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大谷夫妻に見る、典型的な運命の出会い。なぜ彼らにはそれが訪れたのか?

  • 2024.5.7

あまりに見事な運命の出会い。それを裏付けるいくつものこと

「たまたま短いスパンで何回も会った」「ずっと(一緒に)いるところを想像できた」

それって明らかに運命の出会いじゃないか? そう思った人は少なくないはず。顔が似てるとか、お似合いすぎて怖いとか、ほかの組み合わせはもう考えられないとか、それもすべては運命の人である証。なるほど、ああいう人には(言うまでもなく大谷翔平氏)、無駄なく寄り道なく最短で行き着ける運命の出会いが、ちゃんと用意されているのだと、思い切り腑に落ちる。

運命の人に出会うこと……それは、誰にとっても常に頭の片隅にある“人生の重要テーマ”であるに違いない。それは既婚者にとっても同じ。結婚してからも、果たしてこの人が“そうなのかどうか”との疑問に苛まれながら生きていたり。いや、幾つになろうとそういう出会いはありうると考えるべき。そのくらい人生において重い意味を持つものなのだ。

だから、“運命の出会い”は信じるか信じないかではない。むしろ当然あるものとして、出会えるか出会えないかで、モノを考えるべきなのではないかと思う。そして日頃の行いから、大谷翔平は一つの必然として運命の出会いが果たせたのだ、そう考えるべきではないか。

結婚発表があったとき、誰だか知らないけれど、お相手はずいぶん徳を積んだ人なのだろうという話題が、巷でもSNSでも盛んにやり取りされたというが、そういう反応自体がすでに運命論を含んでいる。そもそもが、運命の出会いを果たせる人は徳が高い、そう考えるべきだから。言い換えるならば、日々の行いが正しく、目標をしっかり持って前に進んでいる人は、運命の人を決して見逃さないということ。

運命の出会いはきっと誰にでもあるのだが、それに気づくか気づかないか。気づく人はちゃんと自分自身が見えていて、人生設計もできている人に他ならないのである。

一方にはこんな説もある。人生の目的がはっきり見えている人は、何となくでも運命の人のイメージも見えているから、出会ったときにもうわかってしまう。だから何が何でもその人と結ばれようという強い意志を持てるわけで、たとえ相手が別の人と結婚しても、根気よく待てるのだとか。いつか必ず離婚して自分のもとにやってくるのだろうと信じているから。実際、成功者にはそういう人が少なくないのだ。

ちなみに、“運命の人は地球上に2人いる”という説もある。1人目は愛を教えるけれど、愛の辛さも教えると。でも2人目は愛の永遠を教えてくれるというもの。まぁ、運命の出会いを果たせたとしても、人生は長いから、やはり1回は失敗することもあるのを含めた教えなのかも。

ただ、綿密に人生の計画を立てている人の人生に、やっぱり無駄はない。だから、言ってみればマンダラチャートを完璧につくる大谷翔平のような人は、たった一人の運命の人に数少ないチャンスの中でもきちんと出会って、生涯添い遂げる、そういう確実な人生を歩んでいるに違いないのだ。もちろん想像に過ぎないけれど。

また、意外なことに運命の人と出会うのは、大きな挫折に見舞われているときが多いと言われる。であるならば大谷翔平の場合、その出会いは手術をした翌年? リハビリに明けくれ、二刀流も先延ばしになった頃だと思う。そういうときほど、物の考え方や価値観が変わり、一気に視界が開けたりもするから、運命を引き寄せやすいのだとか。つまり、バキバキ元気なときよりも、何かまったりと疲れているときのほうが出会いは訪れやすい。すごく眠いときに出会いやすいのも、エネルギーを消耗しているからだとか。さらに言えば、突然の別れがやってきて、悲壮な思いで生きているときにこそ、不意に運命の出会いがやってくるという説もある。

おそらく魂が研ぎ澄まされているから、あ、この人、運命の人だ……と不思議なほど自然にわかってしまうともいう。そしてよく言われるのが、最初に目があったとき、この人、私と同じ目をしている……と思うらしいこと。運命の人とは顔が似ているというのも定説だ。それも魂の形が似ているからという説まである。いや、運命の人とは同じ魂を分け合っているともされるのだ。だから、どんな状況であっても会った瞬間わかるのだと。

確かに、今回の運命の出会いはお互いがお互いを引き寄せ、瞬時に気づいた稀な例なのではないかと思う。おそらく時はコロナ禍の真っ只中であったはず。マスクをしていたのかもしれないから、目だけ見て何となくわかってしまうケースだったのではないかと予測される。パートナーの方も、きちんと生きてきたに違いないから。

気づける人と気づけない人、その違いはどこにあるのか

つまり、おそらくは神の采配で、いろんな方法によって運命の人を教える仕組みが整っていると言える。ただ、本当に運命の人と出会ったときに気づけるかどうか、は自分次第。だからこそ普段の心がけが大切なのである。

じゃあ、何をしたらいいの? 正直ここで、大谷翔平のように生きましょうと言うのは無理難題。ただ一つだけクリアするべきは、不要なもののないすっきりした清潔な家に住んでいること。曇りのない目で、常に遠くまで見渡せる視界をつくるために。そして何の後ろめたさもない生き方をするために。

少し飛躍させるならば、嘘を言わない、悪口を言わない。曇りのない後ろめたさのない自分をつくっておく。まぁそういうことこそが大切なのだろう。結果として、自分自身が何だかんだ清らか、そういう生き方をしていると運命が向こうからやってくる。そのときそれを、決して見逃さないはずなのである。

「耳を澄ます」という言葉があるけれど、要はもっと“心を澄ませて”生きてみることが必要なのではないか。そう、心を澄ます……私たちは日頃これを忘れがちである。情報まみれになっていたり、SNSなどにどっぷり浸かっていると、心を澄ます暇がない。それこそ耳を澄ますだけでもよいのだ。都会では真に静寂な時間はなかなか持てないはずで、だからネットもテレビも音楽もすべて消して、音のない世界に自分を置いたとき、その意味がきっとわかるはず。耳を澄ます、そして心を澄ますとは、こういうことなのだと。そんなふうに自分の中をすっきり清らかにすると、向こうから何かやってくる気配を敏感に感じ取れるはずなのだ。

ただ、そういうふうに自分にとって理想的なものに出会う運命は、何もパートナーに限ったことじゃない。天職とも言える運命の仕事や仕事場、運と幸せを呼び込む家なども、出会える人は出会えるが、出会えない人は出会えない……また厳密に言うなら、同じ魂からそれぞれの方向に広がっていった兄弟のような存在は、この地球上に12人いるとも言われるが、運命を見逃さない人は、友達や上司や部下でも、またさまざまなコミュニティーでも、そういう魂の兄弟に出会えるということになる。まさに環境から関わる人までが運命と合致したとき、一体どれだけ充実した人生を送れるのだろう。その違いを今、改めて見つめ直してほしいのだ。

いずれにせよ今回の一件で“運命の人”説がにわかに真実味を増した。やっぱり赤い糸もあれば、運命の人もあるのだと。もしも、人生の何割かがそういう人と出会うためのものであるならば、そのために自分を磨くのだと考えると、磨く目的が非常に明快になる。中身も外見も心も、すべてをその人と出会うための準備として磨き込んでおく、そんな生き方のテーマがあってもいいはずだ。一度きりの人生、出会いを最高のものにするために。

意外なことに運命の人と出会うのは、大きな挫折に見舞われているときが多いとか。突然の別れがやってきたりするときも、物の考え方や価値観が変わり、一気に視界が開けたりもするから、運命を引き寄せやすいのだ。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

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