1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「君は残業ができないから査定は一番下ね」育休制度がなかった時代に子を産み仕事を続けた女性のその後

「君は残業ができないから査定は一番下ね」育休制度がなかった時代に子を産み仕事を続けた女性のその後

  • 2024.5.2

当時まだ名の知られていなかったリクルートに入社し職場で初めての産休復帰社員となった柴田朋子さんは、2児を育てながらキャリアを続ける中でさまざまな葛藤を味わってきた。雇用ジャーナリストの海老原嗣生さんの新刊『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』の発売記念講演で語った、葛藤の中身と40年かけて変化してきた女性の働く環境とは――。

女性の働き方は確実に変わってきている

海老原さんの新著『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』の前半部分にずいぶん、「女は働くより家に入れ」という昭和の生活像が描かれていました。それを読んで、周囲の若い女性たちは「実感ないなぁ」という反応でした。でも社会って連続してできている。私が働き出したまさに「ふてほど」の昭和期から、ちょっとずつちょっとずつ変わって今に至ります。今日は、そんな昔の思い出話をしたいと思います。

海老原さんの新著の主旨、「ここまで女性の働き方は変えられた、今度はあなたたちが変えてほしい」ということをしっかり話させてもらいます。

「4年経ったらミシン持って嫁に行け」

私が大学に入ったのは今からもう44年も前の話。バブルも始まる前の昭和真っただ中。そのころ、4大に行く女子高生なんて、本当に少なかった。行ったとしても女子大が関の山で、共学4大なんてレア中のレア。親も「4大行ったら就職ないよ、短大行きな」と強く勧めました。私は名古屋ではまあ名の知れた南山大学に入れたけれど、なんと、南山の短大は落ちている。そう、それくらい「優秀で進学を目指す女性は4大ではなく短大」が普通だったのです。

キャリアコンサルタント 柴田朋子さん
キャリアコンサルタント 柴田朋子さん(本人提供)

で、我が家は父母とも高卒だから、大学がどんなとこかなんて知らない。

入学が決まると母親から、たいそうありがたいご託宣を頂きました。

「4年経ったら、ミシンを持ってお嫁に行くのよ」って。

当時は、ローンとかクレジットじゃなくて、月賦といって、毎月お金を払い続けて、4年たったら商品がもらえるという、商品後出しの仕組みでした。大学を出るころ、支払い満了でミシンを受け取って、さっさと嫁に行け! ってこと。それくらい、女はあまり働かないままで嫁にいくのが普通、という時代でした。

その頃も、大学3年になると就活が始まるんだけど、もちろんネットなんてない時代だから、採用広告を集めた雑誌が送られてきて、それを見て応募する。それが、名古屋大の男子なら電話帳みたいなのが20冊、南山大の男子でも10冊。でも同じ大学なのに女子だとたった1冊、それも市の生活便利帳くらいしかないペラペラだった。しかも、ほとんどの採用広告には「女子は自宅生に限る」と書いてあって。あからさまに差別がまかり通った時代でした。

私は、なんとなくお茶くみのお嬢さんっていうのはピンとこなくて、男・女なく働きたかった。当時1984年だから、男女雇用機会均等法の施行2年前。だから、希望に合う企業なんて、全然ない。就職のことを大人に話すときも「仕事を頑張る」って言おうもんなら、「いやいや女の子はそんなに頑張らなくても」って、たしなめられたほどです。

「男と張り合おうなんて百年早い」

男女差なく働ける大手企業なんてなくて、当時無名だけれど伸び盛りだったリクルートに入れたのは運がよかった。たまたま大卒女子の大量採用がスタートしたときでした。当時の東海地区に住む女性としては、レア中のレア、パンダいや、ツチノコくらい珍しい……って知らないかツチノコ、今の子は。

配属先は営業部でした。夜10時まで残業が当たり前で、疲れ切って帰宅すると、玄関で母が仁王立ち。

「何やってたの? 女の子がこんな時間まで」って。で、仕事してたというと、「そんなわけないでしょ!」と信じてもらえない(笑)。営業先では「女が担当? バカにすんな」と言われるし。社内は平等だったけど、それでも、いい案件を取ってくると「女はいいよなあ。ニコニコしてりゃいいんだから」と言う人もいました。逆に売れないと今度は、「どうせ腰掛けなんだろ?」「そろそろ結婚したら?」「男と張り合おうなんて百年早い」などなど。

営業では結果が出せなかったので無理もないんだけれど、そのあと編集に異動できてなんとか結果も出せるようになって張り切っていた4年目、26歳の時、当時、1人暮らしをしていた私の家に、母親から手紙が届いたんです。「お母さん、あなたの結婚はもう諦めた。娘が嫁に行かず、親のそばにいてくれんのもいいことかもしれないと言い聞かせてる」だって。26歳独身って、あのころは絶望的だったわけです。

育休なき時代は、12月出産が鉄則だった

その翌年、27歳で縁あって結婚し、翌々年には第一子を授かりました。その頃、仕事は充実していて、まだ辞めたくないという軽い気持ちで、勤めを継続することに決めました。当時はチーフだったので、毎日夜10時まで働く。お腹はどんどん大きくなるから、廊下ですれ違う人たちが口々に「すごいな」「胎教に悪くないか」と、物珍しそうに言ってきました。

娘と2人で。
娘と2人で。育休の制度がなかったころに出産、子どもを育てながら働き続けてきた。(本人提供)

当時まだ育休なんてありません。産前6週、産後8週の産休しかないんだけれど、その産休さえ取ろうとしたら総務に「産休? 何それ? 支社じゃ取った人いないから、東京本社の総務に聞きます」と言われて。実家の母は母で「やっと辞められるね」、夫は「好きにしたら」という反応。本当に「働くママ」はツチノコでした。

ちなみに、その頃は「産むなら年末」と言われていたんです。そうすると生まれてすぐ保育園に翌年度の入園の申し込みができるし、産後8週間と有給使って、3月末まで休める。で、4月になって保育園に入園というわけ。育休のない時代の知恵ですね。でも私は職場で第一号だし、そういうこともわかっていなくて5月に出産。産後8週で8月復帰という、とんでもないスケジュールでした。

女性社員の命運は上司次第だった

住んでいた区に一つある産休明け対応の保育園には、空きがないことが判明。当時の上司は独身の男性なのに、頭が柔らかくて、「どうやって復職するかあなたの好きなように考えていいよ」と言われ、少しホッとしました。対照的だけど、仲の良かった同期は、すごくできる女性だったんだけど、私の翌年の1991年に妊娠。でもその上司は理解がなくて、「いつ辞めるの?」と。周りには味方もいないし、迷惑をかけるからと、辞めていきました。ほんとうに、私は運が良かった。当時の女子社員の命運は、上司しだいでしたね。

1992年には同じ事業部の後輩2人がさらに出産。1人は実家が近く、保育園と両親に育児を頼りながら、産休明けに復職。もう1人は育休こそとれたものの、実家が遠方だったので頼る人もおらず、保育園のあとにベビーシッターを頼む二重保育を強いられながら、仕事をしていました。さらにそのまた翌年には支社内の別の事業部でも出産→復職する女性が現われた。みんな働き続けたかったんだよなぁ。そう、しみじみ思うと同時に、第一号だった私は後続の無事を眺めながら、ある種の達成感を味わったのでした。

「ママ、いなくなっちゃいやだ」との葛藤

御多聞にもれず、子どもが生まれれば、課題が発生します。それは、ママとしての自分、働く自分、その両者の葛藤をどううまく処理するか、に他なりません。

七五三のお参り
七五三のお参り。(本人提供)

ありがちなのは、子どもが風邪で熱を出した場合。保育園を3日も休めば治るけど、なかなかそうもいかない。朝に熱さましを飲ませて無理やり下げて昼過ぎから出社するなんてこともありました。

子どもからは「ママ、いなくなっちゃいやだ」と言われるし、実母とか周りからは「母親なら、仕事を休むでしょ」という圧が迫ってくるし、職場では「また休み?」って言われるし、子育てしながらだと働き方も変えざるをえません。

残業するのか、するならどれくらいか。私は4人チームのリーダーで差配できる立場にいたから、夕方の会議をなくす形で、定時に仕事を済ませるよう、ルールを変えました。そしたら、平成あるあるだけど、上司が「朋子さんは残業しないんだから査定は一番下ね」と言うんです。ほんと忘れられない、腹が立つ思い出。

飲みニケーションにどれくらい参加すべきか、というのもありましたね。出ないと決めればそれでいいんだけど、そこで重要な情報が共有されたり、物事が決まったりするから、なかなか割り切れない。

とにかく、前例がないので、自分で考え、自分で決めるしかありませんでした。そうしなければ、「悩むなら、辞めちゃえば?」と言われてしまうから。

男が抱える「大黒柱の辛さ」もわかった

私は就職して2年目から一人暮らしをしていました。「結婚なさい。見合いをしなさい」と言われなくてすむからです。一人暮らしはあまりにも快適で、何とかそれを続けたいという思いが募りましたね。業務成績はあんまりよくなかったけど、でもリクルートの待遇は上々で、転職したら、給与が半減するし、何とか粘って踏みとどまったんです。あとから思うと、ほんとに辞めなくてよかったですね。

講演は名古屋にて開催
(本人提供)

それ以降に感じたのは、仕事に育児に、時間が圧倒的に足りないということ。周りに何を任せるか考えていると、一方で、全部自分で成し遂げたいという気持ちが頭をもたげだして、ジレンマに陥ったりしました。

じきに、私の後に続く女性たちが現れ、同じ悩みに直面するだろうから、参考になる前例を作っておかなきゃという気持ちがモチベーションになったかな。

そのうち、私は、一人親となります(編注:夫を不慮の事故で亡くされた)。

後輩の女の子たちのこと、「彼女らはいつでも辞められていいな」って羨ましく眺めたりして、そんなふうに感じる自分に驚いて。そのおかげで、男性が抱えている「家族の大黒柱」という義務感の重さもよく理解できました。

後輩にどんどん抜かれていく…ここにいる意味があるのか

幸いなことに編集の仕事で働き続けている女性の大先輩を取材したり、知り合ったりする機会がよくありました。私より上の女性たちはさらに厳しいいばらの道を歩んでいて。この人たちの苦労を思えば、私なんて恵まれてる、と力づけられたりもしました。

職場では部下がどんどん成長して、私はチーフなのに、彼らに抜かれていく。自分がここで働き続ける意味あるの? と悩んだけれど答えは出ないし、「そんな答え、出さなくていいや」と開き直っていました。

そんな悶々とした状態にケリをつけてくれたのが、会社でした。リクルートには早期選択定年制という仕組みがあって、当時は38歳で辞めると退職金がたいそう割り増しされたのです。本当に良くしてくれた直属の上司が、「自分も異動の時期(だからこれ以上フォローできない)。今ならあなたがいい形で退職できるようにはからってあげられる」、と言ってくれて。私は5秒だけ考え、「退職します」と答えました。転職先も決めてなかったのに。

親に子育てを任せるか、自分が朝3時に起きるか

日本の過去を振り返り、「女性活躍」の系譜を見てくると、大きく三段階に分けられます。

最初は「スーパーウーマン期」。スーパーウーマンとは、「チャック女子」なんて呼ばれていました。チャックを外して着ぐるみ(女性の外見)脱いだら男性だった、ってこと。男以上にバリバリでなきゃ、女が生き残れない時代でした。そうして、「名誉男子」(編注:南アフリカで有色人種隔離政策がとられていた時、日本人など一部のアジア人は名誉白人とされたことを模した)として生きる。子どもが生まれたら、親に近所へ引っ越してもらい、子どもの面倒を見てもらう。そうでなければ、自ら毎朝3時に起き、家事をやり遂げてから仕事に出かける。「極端な早朝シフト派」と呼ばれて、そんな本がたくさん出ていました。当時は全て働く女性の自己責任。「好きでその道を選んだんだから」というのが大原則でした。

続いて、平成も二桁になる頃から始まるのが、「ケア(両立支援制度)充実期」。制度や法律が充実して、女性活躍の萌芽が見られた時期。スーパーウーマンにはなれないけど、子育てと仕事の両立は目指したい、という女性が多くなってきた。会社は彼女らにマミートラックを用意しました。出産後復職した総合職女性には、難易度の低い仕事しか用意されず、できる女性ほど「今までの頑張りは何だったの?」と耐えられなくて、退職する人が後を絶ちませんでした。

そしてようやくフェアに働ける端緒に

そして今はようやく「ケア・プラス・フェア期」の端緒についた。短時間復職でも、公平にキャリアを積めて、家事育児の負担も性別関係なく、夫婦でともに請け負う。つまり「フェア(公平)」が広まり始めています。

働き方の選択肢が多様化するなか、それをどう選ぶかを男女共に考えようという動きが起こり、男性の育休取得も真剣に推進されるようになった。今は働き方改革と男女共同参画の両方が追求される時代にようやく進み始めたんじゃないかなと思います。

40年でこんなに変わるとは

私が社会に出た1984年から現在までちょうど40年で、女性の働き方を巡る環境がこんなに変わるとは、当時の私(多くの人がそうだと思いますが)には、正直まったく想像できませんでした。

海老原嗣生『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』(プレジデント社)
海老原嗣生『少子化 女“性”たちの言葉なき主張』(プレジデント社)

私がここで、昔の話をしたのは、過去と現在、そして未来はつながっており、私も先人からバトンを受け継いだと考えているからです。振り返ってみると、働く女性が、より呼吸がしやすく、正当な訴えを言える相手が増え、一人ではなくて仲間も増え、さらにたくさんの制度が後押ししてくれるようになったことが実感できると思います。もちろん、今でも完璧ではありません。課題が山積みされています。でもね、「どうせ無理」と諦めないでほしい。社会はこれだけ変えられたんだから。これから働いていく女性たちには、こう言いたいんです。今直面しているその問題にも、頑張ってみよう。そして、未来を創るバトンを落とさず、つないでいこう。そうすれば、あなたの娘たちがもっと翔たける時代がやってくるから。

構成=海老原嗣生、荻野進介

柴田 朋子(しばた・ともこ)
キャリアコンサルタント、JUNO代表
1984年南山大学卒業後、リクルート(現・リクルートキャリア)入社。就職情報誌の営業、企画、編集に携わる。社会が求める人材像と教育現場との溝を感じ、教育への興味関心から、転職を決意し、2000年4月に瀬戸市役所へキャリア採用により転身。2013年4月よりJUNO(ユーノー)代表。

元記事で読む
の記事をもっとみる