…朝ドラのモデル三淵嘉子が一番身近にいた元書生と結婚したワケ

  • 2024.5.13
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戦後、女性初の裁判官になった三淵嘉子は、28歳で結婚し子どもも出産した。三淵の評伝を書いた青山誠さんは「猛勉強の末、男子でも取得が難しい弁護士資格を取った嘉子は、縁談では敬遠されたらしい。周囲にいた男性の中から人柄の良い元書生が選ばれて結婚するが、太平洋戦争が始まり、それまでのような豊かな暮らしはできなくなってしまう」という――。

※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

新潟家庭裁判所長時代の三淵嘉子、1972年6月14日
新潟家庭裁判所長時代の三淵嘉子、1972年6月14日
弁護士資格を取得した嘉子は、その直後に結婚した

何事にも真っ先に飛び込む積極性、周囲を巻き込んで突き進む。嘉子よしこは、学生時代にはパワーあふれる言動から“エネ子さん”と呼ばれていた。法曹界でもそんな彼女の姿が見られるようになるまでには、もう少し時間がかかる。

また、弁護士資格取得後の嘉子の関心事は、仕事と別のところにあったようだ。昭和16年(1941)11月に彼女は結婚している。結婚に伴う準備には多くの時間とエネルギーを要する。独身から夫婦になれば生活環境も大きく変わるから、どうしても意識はそちらに向いてしまう。

目標ができるとそれに向かって脇目もふらず邁進するのが嘉子の常。それは、ひとつのことしかできないという欠点にもなる。仕事と家庭の両立は難しかったか? 誰もが認める秀才なのだが、案外、不器用な人だったように思える。

「たまたま私自身の結婚や育児の時期に重なったこともあり、弁護士活動は開店休業の状況になってしまった」

著書『女性法律家』の中でもこのように語っている。弁護士活動の低調は時代の状況や仕事へのモチベーションにくわえて、こうした事情が大きかった。

女性が仕事と家庭を両立させるのは難しい。多くの職業婦人がその壁に阻まれ挫折している。それは現代になっても解決されず、嘉子も後にこの問題に取り組んで働くことになる。あるいは、この時の経験から色々と思うところがあったのかもしれない。

結婚願望はあったが26歳の女弁護士に縁談は来なかった

女学校時代には、恋愛や結婚に憧れて友人たちと恋バナに花を咲かせたこともある。弁護士を志すようになってからは、その思いを封印して勉強に没頭してきた。しかし、結婚を諦めていたわけではない「私は結婚しない」などと彼女の口から発せられたことは一度としてなかった。

思いを封印していただけ。目標を達成すれば、その封印も解ける。両親や知人たちも彼女の心境の変化を察し、婿探しに奔走したようだ。

だが、条件の良い縁談話がない。法律を学ぶ女性が「恐ろしい」といわれた時代だけに難しい。また、弁護士の研修を終えた時にはすでに26歳になっていた。当時、女性の結婚適齢期は23歳頃。それにくわえて、日中戦争が始まってからは若い男性が次々に召集され、結婚適齢期の男女比はいびつなものになっていた。結婚相手を見つけるのは至難の業だっただろう。

嘉子の周囲で最も好人物だった元書生の和田芳夫

「当人も結婚話とは縁遠くなり、周囲をながめて最も好人物であった和田芳夫と結ばれたのは二八歳の時です」

『追想のひと三淵嘉子』のなかで、嘉子の実弟・武藤輝彦が結婚の経緯についてこのように語っている。

和田芳夫は嘉子の父・武藤貞雄が中学校時代から仲良くしていた友人の親戚だった。武藤家では郷里・丸亀から上京してきた若者を住まわせて世話していたのだが、彼もその中のひとり。苦学して明治大学夜間部を卒業し、貞雄が関係する会社に就職した後も武藤家に住みつづけていたという。長く同じ屋根の下で暮らしていただけに、ふたりは昔から気心の知れた仲ではある。

しかし、手近なところで妥協したというわけではない。芳夫は努力家で優しい性格であり、貞雄やノブからは好人物として気に入られていたようだ。以前から花婿候補として目をつけていたフシもある。花婿の最有力候補として温存し、嘉子がその気になるのを待っていたのかもしれない。

同じ屋根の下で暮らした2人、恋愛結婚だった可能性も

恋愛結婚なのか、親や周囲から結婚を勧められた見合い結婚に近いものだったのか。輝彦の証言だけでは、そのあたりははっきりしない。しかし、何事も民主的に本人の意思を尊重するのが武藤家の家風。嘉子が望んだ結婚相手だったことは間違いない。芳夫のほうはどうだったか、彼が嘉子のことを異性としてどう思っていたのか?

それに関する資料は見つからない。寡黙で思慮深く、慎重に判断する性格だったといわれる。「気が弱そう」といった印象を抱く人もいたようだ。嘉子とは真逆のタイプ。欠点を補いあう良い組み合わせには思える。お互い自分にないものをもつ相手に惹かれあう。そういった感じだったろうか?

嘉子は和田姓となり、新婚夫婦は実家を出て池袋にアパートを借りて暮らした。結婚してから約1カ月後には太平洋戦争が始まり、軍ではさらに多くの兵士が必要になっていた。30歳近い予備役も次々に召集されるようになる。が、芳夫は肋膜炎(現在は胸膜炎と呼ばれている)の病歴があることで徴兵を免れていた。

日本軍による真珠湾攻撃 1941年12月7日(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
日本軍による真珠湾攻撃 1941年12月7日(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
太平洋戦争が始まった当初、夫は徴兵を免れていたが…

肋膜炎は肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる病気で、原因のひとつに結核菌感染がある。徴兵検査の合格者は甲種、乙種、丙種に区分され、結核菌感染と関連する病歴のある者は丙種に振り分けられる。平時に徴兵されるのは甲種と乙種だけ。戦時でも丙種の者が徴兵されることはまずありえないというのが、これまでの常識だった。

毎日のように街のどこかで、出征の兵士を見送る万歳三唱の声が響いていた。その声の数だけ、一家の大黒柱を兵隊に取られて寂しさと不安にさいなまれる家族がいる。戦死報告が届く家も増えていた。それを横目に少し後ろめたさを感じながらも、嘉子は夫との幸福な日々を過ごしていた。

それから1年余りが過ぎると、ふたりにはさらにうれしい出来事が起こる。嘉子の体に新しい命が宿ったのである。

昭和18年(1943)1月1日に長男・芳武が生まれた。前日の大晦日には大本営がガダルカナル島からの撤退を決定し、翌1月2日にはニューギニア東部にある戦略拠点ブナに駐留する日本軍が全滅。戦局の不利が明らかになってきた頃である。物資はますます欠乏し、空襲に備えた防火訓練がさかんにおこなわれるようになった。

結婚後1年で長男を出産し、実家に戻って父母と同居する

人々は勇ましく軍歌を唄って「鬼畜米英」を叫ぶが、その多くは周囲の目を気にして同調圧力にあわせているだけ。戦争の勝ち負けよりも、今度の配給はいつになるだろうか? と、米びつの減り具合のほうが気にかかる。

対米開戦当初は大本営発表を鵜吞みにして楽観していた国民も、この頃になると日本の劣勢を悟り始めている。東京が空襲される。それも現実味をおびてきた。公の場でそんな不安を口にすれば「非国民」のレッテルを貼られかねない。

しかし、家族や親しい者たちの間では、安全をどうやって確保するかについてよく話されるようになっていた。生まれたばかりの赤ん坊がいれば、不安はさらに大きい。それについて実家とも相談したのだろう。芳武が生まれるとすぐに、嘉子たち夫婦は実家に戻って父母たちと司居することになった。

貞雄やノブにとっては初孫である。それだけに大甘であれこれと世話を焼く。嘉子にとってふたりは実の親、気を遣うことなく子育てを手伝ってもらうことができる。不安や労力はかなり軽減されて、のびのびと過ごすことができただろう。独身時代の頃から実家では、弟たちが恐れる「ゴッド・シスター」として君臨していた。結婚後も実家に戻ってからはそんな感じだったのだろうか?

敗戦色が濃くなり、空襲の恐れから都心の家を取り壊される

一方、芳夫にとっては書生として居候していた家である。家主の家族には常に気を遣って暮らしていたはず。その感覚が染みついていただろう。それだけに言いたいことも言えず、妻の尻に敷かれていたのでは……などと、勘繰ってしまう。彼についての資料がみつからず、そのあたりは想像で埋めるしかない。サザエさんの家に同居する夫のマスオさん。そんな感じだろうか。まあ、それも悪くはない。大家族が集まるにぎやかな茶の間、幸福な団樂だんらんのシーンが思い浮かぶ。

昭和19年(1944)になると、都市部では建物疎開が始まった。空襲による火災の延焼を食い止めるために、あらかじめ建物を取り壊して防火帯を作ることを目的としたものだ。戦前の昭和12年(1937)4月に制定された防空法に基づく措置で、東京では5万5000戸が取り壊された。

嘉子たちが住む家もその対象となる。そのため2月には近隣の高樹町に家を借りて引っ越している。笄町こうがいちょうの屋敷と比較すると、かなり小さな家だったという。しかし、狭いながらも楽しい我が家。愛する人々と一緒に暮らす日々に変わりはない。

夫は二度目の召集も病気で解除されたが、嘉子の実弟は死亡

この頃には中高年の予備役や丙種合格者も根こそぎ召集されるようになっていた。芳夫にも6月に召集令状が届いたのだが、この時も肋膜炎の病根が見つかり、すぐに召集解除されて家に帰された。同月には嘉子の実弟である武藤家の長男・一郎が召集され、沖縄の部隊に送られた。その道中に輸送船が沈没して、一郎は亡くなっている。それだけに、夫が召集された時には生きた心地がしなかっただろう。

しかし、正式に兵役不適格者と認められて戻された。これでもう兵隊に取られることはないと安堵していたのだが……。

「絶対防衛圏」は米軍によって破られつつあった

芳夫が召集解除となった6月には米軍がマリアナ諸島に侵攻し、7月にサイパン島が陥落した。米軍は占領した島々で航空基地の建設を進めている。これが完成すれば、東京を含むほとんどの都市がB29長距離爆撃機の攻撃圏内になる。空襲の恐怖が現実化してきた。また、10月にはフィリピンのレイテ島にも米軍が上陸し、台湾や沖縄などにも敵機の襲撃が頻発していた。南方から日本へ資源を輸送するシーレーンが寸断され、国内の物資不足はさらに深刻になっている。

戦況が劣勢になってきた前年の御前会議で「絶対防衛圏」が定められた。戦争継続のため必要不可欠の支配領域を決めて地図に線引きし、その内側には絶対に敵を入れない防衛体制を構築するというものだが、敵はその絶対防衛圏を突破して日本列島に迫っていた。絶対防衛圏の内側に敵を入れてしまえば、もはや戦争継続は不可能……。誰もが解っていることだった。しかし、軍や政府、国民も「停戦」や「降伏」を口にする勇気がない。

ついに三度目の召集で病弱な夫も兵隊に取られてしまう

誰も「止めよう」とは言えず、惰性のように戦いがつづく。もはや軍需物資や人的資源はほぼ尽きていたのだが、常軌を逸した上層部は国力を最後の一滴まで絞りつづけて戦争を継続しようとする。

兵士に不適格とされた者も戦場に送られるようになった。近所を散歩するだけで息を切らすような老兵が、重い装備を担いで戦場を走らされる。芳夫のような病歴のある者も同様、次々に戦場へ送られた。いれば何かの役には立つだろう、と。

昭和20年(1945)1月、芳夫に再び召集令状が届く。今度は召集解除とはならず、兵営に入って戦場へ赴くための教練を受けることになった。体の弱い夫が軍隊の厳しい生活に耐えられるだろうか? 心配になる。また、各地の戦場では部隊の全滅が相次いでいる。戦場に行けば戦死する確率が極めて高い。夫と永久に離れ離れになるなんて、想像しただけでも恐ろしい。

空襲により焦土と化した東京。両国駅付近上空から南に向かい撮影、1945年3月10日(写真=米軍撮影/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
空襲により焦土と化した東京。両国駅付近上空から南に向かい撮影、1945年3月10日(写真=米軍撮影/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
夫の出征後、東京大空襲が起こり、嘉子は疎開を決断する

この後、嘉子には苦難が度重なる辛い日々がつづく。これまで彼女は何不自由なく幸福に暮らしてきた。人の運には限りがあるのか、持っていた運をすべて使い果たしたかのように、人生は暗転する。

青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)

芳夫の召集から2カ月後、3月10日には300機を超えるB29の大編隊が飛来して下町地域を焼け野原に変えてしまう。後に「東京大空襲」と呼ばれ、10万人を超える死者がでる悲劇を生んだ。

このまま東京にいると命が危ない。同月、嘉子は2歳の芳武と戦死した弟・一郎の妻子と一緒に福島県の坂下(河沼郡会津坂下町)へ疎開した。5月25日には山の手方面にも大規模な空襲があり、爆弾や焼夷弾をばら撒く無差別爆撃がおこなわれているからその判断は正解だった。空襲によって嘉子が住んでいた高樹町の借家は焼失、青春時代の思い出がいっぱい詰まった街並みも廃墟と化してしまった。

青山 誠(あおやま・まこと)
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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