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「広島と長崎を描かない」という選択に潜む忖度…アカデミー受賞作の見逃せない問題点は? 映画『オッペンハイマー』考察&評価

  • 2024.4.8
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第96回アカデミー賞で作品賞を含む7冠を達成した映画『オッペンハイマー』が公開中。クリストファー・ノーラン監督が、アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」の指揮をとったロバート・オッペンハイマーを描いた歴史映画。その見どころと問題点を浮き彫りにするレビューをお届け。(文:荻野洋一)【あらすじ キャスト 考察 解説 評価】
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【著者プロフィール:荻野洋一】
映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。「カイエ・デュ・シネマ」日本版で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boidマガジン」「映画芸術」などの媒体で映画評を寄稿する。今年夏ごろに初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ(仮題)』(リトルモア刊)を上梓する予定で、500ページを超える大冊となる。

© Universal Pictures. All Rights Reserved.
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IMAXの巨大スクリーンで『オッペンハイマー』を見る行為は、暴風雨の中を歩くのに似ている。私たち観客の目/耳といった諸器官がインフレを起 こし、水の中で溺れるような感覚を伴う。『オッペンハイマー』は没入感という点であざやかな成果を得たようだ。

広大な宇宙空間でもなく、スーパーヒーローの活躍でもないのに、科学者や政治家が狭い室内でただペラペラと言い争っているだけの映画だというのに、没入的なスペクタクルが前代未聞なほどに実現している。IMAX 65mmフィルムという、誰もが許されるわけではない特権的なフォーマットを駆使して、クリストファー・ノーランは未曾有のスペクタクルを実現させた。IMAX上映のひとつの完成形をここに見て取ってよいのかもしれない。

ひとつひとつのショットは自律的であることを放棄し、前後の脈絡を犠牲にしながらスピーディに短冊化され、シャッフルされていく。クリストファー・ノーランという短気な作り手による短冊ショットの濁流が突きつける恫喝によって、私たち観客は追い詰められる感覚を味わう。そしてそのインフレーションこそが、この作品の全世界的な成功要因だろう。

画面上では物理学者たちの知的な会話が溢れかえり、私たち観客はそれを真面目に追いかけるふりをしながら心ここにあらず、巨大スクリーンの没入感に陶然となることを優先している。そしてそれによって分泌されるドーパミンは、映画というものが100年超にわたり提供してきたものの現在形としてある。

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1942年、米国ニューメキシコ州の荒地ロス・アラモスにマンハッタン計画の研究施設が急ごしらえで建設され、世界一流の物理学者たちが集められ、原子爆弾タウンが出来上がる。そのストーリーテリングの源泉はアメリカ映画そのもの。西部劇であり、冒険活劇であり、オールスターチームの結成である。

そしてロス・アラモスじたいもハリウッドのスタジオシステムのアレゴリーとなっていて、ロス・アラモスの司令塔に就任する主人公オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)はこのとき、タウンの市長であり、保安官であり、映画撮影チームを統括する監督そのものとなる。

『インセプション』(2010)、『インターステラー』(2014)、『ダンケルク』(2017)、『TENET テネット』(2020)と、これまでのフィルモグラフィーの中でクリストファー・ノーランは、時空間を縦横無尽に取り扱うことにこだわってきた。

特に時間の取り扱いについては全能感の誘惑に引きずられるかのように、人工的かつ恣意的なノンリニア操作をほどこしてきたのだが、それは決して時間演出についての説得力ある答えを導き出してはこなかった。そこにはただクリストファー・ノーランという作家の全能感だけが残る。今回の『オッペンハイマー』において急ごしらえで建設される原爆タウンは、ノーランの全能感を体現したワンダーランドのお城である。

『オッペンハイマー』には3つの時制がパラレルに進行する。

第1に、主人公が苦悩の学生時代をへて物理学者となり、恋愛したり、共産主義思想にシンパシーを抱いたりしながら、マンハッタン計画に招かれて「原爆の父」としての栄光に包まれつつ、罪の意識に囚われていく物語。第2に、戦後の冷戦下で赤狩りの対象となり、共産主義へのシンパシーゆえに「ソビエトのスパイ」として追及を受けて地位を失っていく物語。第3に、原子力委員会の理事同士として対立を深め、やがてオッペンハイマーへの怨恨をこじらせるストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の物語。

この3つの物語の〈行って来い〉はノーラン十八番の時間の恣意的編集である。かなり思い切ったシャッフルをおこなっているが、思ったほどあざやかなタイムトラベルとはなり得ていない。『ダンケルク』のような混乱はないものの、効果てきめんの編集とも言えない。ただし、煽るような息せき切った短冊状のカットつなぎが観客を追い立て、責め立てる効果は絶大なものだというのは先述のとおりだ。

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ロス・アラモスというお城の中で起きたことは、『オッペンハイマー』という映画を議論の渦中に招くことになる。原爆開発に成功したあと、オッペンハイマーは多幸感に満ちたロス・アラモスの従業員たちの前で勝利宣言のスピーチをおこなう。

当然のことだ。この点は史実なのだろうし、私たち日本の観客がとやかく文句を言っても始まらない。しかし、喝采を送る聴衆にストロボのような強烈な光線が当たる画面効果がほどこされ、さらに聴衆女性の顔面の皮膚がめくれ上がっていくイメージとなる。栄光の絶頂の中でオッペンハイマーが自分たちの発明に疑問を抱く発端となる重要なシーンである。

ところが、めくれ上がる女性の皮膚は、広島、長崎の被爆者たちのこうむった被害の再現ではない。薄くて清潔なパラフィン紙のような皮膜がさらりとめくれ上がり、まるで化粧品のCMのようだ。原子爆弾投下の重大性を矮小化したショットだと言える。

そして、すでに世界中の論壇で議論の的となっている、爆心地の惨状を写した記録フィルムの上映会にあって、オッペンハイマーが画面を見ることに耐えられなくなって目を伏せてしまうショット。そのあとに爆心地の惨状を写す画面はない。

これは写さないことで想像させる演出だという擁護論も散見されるが、じっさいのところは、ショッキングな映像でアメリカ国民の気分を害するような編集は好ましくないという忖度のなせるワザだろう。原爆についての映画でありながら、広島も長崎もワンカットも登場しないというのは、高度な恣意性が働いているとしか思えない。

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『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。

『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。

オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」

彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。

赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。

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「彼の恋愛について考えるなら、彼の人生における2人の女性は、回路図上のスペクトルである。一方はうつ病、もう一方はアルコール依存症であるが、これはチェックボックスにチェックが入っているにすぎない。じつのところ登場人物はみな、オッペンハイマーのように骸骨的なのである(マット・デイモン演じるロス・アラモスの不機嫌かつ狡猾な将軍だけが例外だ)」

上記のようにきわめて手厳しい評価を書き付けるのは映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の批評家エルヴェ・オブロンであるが(※注)、筆者はここまで批判的ではないものの、特にうつ病を患った愛人ジーン・タトロックの描写などはかなり粗暴で、このジーンという女性がなぜオッペンハイマーから贈られた花束をいつも捨ててしまうのかについての最低限の説明も省略されたまま、この役を演じたフローレンス・ピューは不自然なまでにオールヌードを披露させられている。

赤狩り追及の聴聞会にまで「幻想」という形式のもとにフローレンス・ピューは全裸で登場し、聴聞会の出席者たちの面前で主人公に股がり、座位でセックスしている。なぜ彼女のヌードをこんなに何度も見せられねばならないのか、筆者には最後まで謎だった。

以上、述べてきたように、『オッペンハイマー』は賞賛すべき点と、疑問に付すべき点とがポレミックに同居した問題作である。

IMAXのテクノロジー特性を最大限に引き出した極上のスペクタクルとして歴史に名を残すと同時に、編集の恣意性、シナリオの粗暴さ、人物造形の冷酷さにはかなりの瑕疵がある。

日本の著名な特撮監督が、自分たち日本の映画人が『オッペンハイマー』への応答を作る番だ、と意気揚々と述べたことが報じられたが、それは断じて、『オッペンハイマー』が描くことを(おそらくは意図的に)怠った広島、長崎の被爆の実態をただ単に事細かに描いて仕返しすることであってはならない。真の応答とは、アメリカがアメリカ自身の加害に目をつぶったなら、日本は日本自身の加害に目をつぶらないことを示すことにほかならない。

戦前戦中の大日本帝国がアジアと太平洋の諸地域でおこなったおびただしい蛮行の数々を、殺戮の数々を、『オッペンハイマー』に負けぬ労力と念入りさをもって映像に置き換えること。それが実現するのでなければ、『オッペンハイマー』への真の応答などありはしない。

※注 https://www.cahiersducinema.com/actualites/oppenheimer_l_emphase_atomisee/

(文:荻野洋一)
3月29日(金)、全国ロードショー IMAX®劇場 全国50館 同時公開

<作品情報>
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 「オッペンハイマー」(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)/アメリカ
2023年/アメリカ 配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画 R15
© Universal Pictures. All Rights Reserved.

 

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