1. トップ
  2. 恋愛
  3. 映画『グッドフェローズ』を名作たらしめた画期的な音楽の使い方とは? ギャング映画の金字塔を考察&評価。名言と楽曲も解説

映画『グッドフェローズ』を名作たらしめた画期的な音楽の使い方とは? ギャング映画の金字塔を考察&評価。名言と楽曲も解説

  • 2024.4.18
  • 3636 views
映画『グッドフェローズ』より【Getty Images】

1970年代のアメリカ・ニューヨーク。ヘンリー(レイ・リオッタ)、ジミー(ロバート・デ・ニーロ)、トミー(ジョー・ペシ)の3人を乗せ、1台の車が夜道を走っていた。3人の男は、トランクに乗せた男を埋めにいくところだった。

子供の頃のヘンリーは貧しかった。幼少期から、苦労して働いても何にもならないと感じていたため、ヘンリーはギャングになって大金持ちになるという夢を持っていた。中でもグッドフェローズというギャングに憧れていたヘンリーは、学校へ行かず地元ギャングのシセロ(ポール・ソルヴィノ)の下で働き始める。

そんなある日、ギャング達の犯した罪が警察にバレて、仲間が逮捕されてしまうという事件が起こった。しかし、ヘンリーは仲間を守るために口を開かなかったことで、仲間達から認めてもらえるようになったのだった。

そのうち、ヘンリーは街で幅を利かすジミーやその弟分であるトミーと知り合い、手を組むことになる。

こうして大人になったヘンリーは、マフィアとしても存在感を示すようになっていった。1967年には、ヘンリー、ジミー、トミーの3人はエア・フランス現金強奪事件を起こし、大金を手に入れる。

監督を務めたマーティンスコセッシGetty Images

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)でアカデミー賞監督賞最多となる10度目のノミネートを果たしたマーティン・スコセッシ。そんな彼の生涯最高傑作ともいえる作品が『グッドフェローズ』だ。

原作は1950年代から80年代にかけてニューヨークを拠点に活躍したマフィア、ヘンリー・ヒルの半生を描いたニコラス・ピレッジの同名ノンフィクション小説『Wiseguy(邦題:ワイズガイ-わが憧れのマフィア人生-)』で、脚本はビレッジとスコセッシが担当。主人公のヘンリーを『サムシング・ワイルド』(1986)のレイ・リオッタが演じる。

タイトルの「グッドフェローズ(Goodfellas)」は「気のおけない親友」という意味で、転じて「信頼できる同胞=絶対に口を割らない仲間」を意味する。本作では、この言葉を「フリ」として、「グッドフェローズ」たちの欲望と裏切りに満ちた血で血を洗う生活をリアルなタッチで描出。あまりにも生々しいシーンの連続に試写会では途中退出者が続出したという。

しかし、本作は公開後、批評家を中心に高評価を獲得。現在はギャング映画屈指の名作として知られており、アメリカ映画協会(AFI)が2008年に発表した「アメリカ映画名作ランキング ギャング映画編」では『ゴッドファーザー』に次いで第2位に選出されている。

また、1991年の第63回アカデミー賞では3部門にノミネート(作品賞、監督賞、助演女優賞)され、助演男優賞を受賞(ジョー・ペシ)。さらにヴェネツィア国際映画祭では監督賞にあたる銀獅子賞を受賞している。

『タクシードライバー』(1976)や『レイジング・ブル』(1980)など、時代ごとに名作を生み出してきたスコセッシ。本作は、そんなスコセッシの1990年代を代表する作品であるとともに、ギャング映画の金字塔でもあるのだ。

ロバート・デ・ニーロ【Getty Images】
ジミー役のロバートデニーロGetty Images

気の利いたセリフに魅力的なキャラクター、そして心踊る銃撃戦ー。本作が制作されるまで、ギャング映画はそんな様式的な悪の美学に満ちあふれていた。その代表格が他ならぬ『ゴッドファーザー』シリーズだろう。本作では、監督のフランシス・フォード・コッポラは、原作者のマリオ・プーゾとともに、ドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』をも思わせる重厚な人間ドラマを描いている。

しかし、『グッドフェローズ』には、こういったロマンや高潔さは微塵も感じられない。なにせヘンリーをはじめとする「グッドフェローズ」たちはお互いに「いかに相手を出し抜き、金を手中に収めるか」しか考えていない。本作に登場するのは、器の大きな侠客ではなく下卑たチンピラどもなのだ。

こういった本作の描写には、シチリア移民としてマフィアが牛耳るイタリアの市民社会で生まれ育ってきたスコセッシが肌で感じてきたリアリティが凝縮されている。

現にスコセッシは、本作のメイキングドキュメンタリー映画で、「私はそれ(マフィアたちの悲惨な現実)を見て育った。映画にしたら最高だといつも思ってた」と自身の制作動機を語っており、現場では、スコセッシとピレッジが事前に書いた脚本をもとに役者たちにアドリブを話させることで、リアリティ満載のセリフをものにしたという。

また、本作を語る上で欠かせない仕掛けが、主人公ヘンリーのナレーションだろう。先述のドキュメンタリーでビレッジが語るように、映画におけるナレーションは往々にして「作品のアラを補うための常套手段」になりがちだ。しかし、本作では、「観客の心に主人公を入り込ませるための方法」として意図的に用いられており、作品のリアリティを際立たせることに成功している。

なお、本作の編集を担当したセルマ・スクーンメーカーは、「美化されたマフィア像を覆したいと思った。引き金を引くことの意味を描くことが監督の目的だった」とスコセッシの思惑を代弁している。スコセッシ自身、従来にないギャング映画として本作を制作したことは間違いなさそうだ。

ハリー役のジョー・ペシ【Getty Images】
トミー役のジョーペシGetty Images

本作の配役といえば、まずはジミー役のロバート・デ・ニーロを挙げなければならない。『タクシードライバー』(1976)、『レイジング・ブル』(1980)、『キング・オブ・コメディ』(1982)と、「スコセッシファミリー」の一員として数々の映画に出演してきたデ・ニーロ。本作では、ヘンリーの兄貴分ジミーとして、貫禄のある演技を披露している。

なお、デ・ニーロといえば、やはり『ゴッドファーザー PART Ⅱ』での若かりし頃のヴィトー・コルレオーネ役を忘れてはならない。本作で一躍スターダムにのしあがったデ・ニーロだけに、本作での起用には従来のギャング映画を換骨奪胎しようとするスコセッシの強い意志が感じられる。

また、本作でフレッシュな演技を披露したヘンリー役のレイ・リオッタは本作が出世作となり、その後多くのサスペンス作品に出演している。生後間も無く孤児院に預けられ、アメリカ人に育てられたというリオッタだけに、ヘンリーの役に少なからず親近感を感じていたのは想像に難くないだろう。

そして、作中でとりわけ異彩を放っているのが、トミー役のジョー・ペシだ。『ホーム・アローン』シリーズ(1990〜)のマヌケな泥棒ハリー役で知られるジョーだが、本作では冗談半分で人を殺していく狂った男を怪演。アカデミー賞助演男優賞の受賞もうなずけるキャリア最高の演技を披露している。

ジョーの出演シーンで特に印象的なのは、飲みの席で突然キレ出すシーンだろう。それまで、穏やかに談笑していたにも関わらず、ふとした拍子に突然激高し周りを凍り付かせる。どこに地雷があるか分からない、そんな得体の知れなさを見事に表現している。

また、本作は、一般的なギャング映画とは異なり、女性の心情がしっかりと描かれている点も大きな特徴だ。特にカレン・ヒル役のロレン・ブラッコは、ヘンリーに振り回される女性の悲哀を、実に感情豊かに演じている。

ミヒャエル・バルハウス
撮影監督のミヒャエルバルハウスGetty Images

「馬に乗っているような感覚」。本作の編集を手がけたセルマがこう語るように、本作の映像は、全編が予告編とも言えるような疾走感に満ちあふれている。

そんな疾走感が全開になったパートがラストのヘンリーの逃走シーンだ。薬物の幻覚からヘリが追ってきていると錯覚するヘンリーを軸としたこのシーンでは、「車でヘリから逃げる」「家でカツレツを揚げる」といった断片的なカットが撮影され、編集室ではじめて組み合わされたという。物語展開を無視したインパクトのあるシーケンスの連なりこそ、本作の醍醐味といえるだろう。

なお、本作では、疾走感を盛り上げるため、実験的で遊び心あふれるカメラワークが随所に用いられている。例えば、先のシーンでは、カツレツを仕込むヘンリーがヘリの気配に気づくカットがなぜかサイズを変えて2度繰り返されている。こういったジャンプカットはトミーが店員を殺害するシーンなどでも散見され、本作の躍動感を高めるのに貢献している。

また、本作を語る上で外せないのが、ヘンリーがカレンを連れてレストランの裏口を抜けるシーンだろう。映画学校の教材に用いられることも多いこのシーンでは、車を停めてエントランスから厨房に回り、会場の席に着くまでのおよそ3分のシークエンスが流れるようなワンカットで撮影されており、この世の春を謳歌するヘンリーを巧みに表現している。

そして、こういった疾走感から浮かび上がるのが観客を圧倒する暴力だ。撮影を担当したミヒャエル・バルハウスは、ヘンリーがカレンの隣人を殴るシーンを引き合いに、「これほど暴力的なシーンは撮ったことがない。カットも特別な演出もない。暴力そのものを肌身で感じる」と語っている。

マーティン・スコセッシ監督
マーティンスコセッシGetty Images

本作では、オリジナル楽曲が使われておらず、全編にわたりスコセッシ思い出のヒットナンバーが用いられている。こういった傾向は、デ・ニーロ主演のギャング映画『ミーン・ストリート』(1973)以降のスコセッシ作品で散見される特徴だ。

このうち、とりわけ有名なのは、ジミーによるギャングたちの粛清シーンで用いられるデレク・アンド・ドミノスの「いとしのレイラ」だ。

「いとしのレイラ」といえば、エリック・クラプトンのかき鳴らすようなギターリフが印象的だが、本作で用いられるのはジム・ゴードンの感傷的なピアノパートのみ。しかも、本シーンでは、この曲をバックに車内、食肉用の冷凍庫、ゴミ収集車の中とギャングたちの死体が矢継ぎ早に映される。美しいピアノの旋律と陰惨な死体の数々は、一度見ると脳に焼きついて離れない。

また、エンディングを飾るのはシド・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」。マフィアから普通の生活へと戻ったヘンリーと、本曲の疾走感のコントラストが効いており、最後を飾るにはぴったりの曲に仕上がっている。

なお、スコセッシは、本作のドキュメンタリーで、映画と音楽の関係について「聴いている音楽と窓の外の景色との対置」であると述べている。音楽の使い方にもスコセッシ流の哲学が貫かれているのだ。

元記事で読む
の記事をもっとみる