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【『光る君へ』の世界】平安貴族は一夫多妻制が当たり前! 後宮で暮らす后妃の序列と女性たちのスゴすぎる生き方

  • 2024.4.14

紫式部が主人公の大河ドラマ『光る君へ』により、彼女が生きた平安時代への注目が高まっています! 今回は、一夫多妻制が基本だった平安時代の女性たちの生き方についてご紹介!


【平安時代の女性たちの生き方】

一夫多妻制の時代、天皇の后妃たちの序列

当時の天皇や貴族は一夫多妻制が基本でした。また、天皇の后妃や女官たちには階級がありました。後宮で暮らす天皇の后妃にも位があり、もっとも位が高いのが正妻(皇后、中宮)で、その下に女御(にょうご)、更衣(こうい)がいましたが、『源氏物語』が書かれた頃には、すでに「更衣」という位は廃止されていました。一条天皇の時代、藤原道長は自分の娘を后にしたいと考え、兄・道隆の娘である中宮定子(ていし)を皇后としたうえで自分の娘・彰子(しょうし)を中宮に立てたため、二后が並び立つことになりました。

皇后(中宮)

今上天皇の正妻。一条天皇の時代、皇后が2 名いる時には一方を皇后、もう一方を中宮と呼ぶようになった。

女御

皇后(中宮)に次ぐ地位。摂関家の娘がなることが多く、平安時代中期以降は皇后に立てられることもあった。

更衣

もとは天皇の衣がえの御用を務める役だったが、のちに天皇の寝所に奉仕するようになり、天皇の妻の呼称となった。

出家する女性が多いのは女性が生きづらかった証し?

『源氏物語』にも、仏教に関連する場面がたびたび描かれており、作中、光源氏と関わった多くの人(特に女性たち)が出家します。これは、当時の女性たちがいかに生きづらく、悩み多き存在だったのかを示しているのかもしれません。また、当時は釈迦滅後2000年が経過し、仏法が衰えて悪事がはびこるという「末法(まっぽう)思想」が多くの人に信じられていました。そのため、念仏を唱えれば現世はもとより、来世も極楽往生できると説く浄土教が盛んになりました。

『源氏物語』で出家する女性たち

藤壺(ふじつぼ)

光源氏の求愛から逃れるために出家[十帖・賢木(さかき)]

六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)

病気を患って出家[十四帖・澪標(みおつくし)]

空蝉(うつせみ)

義理の息子の求愛から逃れるため出家[十六帖・関屋(せきや)]

朝顔の姫君(あさがおのひめぎみ)

信仰心の高まりから出家[三十五帖・若菜(わかな) 下]

朧月夜(おぼろづきよ)

出家した夫・朱雀院を追うように出家[三十五帖・若菜 下]

女三の宮(おんなさんのみや)

病気と罪の意識から出家[三十六帖・柏木]

浮舟(うきふね)

自殺未遂後、比叡山の僧に助けられ出家[五十三帖・手習(てならい)]

神に奉仕した未婚の皇族女性たち

『源氏物語』には、斎宮(さいくう)や斎院(さいいん)がたびたび登場します。「斎宮」とは、皇室の未婚女性(内親王)から選ばれて、伊勢神宮の祭祀に奉仕した女性のことで、制度としては古代から南北朝時代まで続きました。一方、賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王を「斎院」といい、斎宮にならって平安時代にはじまり、鎌倉時代初期まで続きました。

斎宮

天皇の即位ごとにひとりが選ばれ、3年の精進潔斎(しょうじんけっさい)ののち伊勢に下向し、伊勢神宮に奉仕した。斎内親王(さいないしんのう)、斎王(さいおう)、御杖代(みつえしろ)ともいう。75 代続いたが、後醍醐(ごだいご)天皇の皇女・祥子(しょうし)内親王(1333 ~ 1334 年に在位)を最後として廃絶した。現在、三重県明和町(めいわちょう)の斎宮跡は国史跡に指定されている。

斎院

正しくは賀茂大神斎王(かものおおかみのいつきのみこ)といい、居所が京都市北区の紫野(むらさきの)にあったことから紫野院とも称した。伊勢神宮の斎王制(斎宮)にならったもので、斎宮同様に天皇一代ごとに交代した。35 代続いたが、後鳥羽(ごとば)天皇の皇女・礼子(れいし)内親王(1204 ~1212 年に在位)を最後として廃絶した。


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監修=吉田裕子 イラスト=木村 誠 ※GLOW2024年4月号より

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