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平民宰相と呼ばれた上級武士 原敬

  • 2024.5.11
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近代史の中で個性が光る人物といえば、原敬は外せない一人。外務大臣陸奥宗光の下、政財界で交渉術を研ぐ官僚時代。藩閥政治から、政党政治への道を切り開くべく、立憲政友会では、西園寺公望を神輿に担ぎ、選挙基盤を増やします。交渉術に長けた政治センスは、政党政治を嫌った山縣有朋をも信頼させ、第19代総理大臣となった原敬。その星回りと人生を、今回は追います。

原敬パーソナルデーター

1856年3月15日(安政3年2月9日)生まれ 出生時間不明

出生地 現岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡本宮村)

ホロスコープ(イコールハウスで作成 ASC/MCなし

第1室 本人の部屋 ♓ ♃・♆・☀

第2室 金銭所有の部屋 ♈ ☊R

第3室 幼年期の部屋 ♉ ♇・♅

第4室 家庭の部屋 ♊ ♄

第5室 嗜好の部屋 ♋ ☽

第6室 健康勤務の部屋 ♌

第7室 契約の部屋 ♍

第8室 授受の部屋 ♎ ♂R

第9室 精神の部屋 ♏

第10室 社会の部屋 ♐

第11室 友人希望の部屋 ♑

第12室 障害溶解の部屋 ♒ ♀・☿

北半球の第12室~第5室までの各部屋に、10天体。南半球に天体は1つ。金も物も天下の周りもの、授かり物な第8室に、♂R。バケット型のホロスコープです。

東半球と西半球では、東の方が天体の数が多いですね。人一倍の努力家。目的に対して素直すぎるため、よほど相手の筋が通っているか、実力差がない限り、頑固を貫き、譲るという事はないでしょう。激しい口論も辞せず。

人脈や人気も第12室に金運と対話。仕事の♀☿コンビ。見せないつながりや所得を生み出すことも可能。駆け引きのうまさとキャラが立ち、順風満帆な人生を送るというよりは、利するとなれば正当性よりも、実を取る清濁の使い分けをすることあり。

実際、原敬は清廉潔白な一面と、利権屋の顔を持ちます。その辺りは、浄化効果と人の心にすっと忍び込む不思議さを持つ♓☀/♃/♆効果。12室の♀・☿。第2室の ☊Rに、第8室の♂Rが効いているからかもしれません。なお、オポジションは、第2室の ☊Rに、第8室の♂Rのみ。

原敬略年表(Wikiを含む多数のネット資料を参考に作成)

1856年3月15日(安政3年2月9日)盛岡藩側用人原直治・リツ夫妻の次男として誕生。 幼名は健次郎。

1865(慶応元)年 父直治病死。家督を継いだ兄平太郎は12歳。

1868(慶応4・明治元)年 盛岡藩は幕府側に就いたことから、20万石没収。原家は困窮家庭となる。

1871(明治4)年 廃藩置県が行われる。12月に上京。那珂通高(盛岡藩の儒学者)が開く私塾を経て、南部氏(盛岡藩主)が運営する共貫義塾に通うが、合わないことから旧会津藩士の開く私塾に移る。実家が盗難に遭う。

1872(明治5)年7月 学費の捻出困難のため、一旦帰省。この時、兄弟全員が改名する。朱子学の入門書「近思録」から名前をとり、自ら敬(たかし)と改めた。9月 海軍兵学校を受験するが不合格。11月 麹町一番町天主教会神学校で、マリン宣教師からラテン語を習う。

1873(明治6)年4月 洗礼名「ダビデ」のを受礼。横浜のエヴラル神父の元に移り、キリスト教を学び、代わりに漢詩を教えた。

1874(明治7)年 エヴラル神父に従い、新潟へ移動。キリスト教の布教活動を行う。

1875(明治8)年5月 帰省。原家は家禄を奉還際にもらった一時金で、養蚕を営んでいた。

再度の遊学が可能となると、敬は分家して戸主になり、平民籍に編入される。10月 再上京は蘭学者箕作秋坪の英学塾三叉学舎に入学。

1876(明治9)年9月 司法省法学校受験 受験者数2番で合格。入学後は、101名中、10位と成績は良好だった。

1879(明治11)年2月 寄宿学校の待遇改善を求める運動に連座し、退学処分となる。中江兆民の仏学塾で仏語を習いつつ、民権派の新聞に寄稿し、生計を立てる。11月 郵便報知新聞社に入社。

1881(明治14)年 10月 明治14年の政変起きる。大隈派による郵便報知新聞社買収。矢野文雄を社長に据え、犬養毅と尾崎行雄が乗り込んでくる。原の上司は退職。

1882(明治15)年1月26日 紙上で退職を宣言し、郵便報知新聞社を退職する。4月 政府広報として発刊「大東日報」の主筆となる。神戸へ移動。10月 意見対立から、「大東日報」退社。その後、外務省御用掛けとなる。

1883(明治16)年7月 太政官文書局を兼務。11月26日天津領事として清に派遣される。12月 工部省大書記官中井弘(旧薩摩藩士)の娘、偵子と結婚する。

1884(明治17)年1月 天津着任。8月 清仏戦争(翌1885年4月迄)・京城の変を適時的確に、本国へ報告。12月4日 甲申事変 伊藤博文に同行。

1885(明治18)年5月9日パリ公使館付書記官に任命される。7月天津より帰国し、12月パリに出発。

1892(明治25)年3月 陸奥宗光が農務省大臣を辞職。原敬もこれに続く。7月 第二次伊藤内閣成立。陸奥宗光、外務大臣に就任。原敬、通商局長として外務省復帰。領事裁判権の撤廃・外務省改革に従事する。

1895(明治28)年 外務次官となる。病身の陸奥宗光に代わり、外相として活躍。

1896(明治29)年6月 陸奥の離職に伴い、駐朝鮮公使となる。10月 第二次松方内閣成立。大隈重信が外務大臣となり、外務省離職を決意し帰国。

1898(明治31)年 大阪毎日新聞社社長就任。

1900(明治32)年9月 立憲政友会結成。入党。大阪毎日新聞社を退社。12月 星亨の後任として、第四次伊藤内閣の逓信大臣に就任。

1901(明治34)年 逓信大臣辞任。

1902(明治35)年8月10日第7回衆議院議員選挙に出馬。初当選。12月 予算委員長となる。 1904(明治37)年 松田正久と二輪三脚で、立憲政友会の中心となる。2月 日露戦争勃発。

1905(明治38)年 古河鉱業副社長に就任。桂太郎と密談。偵子と正式に離婚。

1906(明治39)年1月7日第一次西園寺内閣。内務大臣に就任。古河鉱業・大阪新報社を辞任。

1908(明治41)年1月4日逓信大臣兼任。7月14日内務大臣辞任。8月24日 米欧渡航。

1909(明治42)年 伊藤博文ハルピンで殺される。

1911(明治44)年8月 第二次西園寺内閣。内務大臣就任。鉄道院総裁を兼務。

1912(明治45・大正元年)12月西園寺内閣総辞職。内務大臣を辞任。

1913(大正2)年2月20日 第一次山本権兵衛内閣内務大臣就任。

1914(大正3)年3月24日 シーメンス事件により、山本内閣総辞職。内務大臣就任。6月18日 立憲政友会総裁に就任。7月 第一次世界大戦勃発。

1917(大正6)年4月20日総選挙で立憲政友会が、第一党となる。

1918(大正7)年8月富山の米騒動。9月29日原敬内閣発足。(初の政党政治内閣)10月四大政綱を発表。

1919(大正8)年4~8月 植民地長官を文武官併用に改正。

1920(大正9)年2月26日普通選挙法案で議会解散。戦後恐慌始まる。5月総選挙で政友会大勝。

1921(大正10)年11月4日東京駅でテロに遭い刺殺される。

原敬 惑星年齢history

☽年齢域 0~7歳 1856~1863 安政3年~文久3年

1856年3月15日(安政3年2月9日)陸奥国盛岡城外本宮村に住む盛岡藩士原直治・リツ夫妻の次男として、原敬は誕生します。幼名は健次郎(本編は、原敬もしくは敬で表記)

近江浅井家の流れを汲む原家は、江戸中期に南部家(盛岡藩主)へ仕えます。敬の祖父原直紀は、盛岡藩の家老職。父直治は側用人。父が家督を継いだ頃は、227石の裕福な上級武士の家でした。故に原敬、お坊ちゃんなのですが、彼が生まれる頃は、既に日本は開国し、国内は佐幕と尊王攘夷に別れて物々しい空気が漂っていたのです。

1856(安政3)年の暮には、第13代将軍徳川家定と篤姫の婚儀が行われますが、1858年(安政5年)には病身のため、徳川家茂が第14代将軍となり、井伊直弼が大老職に就きました。この年はついに日米修好通商条約が結ばれ、日蘭修好通商条約。日露修好通商条約等も結ばれています。孝明天皇をはじめ、外国人を快く思わない人たちは、攘夷を叫び、国中が集団ヒステリーを起こす中、外国との国力差を実感する幕府は、板挟みになっていったのでした。

☿年齢域 7~15歳 1863~1871 文久3年~明治4年

幕末動乱期~明治新政府へと移り変わる動乱期。原敬はよく学び、よく遊ぶ子供時代を迎えますが、祖父の死去後、1865(慶応元)年には父直も死去。家督を継いだ長兄の平太郎は、12歳。原敬は9歳でした。

1867(慶応3)年に第15代将軍となった徳川慶喜は、大政奉還を行います。国内紛争の長期化が、海外からの侵略の危険率を上げること。長年に執務をしてこなかった朝廷に実権が戻っても、政治的なことを含め、すぐには何もできない。成熟した機能を持つ徳川幕府が、これまで通りに政治と経済を担当することを踏まえて、長きにわたる徳川家の政権を、朝廷に返しました。

これに矛を収められなかった薩長土肥の志士たちの煽りによって、鳥羽伏見の戦いが勃発。勤皇派が担ぎ出した錦の御旗が、彼らを官軍。旧幕府側は賊軍に分け、戦乱は戊辰戦争へと拡充したのでした。幕府側に就いた盛岡藩は、1868(慶応4・明治元)年 20万石没収。新政府への謝罪のために上納する金を、藩士にも負担を強いる状況でした。

大黒柱を失った原家を切り盛りしていた母のリツは、藩の一大事に、家財道具を売って得たお金を献上したそうです。家禄も減り、一気に困窮家庭となった原家ですが、リツは、7人の子どもを養い、教育費を捻出するため、菓子商売等を行い働きました。その母の背を見て、原敬は少年時代を過ごしたのです。

1870(明治3)年。藩校作人館修文所に入学。成績は優秀で、翌1871(明治4)年には、那珂通高(盛岡藩の儒学者)が開く私塾を経て、南部利恭(盛岡藩主)が設立した共貫義塾に通うため、12月に上京しました。

国が大きく変わる時代の転換点。(T進行中の星・N誕生時の星)

☽・☿・♀といった日運、月運の星たちの動きも気になりますが、シビアな変化というのは、年運の星♃(拡張)♄(収縮)も気になるところ。

1868年♃は♓を進み、11月の後半に♈へ移動。♄は♐に入り、約2年半かけて♑へ移動。

♅は♋の中を、行きつ戻りつ時代の殻を割る。♆は♈。♇は♉を進み、いかにも時代の転換点な配置。因みにT♃は、原敬のN♃と緊張角度。N♇と合。T♄は彼の☀と調和。N♃と合。N♇と緊張角度。T♅は、彼の♄を圧迫。さらにN♆が♉を進む♇に押される重い配置。徳川(旧幕府軍)に就いた藩は、敗者の悲哀を味わう側となるので、無理からぬところですが、原敬の☀☿は、♓。♃が♓から♈に入るこの1年。守られた部分もあったのでしょう。

東京に上京した1871年12月は、♃は♋の終わりから獅子座へ移動。N♃とは調和。爆変化を好む♅がR中とはいえ、これも調和。だからチャンスは到来している。♄は♑を進み、これが原敬のN☽と合。N♂・♄と緊張角度。移動変動あり。おまけにN♄とT♆の合が、溶かし効果なので、騙されてお金を取られる。実家に戻れば盗難という災難があるのも、読めます。

♀年齢域 15~24歳 1871~1880 明治4~13年

原敬の☿年齢域と、♀年齢域が交差する1871(明治4)年は、廃藩置県が行われたこの年、折角上京したところ、学費をだまし取られるアクシデント発生。1872(明治5)年7月敬が帰省すると、翌年実家が盗難に遭うという、あまりの不運が続いたこともあるのか、兄弟全員が改名します。

朱子学の入門書「近思録」から名前をとり、自ら敬(たかし)と改めて、ここから原敬となるのでした。

東京に上京した1871年12月は、♃は♋の終わりから獅子座へ移動。N♃とは調和。爆変化を好む♅がR中とはいえ、これも調和。だからチャンスは到来している。♄は♑を進み、これが原敬のN☽と合。N♂・♄と緊張角度。移動変動あり。おまけにN♄とT♆の合が、溶かし効果なので、騙されてお金を取られる。実家に戻れば盗難という災難があるのも読めます。

その後、海軍兵学校を受験しますが不合格となり、同年11月再度上京。麹町の一番町天主教会神学校(カトリック系)に、塾生として入りました。

当時、実家が薄い苦学生は、食費と住まいを用意してくれる学びの場として、布教を目的とした教会にお世話になるケースがあったのです。なので、原の選択は、珍しいことではなく、キリスト教を学びつつ、フランス人宣教師マリンから、ラテン語を習い始めました。

約半年後の1873年4月。原敬は洗礼名「ダビデ」を受礼します。この時はまだ多感な17歳ですから、殉教者の話等に純粋に感動し、傾倒してもおかしくはありません。さらに、拠点を横浜に移した原敬は、エヴラル神父の元で、フランス語とキリスト教の教えを受けながら、神父に漢書を教えるという、相互学習をしたそうです。エヴラル神父は、信仰だけでなく、非常に博識な人で、欧州史・文化・政治なども、惜しむことなく教えてくれたそうです。その後、約1年。新潟で宣教活動をおこなったのでした。神父との伝道活動は、原にとって、キリスト教が宗教的思考を含め、精神的影響はあったのではないかと推察。

1875(明治8年)5月故郷に帰った原敬に、二つの変化が起こりました。

家禄を奉還した実家が、受け取った一時金を元に、養蚕を手掛けたことから、経済が回復し、再び遊学のチャンスができたこと。

もう一つは、原敬自身の分家と「平民籍」です。 再度の上京に伴い、実家から分家して戸主となるのですが、その理由は明確ではありません。そのため、徴兵制がまだ緩かったこの当時、戸主や長男は逃れる事が可能だったから。という説もありますが、彼が帰省する前年に、華族・士族の家から分家した者は、平民籍になる制度が確立したので、制度が理由の可能性もあり。いずれにせよ、後に彼が、「平民宰相」と言われた所以は、ここで士族から「平民籍」に移ったことにあります。

同年10月。再上京した原敬は、蘭学者箕作秋坪の英学塾三叉学舎に入学し、翌1876(明治9)年9月には、司法省法学校を受験。受験者数2番で合格します。入学後は、101名中、10位と成績は良好でした。

1879(明治11)年2月。寄宿学校の待遇改善を求める賄征伐運動に連座し、退学処分となったのでした。一緒に放り出された福本日南らと、しばらく自堕落な生活をしていましたが、やがて中江兆民との縁で、彼の仏学塾で仏語を習います。その傍ら、糧を得るため、民権派の新聞に寄稿。これが呼び水となったのか、同年11月。同郷の幼馴染・阿部浩のツテから、中井弘の斡旋を受けて、郵便報知新聞社に入社しました。

曲折のある♀年齢域でしたが、原は常に体当たりで、学問を習得し、知力・技術・伝播力を使って、社会に出たのです。郵便報知新聞社は、自由民権運動に寛容な社風で、原の主だった仕事は、翻訳でした。♀年齢域から☀年齢期に入る1880(明治13)年頃には、論説記事も手掛けるようになります。

☀年齢域 24~34歳 1880~1890 明治13~23年

自由民権運動花盛りなこの頃、急激な民権論が世の注目を浴びますが、原敬の主張は、福沢諭吉に近い官民調和論でした。

1881(明治14)年の5~10月まで、官僚の渡辺洪基と共に、全国周遊旅行へ出ています。これは原敬が強く望んで実現したことですが、133日の遊説旅行を通して、全国各地の政治・産業の在り方等、実態を観察し、新聞に連載しました。とても有意義で順調な時間でしたが、明治14年の10月といえば、「明治十四年の政変」です。

急進的な国会の開設を訴えて、現実路線の伊藤博文と対立した大隈重信が、政府から追放された、あれです。自身の一派と共に、政府から離脱(=追い出された)した大隈は、立ち上げた「立憲改進党」を世間へアピールする拡張機能として、郵便報知新聞社を買収。矢野文雄を社長に据えて、犬養毅と尾崎行雄が、乗り込んできたのでした。 懇意だった上司は退職し、社風が変わる中、大隈と意見の合わない原敬は、1882(明治15)年1月26日。紙上で退職を宣言し、郵便報知新聞社を退職します。

捨てる神あれば拾う神ありで、行き場を失った原敬に、手を差し伸べたのは、伊藤博文と共に、大隈を政界から追い出した井上馨でした。3月に「立憲政帝会」へ入党した原は、政府広報として発刊する「大東日報」の主筆となるため、神戸へ移動したのです。

板垣退助の「自由党」。大隈重信の「立憲改進党」への抵抗から、東京日日新聞社長の福地桜痴らが立ち上げた「立憲帝政党」は、藩閥政府側の政府系政党でした。なので、原敬とは根っこが違い、やはり意見対立から、10月には「大東日報」を退社します。しかし、約8か月間は明治の元勲や、大阪の財界とのパイプ作りとなりました。原は一旦郷里へ帰りますが、フランス語話者が不足していたこの時代は、彼を放っておくことはなかったのです。外務卿井上馨の引き立てによって、同年11月21日。外務省御用掛けとなりました。ジャーナリストから、官僚への道が開いたのです。

1883(明治16)年7月太政官文書局を兼務します。ベトナムを保護国化していたフランスは、ずっと清を狙っていました。きな臭さが増す11月。天津領事として、清に派遣される事が決まりました。すると「外交官は妻を伴い、赴任した方がいい」と言い出す井上卿。

工部省大書記官中井弘の娘、偵子と結婚話が浮上します。(旧薩摩藩士で、以前、郵便報知新聞社を原敬に斡旋した人物)

原敬は27歳。迎える妻偵子は14歳。完璧な年の差夫婦。

ジェネレーションギャップもさることながら、中井の元妻が、井上の妻だった経緯もあって、偵子の出生については、中井の娘だけど、父は井上馨(長州藩)という噂が出回っていたのです。(逆バージョンもあり)

当時原には、吉原芸者の恋人がいました。この婚姻によって、原敬は藩閥グループの一員となるのです。賊軍藩出身の身としては、まさに好機。断るのも難しい原の立場を察した女性は、彼の出世のため、身を引きました。

女学校を中退した偵子は、原の元に嫁ぎ、夫婦そろって天津へ向かったのです。

1884(明治17)年の1月に、天津着任。ずっと暮らしていた東京と、環境の違う天津に大ショックな偵子。癇癪を起す都度、夫におんぶしてもらうという、生活が始まったのでした。

同年8月には、遂に清仏戦争が起こります。終戦となる翌1885(明治18)年4月迄の間、は京城の変を適時的確に、本国へ報告した原敬。速やかな伝達力と質の高さを、伊藤博文は評価しました。甲申事変によって悪化する清との関係修復のため、李鴻章と天津条約を結ぶ際、原を同行させたのです。伊藤の高い外交技量に感銘する原敬は、ここで政治の魅力も知ります。

1885(明治18)年5月9日。原はパリ公使館付書記官に任命されました。原の情報収集能力。分析力の高さを認めた伊藤の推薦による人事ですが、まさに☀年齢期らしく、業績に対して大きな答えが帰ってきましたね。7月天津より帰国し、12月にはパリへ出発します。

1886(明治19)年1月13日パリ赴任。フランス語が使えるといっても、堪能とは言えない自覚のある原敬。1年間を語学学習に充てることを願い出て、公務のウェイトを軽くしてもらう事も了承済みでしたが、駐仏大使の蜂須賀茂韶は、なんと4ヶ国兼務。めちゃくちゃ多忙だったのです。そうなれば文句も言えず、事務作業以外に、公使代理等も、やらざるを得ない状況でした。

1887(明治20)年事務能力の高い田中不二麿公使が着任したことで、兼務国が2国となり、負担が軽減された原は、パリ政治学院の科目履修生国際公法を学びました。一緒に旅行を楽しむ時間を作ることも可能になったので、妻の貞子をフランスに呼び寄せます。18歳となった偵子は、フランスの社交界で持て囃されました。

大日本帝国憲法が発布される1889(明治22)年4月原夫妻はフランスから帰国します。 時の外務大臣が大隈重信だったことから、外務省に身を置くことができない原を、農商務大臣の井上馨が引き取り、帰国後は、農務省参事官となりました。農商務省には、有力官僚前田正名がいて、まったく馬が合わず、地道に秘書官の仕事をこなす日々が続きます。パリで過ごした華やかな生活が消え、偵子には大きな不満の種となりました。

♂年齢域 34~45歳 1890~1901 明治23~34年

翌1890(明治23)年は、原敬の☀年齢域と♂年齢域が交差する年ですが、ここで大きな変化が訪れます。5月。新たに農商務大臣は、紀州藩出身の陸奥宗光でした。藩閥政治に対し、批判的な見解を持ち、合理主義者の陸奥。列強国と東アジアの植民地支配による環境変化と、日本・清国の国力差。相互の利害関係を把握している原は、すっかり意気投合。陸奥の秘書官となった原は、一緒に農商務省の内部改革を進めたのです。

同年7月第1回衆議院議員選挙が行われ、陸奥宗光は和歌山地区から出馬して当選。日本史上初衆議院議員の閣僚となりました。

1892(明治25)年3月。陸奥宗光は農務省大臣を辞職。原敬も続けて辞職します。

元老や貴族院の意向は、まだまだ強いものの、帝国議会が開かれる今は、選挙で国民に選ばれた民党(自由民権運動勢力)が、多数の議席を確保。予算審議も法律も、彼らの協賛がないと、成立しなくなりました。

藩閥政治だけで国を引っ張る事に、限界を感じた伊藤博文が、政党を立ち上げるのは近く、その政党で中心になるのは陸奥宗光と、踏んでいた原敬は、陸奥についてゆく事を選んだのです。

読みは間違ってもいないのですが、簡単には具現化しませんでした。

同年8月8日第二次伊藤内閣が成立。陸奥宗光は外務大臣に就任。原敬は通商局長として、外務省復帰を果たします。

1894(明治27)年7月16日イギリスと「日英通商航海条約」を締結。陸奥と原は、幕末期からの日本の悲願だった、領事裁判権の撤廃に成功。同月25日に勃発した日清戦争においては、イギリス・ロシアと好意的な中立を獲得する「陸奥外交」を展開。原敬は、国内で外務省改革に従事。外交官試験の導入も達成しました。

日清戦争に勝利した日本は、1895(明治28)年4月17日。清国と「下関条約」を交わします。

陸奥宗光は伊藤博文と共に、全権大使として会議に参加。調印後のわずか6日で、ロシア帝国・フランス、ドイツ帝国による「三国干渉」が起こったのでした。

勝ち戦と条約締結に沸く日本に、「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げになる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」という言いがかりを、大国が徒党を組んで持ち込んだのです。

緊急御前会議が開かれ、列国会議を招集して、この問題を処理する方針を固めました。

勝ち戦の勢いもあり、一戦交えてみてもという意見も出ますが、真っ向から反対したのは、陸奥宗光でした。

患っていた結核が悪化し、舞子で療養生活に入っていた宗光は、見舞いに来た伊藤を前に、いざとなれば武力行使も辞さない列強三国の軍事力に、今の日本軍が勝てるわけがないと、現実的な判断を告げます。

こうして日本政府は、清と再交渉の末、苦渋を飲み込みながら、清に遼東半島を返還しました。

伊藤と共に「下関条約」をまとめた陸奥の悔しさは、非常に強かったと思います。事情を知らない民衆は、戦うこともなく、三国の言いなりになった日本政府に、怒声を上げました。

この頃外務次官となった原敬は、病状思わしくない陸奥に代わり、外相を勤めています。

1896(明治29)6月陸奥の辞職が認められると、原は朝鮮公使となりました。

9月18日には、第二次松方内閣が発足。外務大臣は西園寺公望から、大隈重信に代わりますが、まるで節目時のように、原は私生活も心中穏やかでない事が起きます。

それは偵子の不貞でした。この頃は既に郷里から母のリツ。姪の栄を呼んで暮らしていましたが、夫が留守がちな日々。偵子は家のことは何もせず、特に咎められることもないため、一人で温泉旅行に行ったり、自由にしていました。しかし、自宅に不倫相手を招いたとなると、さすがに偵子、やりすぎです。まじめに働く夫の立場からすれば、やるせないですね。

それでも即離婚ではなく、この時は別居を選択します。やがて原は自宅に妾の菅野浅を加えて、同居を始めました。

1897(明治30)年8月24日陸奥宗光が死去します。その一週間後の9月1日。駐朝鮮公使を離職原敬したは、外務省も辞職して大阪に向かいました。

陸奥宗光を尊敬する原敬は、宗光夫人と家族を支援するだけでなく、「打倒藩閥」の精神と、彼が英国で学んだ本政党政治を、受け継ぐ決意を固めたのです。まずは 宗光のアドバイスに従い、大阪毎日新聞の編集総理(編集長)となりました。

年棒5,000円という破格の待遇で 編集長となった原敬。15銭の牛肉弁当を、よく食べて毎晩遅くまで働いたことから、「ウシ弁」というあだ名がつきます。速報性よりも、正確性を重視した体制を布き、婦人記者の採用も積極的に進め、家庭欄の充実を図ったのです。おかげで購買は、3倍に増え、2年後には、大阪毎日新聞社社長となります。

忙しい中でも毎月のように上京し、政財界の要人と歓談を儲けました。井上馨はもちろん、政党政治を嫌っているはずの山縣有朋ともよく会い、フランス留学帰りの西園寺公望とも顔なじみ。

政界・財界にパイプを持ち、新聞社の頭を張る原を、周りも放っておくはずはなく、人脈は一段と広がります。

憲政会(旧自由党系)の実務を仕切っていた星亨らと、連携した伊藤博文は、ようやく政党作りに乗り出し、原敬は組織運営に関する事務を、一任されました。憲政党の他、帝国や、日吉クラブといった会派の賛同をまとめ、多くは、社長・弁護士・銀行頭取といった社会的有力者に、入党打診をしたのです。

こうして1900(明治33)年9月15日。伊藤博文を初代総裁として、立憲政友会(略称政友会)が結党。10月19日には、第4次伊藤内閣が発足しましたが、党の創設委員にも、組閣当初にも、原敬の名前はありません。

これは原敬と大阪毎日新聞社の間で、離職を巡って揉めたのが原因。原が新聞社の社長を辞めるにあたり、次の社長に選ばれたのが、なんと矢野文雄でした。かつて大隈が郵便報知新聞社を乗っ取り、送り込んで人物が、自分の後釜になる。原にとっては、どうにも許せない人選だったのでしょう。こだわって渋っている間に、乗り遅れてしまったのです。

入閣を期待していた原敬は、大阪毎日新聞社長の辞任と同時に、憲政会の総務委員に任ずる。成されない場合は、これまでの経緯を公表すると、西園寺に迫まった結果、12月中旬。総務委員賢幹事長というポストに治まりました。数日後の12月21日。

汚職事件の責任を取って、星亨が辞任したことから、逓信大臣の椅子に座ることになり、第4次伊藤内閣の閣僚となったのです。

♂年齢域をまとめる最後の年と言える1900年9月15日。政友会発足時の星回りを観てみると、T☀/☿は♍を航行。原敬の♓N☀♆♃の三連星と対角となります。♆が入るため、どうしてもぼかし効果が発生し、努力をしても今一つどこか定まらない。

さらに♊のN♄と♐を進むT♄も180°。柔軟宮の十字となっているので、これもスキっと終わらせて次に行くというより、真綿で締め付けるようなグズグズ感。♊にはT♇もあり、これが原の♄と合なので、完全に新旧交代劇。新たなことを始めるので、生みの苦しみともいえるかもしれません。

救いなのが、T♇に、♎N♂・♒N♀による風の調和でしょうか。いずれにしても、順風満帆とは言い難いものがありました。

外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣以外の閣僚は、政友会が占めた第4次伊藤内閣でしたが、内部の意見はバラバラ。まとまらない政友会にも問題はありましたが、山縣有朋は、党内の方向性が固まっていない。何事も準備不足な政友会を、しくじらせるため、第二次山縣内閣を辞任する際、あえて内閣を伊藤に任せたのでした。案の定、議会は紛糾します。

原は鉄道敷設法改正に取り組みますが、貴族院の反対で却下。さらに原の♂年齢域と♃年齢域が交差する1901(明治34)年3月。義和団の乱の軍事費捻出を巡り、渡辺国武大蔵大臣と、原は対立します。原敬の名声は上がりましたが、6月2日。第4次伊藤内閣は解散となりました。

次に勅命が下ったのは、山縣の腹心であり陸軍大臣の桂太郎。政友会は野党となります。

♃年齢域 45~57歳 1901~1913 明治34~大正2年

原は伊藤に総裁でいるよう説得。政友会を立て直すために奔走しました。しかし、星亨が暗殺され、伊藤博文は洋行に出かけてしまいます。これは日露戦争回避のため、欧米列強に向った交渉の旅でした。が、伊藤がいない状態は、党として好ましくなかったのです。

尾崎雄行と松田正久は、桂との折衝がうまくいかず、暗礁に乗り上げる状況でした。

1902(明治35)年8月10日。第7回初衆議院議員選挙が行われ、原敬は生まれ故郷の盛岡から出馬。政友会は第一党を維持。原は前市長を抑えて初当選という結果を得ました。

盛岡につながる鉄道線が、地元票につながった説もありますが、選挙演説を聞きに集まった聴衆に向かって、原が語った内容は、国際環境の変化に目を向け、欧米勢に負けないよう尽力する事。政治家のみが国家に対して義務を果たすのではなく、どのような職業や地位にあっても、選挙権がなくとも、すべての国民は国家を重視するべきというものでした。

こうして♃年齢域に入り、原敬は政党政治家となったのです。

翌1903(明治36)年の第8回衆議院議員選挙では、選挙区一致の支援得て当選。(以降、7回。無投票当選が続くのです)政友会は第一党を維持しました。ところが、伊藤と党員の対立が激化。原か松田は伊藤と党員の間に入り、党内が分裂するのをどうにか抑えたのです。

伊藤を党から追い出せば、政友会は総崩れになる。そう考えた山縣が、伊藤を枢密院議長に祭り上げる画策した事もあり、とうとう伊藤博文は、次期総裁に西園寺公望を指名して、党を去りました。

同年7月政友会は、第2代総裁に西園寺公望。原と松田が筆頭幹部となり、新体制で再スタートします。原敬が鉄道施設の利益誘導と引き換えに、支持獲得を目指す集票手法を行ったのは、この時でした。功を奏して政友会は勢力の拡大。結束も強めてゆきます。

1904年(明治37)年2月日露戦争が始まりました。元々7倍の国力差がある国を相手にした戦争が、安易に進むわけがありません。原は政友会の幹部として、感情的な反露主義は控えることを主張。日に日に陸海両軍の緊張感が増す中、同年11月頃から、西園寺・原・松田の三人と、時の総理桂太郎は、密会を重ねます。

「戦争終結後は、西園寺総裁に政権の座を譲る政友会に譲る」という話をまとめ、以降、政友会は政府に歩調を併せました。これが1913(大正2年)約10年あまり続く、桂園時代の幕開けでもあります。

1905(明治38)年3月陸軍は奉天会戦を勝利。5月海軍は日本海海戦を勝利。日露戦争は日本の勝利で幕を閉じました。空前の勝利に世界がわく中、同年9月5日ポーツマス条約が締結されますが、日本はロシアから一銭も賠償金を得ることができなかったのです。

日清戦争同様に、勝ち戦なのに賠償金を得られないことに、国民は激怒。全国各地で政府批判デモが行われます。政治団体や政党からも、講和反対運動が起きました。原敬は、桂との密約を守り抜き、政友会の党員を動かさなかったのです。最も大きな暴動となった「日比谷焼き討ち事件」ですが、この暴動にも加わることは、ありませんでした。

時勢的な緊張の強い年ですが、私生活ではついに偵子との離婚が確定します。

別居後に、一度戻ってきた偵子ですが、家には後妻となる菅野浅(姑のリツ公認)もいる状況でした。堅苦しい原家の生活に嫌気がさした偵子は「少しの間、保養に行く」と云って、出かけます。これまで同様、夫から咎められることのない偵子は、このまま黙って愛人との間にできた子どもを、保養先で産むつもりだったのです。

ところが、現地に着くと、原が作成した離縁状を携えた使いの者が訪ねて来ました。タカを括っていた偵子ですが、不貞が全てバレたため、申し開きはできず、ようやく離縁が成立。原は悪妻と縁を切ることができました。この後、偵子と生まれた子どもに対し、彼は経済的支援をしたそうです。

1906(明治39)年1月7日政友会総裁西園寺公望は総理となり、第一次西園寺内閣が発足。

内閣全てを政友会で固めるのは、さすがに難しく、西園寺は内務大臣に原敬。司法大臣に松田正久を入閣させることで、手を打ちます。堂上公家の西園寺公望は、山縣をはじめ藩閥議員、貴族院との交渉を担当。党内で人望のある松田は、不穏分子の取りまとめを行います。

原は山縣寄りの長州閥官僚を追放、政友会寄りの官僚を任命することで、各省内の変革を勧めました。地方改革にも手を伸ばしますが、貴族院や憲政本党の反対で進みませんでした。何事も政策をもって、山形閥と渡り合う姿勢は、原の評価に繋がります。若い官僚たちとの意見交換も行い、会食会などでは、機密費を使わない身ぎれいな姿勢も見せますが、午後から登庁し、夜まで仕事というスタイルに、周囲は不満を抱いたそうです。

1907(明治40)年6月赤旗事件で、社会主義の浸透が問題となりました。

山縣は明治天皇に西園寺内閣の社会主義者への対応の甘さを進言。西園寺は、実兄であり、侍従長の徳大寺実則からも、苦言を聞かされ、政権運営への意欲がトーンダウン。さらに原の内務省と地方の改革は、勢力の均衡を第一とする元老たちには、強行すぎに見えたのも要因でした。

選挙で政友会は勝利したばかりなだけに、原も松田も止めましたが、病気を名目に西園寺は、辞意を求めます。次の総理に桂を指名し、1908(明治41)7月14日西園寺内閣は総辞職。第二次桂内閣が発足しました。

総理の任命は、元老会が行っていましたが、今回の人選は、元老会抜きで進みます。桂を選んだのは元老の一人西園寺公望。選ばれたのは山縣閥の桂なので、異論がなかったのでしょう。

尚、この年の1月、原敬は再婚しています。

あまりにも身分が違うからと、遠慮をする浅を、姑のリツも説得して入籍が進んだのでした。

8月下旬から、約半年近く、欧米外遊に出かけます。桂内閣は政友会の協力の下で、議会対策を行い、桂園時代が続きます。長年衆議院第二党の憲政本党は、再編に向けて動き出しました。

1909(明治42)年ハルピンで伊藤博文が、安重根に殺害される事件が起こり、日韓併合が加速する翌1910(明治43)年。5月には皇室が狙われる逆事件(幸徳事件)が発生します。赤旗事件の際、革命分子への対応が甘いと指摘を受けた西園寺内閣が、総辞職しているだけに、山縣をはじめとする元老は、この事件で面目丸つぶれとなりました。 1911(明治44)関税自主権の回復を、小村寿太郎がやり遂げた後の8月30日。第二次桂内閣は解散。同日第二次西園寺内閣が発足。西園寺は第14代内閣総理大臣となります。

原の♃年齢域を仕上げる1912(明治45)年7月29日。明治天皇崩御。7月30日に元号が「大正」と代わる歴史的一大事が起きました。

行財政改革等を進めたい西園寺内閣ですが、陸軍から願い出ている二個師団増設問題が、政権を追い詰めました。師団とは、歩兵連隊と諸兵科で組織される軍部隊です。これを増やしたいという話で、財政難を理由に、西園寺内閣は反対しました。すると政権の陸軍大臣上原勇作中将が、12月2日。陸軍大臣を辞任します。

この当時の陸軍大臣・海軍大臣は、現役の中将か大将だけしかなれない「現役武官制」。就任できないままだと、組閣ができないため、内閣を解散しなければなりません。

このルールを利用して、陸軍は西園寺内閣から、師団増設のOKの返事を引き出すため、後任の陸軍大臣を出しませんでした。結果、タイムオーバーを迎えた西園寺内閣は、閣僚が足りず12月5日総辞職するのです。

内閣が退陣に対する世間の批判は、軍部に向くと考えた原敬。陸軍に対し、特に抵抗や反抗的な言動は、取りませんでした。この予想は当たり、世論は軍部と藩閥へ批判を浴びせ、これが燻っていた護憲運動に、火をつけたのです。

1912(大正元)年12月21日第三次桂内閣が成立。桂は元老や藩閥の反映ではない、新党「立憲同志会」を立ち上げ、運営をする準備をしていました。しかし、ヒートアップした庶民は、彼の声を聴くことはなく、そこに政友会党員の尾崎行雄。立憲国民党党首の犬養毅が煽り、護憲運動が過熱。原の♃年齢域と、♄年齢期が重なる1913年(大正2)年2月11日。第三次桂内閣は、総辞職となりました。

これは民衆の力が内閣を倒閣した「大正政変」と呼ばれてもいます。

♄年齢域 57~65歳 1913~1921 大正2~10年

国民から藩閥政治にNO!を突きつけられた日本政府。政党嫌いの山縣は、薩摩閥の山本権兵衛に、組閣を命じました。日露戦争で、日本海軍を勝利に導いた海軍大臣山本は、政党に理解を示していましたが、政治家ではないため、衆議院の基盤を持ってはいません。

当然、政治運営には不安があり、そこに原は協力をもちかけたのでした。

「陸海軍大臣と、外務大臣以外のポストは、政友会の党員。もしくは党員になる事」

ムシのいい投げかけに、節操がないと批判も出ましたが、1913年2月20日。

総理大臣・外務大臣・陸海軍・海軍大臣以外のポストは、全て政友会党員の山本内閣が発足します。原は内務大臣に就任しました。

日露戦争を財政面からサポートするため、世界を相手に交渉した大蔵大臣高橋是清が、政友会に入党します。発足早々、軍部大臣現役武官制の規定を改め、予備役から軍部大臣になることを可能とする山本首相。懸案であった行政改革も思ったより進みます。

世間からの信頼回復も出てきて、良い雰囲気でしたが、1914(大正3)年3月24日。海軍高官による汚職事件(シーメンス事件)が発覚します。山本とは無関係な贈賄事件ですが、立憲同志会ら野党は、海軍の長という立場上、責任は生じると、山本内閣と政友会への追及姿勢を強めました。事態収拾のため、山本首相の退陣後、原が組閣する計画を立てまが、山縣と井上はこの案を聞き入れなかったのです。非政友会で選びたい。しかし、徳川家達や清浦圭吾を選べば、国民から大反感を買う。そう判断した山縣と井上は、政治的には過去の人となっているものの、国民には絶大な人気がある大隈重信を、次の総理に選びました。

4月16日山本内閣総辞職すると、立憲同志会を基盤とした大隈内閣が発足します。衆議院第一党だった政友会は野党に。少人数派の憲政同志会が与党となったのです。見せるのがうまい大隈は、新聞を活用して、元老との対決内閣をアピール。世間の注目を浴びます。

6月18日。原敬は第3代立憲政友会総裁となりました。西園寺から譲ると言われ、断ってきた原ですが、同志だった松田は、同年3月に癌で病没。総裁適任者はいなかったのです。

7月28日第一次世界大戦が勃発すると、外務大臣加藤高明の主導で、日英同盟を理由に、元老への諮問がないまま、8月23日大隈内閣はドイツへの宣戦布告を行いました。

この事態に元老たちは、日本が国際的な批判を浴びることになると、加藤と大隈を非難。 数年前に訪米視察を行った原は、新時代にアメリカが台頭してくる事を確信し、日本はアメリカとの関係悪化を避けるべきと考えていました。元老たち同様、参戦には反対の立場だったのです。彼らが同じ事を考えていると踏んだ原は、山縣の元に足蹴く通いました。しかし、大隈内閣に、元老と原の意見は退けられたのです。

1914(大正3)年日本軍はドイツが租借していた中華民国・山東省の青島。ドイツ領とした南洋諸島の一部を占領。この頃の日本は、大戦による特需で好景気を迎えました。

好景気になってきたことら、山縣は大隈内閣に「二個師団増設」の話を持ちかけます。これに政友会は難色を示し反対。大隈の支持基盤である、立憲同志会は少数派。意見対立で、議会が進まないため、大隈は衆議院を解散しました。

1915(大正4)年3月25日。第12回衆議院議員総選挙が行われます。井上が立憲同志会の支持に回ったことから、地方財政も政府支持。大隈は自ら地方遊説に出かけ、国民人気をうまく活用して、大規模な選挙活動を展開しました。内務大臣大浦兼武が、著しい選挙干渉(買収行為)を行ったこともあり、立憲同志会は得票数を伸ばします。(選挙後に発覚します)

大正の政変以降、不人気になった政友会は、議席は184議席から106議席に減りました。原は当選しますが、大幹部も落選という大苦戦の末、第二党へ下がります。

敗因は、現役内務大臣の不正行為が大きいという意見が、党員内に強かったことから、原の責任問題には至りませんでした。

不正行為が明らかになり、「大正天皇の即位大礼」が終わった後に、責任を取って退陣する旨を、元老たちに伝える大隈。ところが大礼後も、世界大戦と中国情勢を理由に、大隈内閣は存続。 大隈は後継首相に加藤高明を推して、政権維持を図りますが、加藤に対する元老たちの反対は強く、1916(大正5)年10月。大隈内閣は終わりました。

長州閥の陸軍軍人、寺内正毅陸軍大将を総理大臣に推した山縣。10月9日に発足した寺内内閣は、海軍大臣以外、山縣系の人脈で固まっていました。これを観た世間は、超然主義の非立憲内閣だと、強く批判します。政友会に対抗するため、他党と連合した立憲同志会は、憲政会を設立。議会の最大勢力として、寺内内閣を攻撃しました。

議会で支持を得るためには、政党の協力を無視することはできません。憲政会を弱体化させたい寺内は、政友会の協力を仰ぎます。

「是々非々の立場で協力する」と返す原敬。内務大臣の後藤新平は、政友会党員の水野鎌太郎を次官に迎え、実質的な内務大臣に据えました。これで選挙管理を担う内務省が、政友会の影響下となったのです。

1917(大正6)年1月25日。憲政会と犬養毅の率いる国民党が、内閣不信任案を提出。衆議院は解散となったのでした。正友会と国民党へ、後藤新平は、選挙資金の出資協力を申し出ますが、貸を作りたくない原はこれを拒否。

4月20日に迎えた第13回衆議院議員総選挙で、憲政会は大敗します。政友会は過半数までは届かなかったものの、163議席を獲得。第一党に返り咲きました。原が率いる政友会は、犬養の国民党と共に、寺内内閣支持を表明します。この経緯もあり、7月に犬養と原は、寺内首相から、外交調査会委員に、任命されます。(新たに設置された皇室直属の組織で、外交問題に関する審議機関)

第一次世界の終結が近づく頃、ロシア革命が起こりました。世界初の社会主義国が誕生した年の瀬。英国は日本へ「アメリカとシベリア出兵の主力になるよう」要請してきます。ロシアの崩壊で空白になった極東沿岸地域を、勢力圏としたい日本陸軍参謀本部は乗り気でした。原敬は大陸への積極的関与に反対を表明。山縣もこれに同意しています。

翌1918(大正7)年の7月。条件付きの共同出兵を、アメリカが提案してきたことから、国際協調重視の原と山縣は、ようやく出兵に同意しました。 8月2日に寺内内閣は、シベリア出兵を宣言しますが、米を巡って、富山で騒動が発生します。

大戦景気と工業労働者の増加で、農村から都市部へと人口流出が起こり、コメの消費量を増大させました。一方で生産量は、農業の担い手が減ることで、伸び悩みます。海外米も輸入していましたが、大戦の影響で減少。米の値段は上がる一方でした。

価格高騰から、地主や米屋。米取扱業者は、売り惜しみや買い占めを行い、米穀投機も発生します。そこにシベリア出兵が重なったことから、戦争特需における価格高騰を期待した、投機筋等は、さらに売り惜しみを加速させました。

米1月当初、1石(訳150㌔)15円だった米が、7月に30円を超えたのです。当時の労働者の月収が、18円~25円。これでは生計が維持できません。政府は救済事業奨励金等の助成政策、買い占めや売り惜しみの禁止に踏み切りますが、収まることはなかったのです。

新聞は米価高騰を、連日報道。庶民はその勢いに煽られ、社会不安が増大する中、富山に住む婦人たちが、移出米商に積出し中止を求める行動を起こしました。この動きが富山県内、やがて全国の米騒動へ飛び火。寺内内閣は米騒動の鎮圧に追われました。

寺内は心臓病を患っていたこともあり、山縣に辞意を伝えます。

人選に困る山縣に、側近の清浦圭吾は、衆議院・貴族院とも良好な原敬を推しました。政党嫌いの山縣は、ダメもとで西園寺に首相就任を打診しますが、首を横に振り「原でいいでしょう」と西園寺も推薦。アメリカとの協調路線を進めるには、原敬以外、人材がなかったのです。

1918(大正7)年9月27日。原敬に大命が下りました。62歳で内閣総理大臣となった原は、外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣以外を、すべて政友会の党員で組閣。同月29日内閣発足します。

政友会を立ち上げてから20年弱。初の政党政治内閣が誕生したのでした。

この日この時期の、主な星回りですが、♓N☀♃♆に、♍T☿♀。♒N☿♀に♌T♄オポジション。

N☀に♎T☀も緩めのオポジション。♒N☿♀には、T♅がコンジャンクション。原敬のN☽は♋ですが、T♃、T♇とコンジャンクション。T☽も♋。夜にはN☽と重なり、原敬が日本のトップに立つ後押しになっていると思います。

♉N♅と♒T♅は、土と風のスクエア。♓N♆と♐T*水と火のスクエアが、未来を暗示るような気配ですが、♉N♀は、♍T☿♀と調和。♓のN♃と♋♃の調和。♓のN☀と♏T♂も調和。どちらも水星座のトリンで、出足は穏やかでしょう。

爵位を持たない政治家原敬が、総理大臣となったこと。政党政治政の始まりを、国民は歓迎します。「平民宰相」のあだ名がつきますが、これが大ブレークしました。故郷の盛岡では、かつて朝敵とされた地から、首相が生まれた事を喜び、盛大な祝賀行事が行われたそうです。

政友会に入党した頃、原は爵位を望んでいました。政治家として、段々と自信を積み上げるうちに、「平民であること」が強味に変わり、爵位の拝命を拒むようになっていたのです。

海外からも民主主義・議会主義の拡大につながるという、好意的評価が寄せられました。思った以上の好評ぶりに、当の原は「あまり期待しても期待外れになる」と漏らしていたそうです。

真っ先に取り組んだのは、物価対策でした。大戦好景気に沸いた日本ですが、1914年~1918年の4年間、GNPは2.5倍。消費者物価指数は、1.666倍に上がりました。寺内内閣を崩壊させた米騒動もあり、物価を安定させるための政策を打ち出して、米価の安定を実現してゆきます。

帝国会議では、四大政網と呼ばれる、教育・産業・鉄道網・国防の拡充という政治目標を掲げました。教育面では、大学令と高等学校令を出して、多くの私学を旧制大学に認可。進学の受け皿を拡張。国内の経済発展を図る為に、全国的な鉄道敷設計画を立案。これに合わせて鉄鋼業の奨励政策。造船業の振興等も図ります。

戦艦の建設等、軍備への強化も図ることで、山縣も首を縦に振りました。大戦景気で得た正貨を見込んでの計画でしたが、予算は当然膨大になり、多くは国債で賄われたそうです。

1919(大正8)年1月パリで開催された講和会議に、主席全権に西園寺公望。全権を元外相の牧野伸顕に任せた全権団を送ります。対米協調路線を取る原と牧野は、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領を支持。連合軍と歩調を合わせる事、直接関係のない問題には、積極的関与はしない事等が、注意事項として挙げられます。これが足枷となり、日本側が提案した「人種差別撤廃法案」が、ウィルソン大統領を中心した一部の欧米側に、反発を買った際も、こだわらなかったのでした。

シベリアから兵士の撤退も始まりますが、この件はすんなり進まず、事実上、原以降の政権が引き受けていきます。原と高橋が懸念していた戦後恐慌の波が、色濃くなりはじめたのと、野党憲政会・国民党・新政会による、男子普通選挙法案の提出がおこります。

当時選挙権を有していたのは、「30円以上納税をする25歳以上の男性」国民のおよそ2.2%でした。かつて大阪毎日新聞で働いていた頃、積極的に女性の記者や編集を雇った原。この頃は婦人参政権論者にも資金提供を行っていました。普通選挙に対しも、それ自体の否定はしませんが、果たして全ての国民が、普通選挙へ関心があるのか?それを実施するには、時代的にまだ時期が早いのではないかと考えました。普通選挙運動を熱心に行う代表と会談し、多角的に情報を集めた上で、普通選挙法案の是非を、国民に問う解散総選挙を行ったのです。

普通選挙法案の是非を問い、議会解散した後、1920(大正9)年5月10日。戦後恐慌の中でありながら、第14回衆議院議員総選挙を実施。政友会は278議席の大勝でした。

この結果を持って、国民の普通選挙法案に対する関心度は薄いとしつつ、「3円以上納税する25歳以上の男性」と緩和策を打ち出しました。合わせて小選挙区制の導入を行うことで、普通選挙を進めたい側への配慮もします。

元老への配慮も怠らなかったのが、大きかったと思いますが、批判を浴びつつも、様々な政策を打ち出し、労働争議にも取り組む原敬の政治姿勢を、山縣有朋は評価するようになっていました。普通選挙法案の是非を問う選挙にも、関心したようです。

この頃の山縣は、皇室問題で、世論や皇室の関係者から批判を受けていました。1921(大正10)年2月21日。全官職の辞職と栄典の辞退を願い出るほどでしたが、そこをとりなしたのが原敬でした。辞表が却下されたことで、山縣の原への信頼は絶大となり、陸軍の人事に至るまで、原に相談。任せるようになっていきます。

大正天皇の病状が悪化し、政務が困難になってきたことから、原は宮中問題にも関与を深めていきました。原と山縣は、皇太子裕仁親王の摂政擁立を指導。熱心な勤皇家でもあった原敬は、裕仁親王が摂政就任するまでは、内閣を継続することも決意。「摂政就任前に、見聞を広めてほしい」という願いを込めて、皇太子の欧州訪問計画を推進し、貞明皇后を説得したのです。

こうして1921(大正10)年3月3日から、皇太子殿下の欧州訪問が始まりました。 皇太子殿下が、摂政に就任なさるのは、同年11月25日ですが、原敬はそのお姿を拝する事は出来なかったのです。

原内閣の物価安定政策は、一定の効果はあったものの、大戦不況で物価はまた上昇。インフラ整備にも予算を割き、軍備改良計画も進めます。積極財政政策は、財閥や企業向けがどうしても色濃く、年月が進むにつれて、政友会に汚職事件が増るというマイナス効果も産みました。

生まれ育った藩が敗者側だったことから、原敬は経済的な苦労を味わいました。クリスチャンでもある原。弱者を知っている人間ですが、「財界に厚いが、労働者に冷たい」という声が上がり、保守層からは、政策が急務すぎるという不満も出てくるようになります。

9月27日。安田善次郎が刺殺され、10月には立憲政友会本部放火事件。財務省が夜会を開けば、爆発騒ぎが起きました。原の身辺も危ないのではないか、と言われるようになり、彼の身を案じた三浦梧楼は、お守りを贈ります。 「伊藤もお守りを持っていたが、暗殺された」と、笑う原敬。

しかし…ワシントン軍縮会議が目前となった11月4日。運命の時が来ました。

京都で行われる立憲政友会の近畿大会に向かうため、午後7時過ぎに東京駅へ着いた原敬。 駅の構内で、突進してきた鉄道労働者中岡坤一(当時18歳)に、刃物で胸を刺されたのでした。凶変の知らせを受けて、東京駅に駆け付けた妻の浅。自動車で芝公園の自宅に原を運び手当を試みますが、傷は心臓に達していました。ほぼ即死だったのです。享年65歳。

犯人の中岡は、その場で取り抑えられました。 中岡は政治に不満を抱いていた青年で、尊敬する上司の橋本栄五郎から「今の日本は武士道が失われた。政治家は腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」と聞き、原首相に不満を募らせていた上司に、「私が原を切ってみせます」と応えたそうなのです。

真相なのか不明ですが、中岡は「腹」と「原」を勘違いし、彼の命を奪ったのでした。

この件が起こらなければ、原はワシントン海軍軍縮条約調印のため、アメリカに向かう予定でした。それが気に入らない者。経済政策に不満を持つ者。自分たちの理想通りに普通選挙法案を進めなかったことに、逆恨みをする者等が、中岡を使って暗殺したという向きもありますが、中岡の裁判はハイスピードで進み、無期懲役の判決を受けますが、調書もほぼ残っていないため、実情はわからないままです。

1934年に釈放。何故、釈放になったのかも、はっきりしません。その後1980年まで存命でした。

後妻の浅は、かねてより夫が遺言書などで要望したとおり、葬儀は簡素に執り行うことを守りました。11月8日には、故郷盛岡に戻り原邸でお通夜が営まれます。埋葬後も、宮中や政府関係者問わず、彼の死を悼む弔詩が多く寄せられました。

生まれ育った藩が、朝敵だったため、経済的にも学習環境も苦労した原敬。 それでも努力を重ね、情報を取り込むだけでなく、アウトプットするジャーナリストになり、人脈を生かして官僚、政治家への歩みは、強いバイタリティーと運を引き寄せた証のように思います。政党政治が当たり前の現代ですが、今回は、その起点となった原敬の生涯と星回りを追いました。テロに遭った日時はわかりますが、あえて書いておりません。

お話/緑川連理先生

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