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「山の魔力と白着物のひと」――丹沢大山で初心者トレッキングに挑戦 児玉雨子のKANAGAWA探訪#8

  • 2024.4.8

神奈川県出身の作家・児玉雨子さんによる地元探訪記。今回は伊勢原市と秦野市の境にある霊峰・大山へ。相模平野のランドマークであり、標高は1252m。ピラミッド型の美しい山容を誇り、別名「雨降山/阿夫利山」(あふりやま)と呼ばれるのは、相模湾の水蒸気を含んだ風を受けるため雨が降りやすい形であることに由来しているそうです。

靴箱の整理をしていると、一度しか履いていないトレッキングシューズが出てきた。
これを買ったのは約3年前である2021年の夏前。とある公共放送で松尾芭蕉の「おくのほそ道」の軌跡を作詞家の私が辿る、という、今考えればなんとも尖った仕事があった。番組では東北を中心に歌の名所をめぐった。音楽ライブとはまた違い、書や詩歌を実際に体を動かしながら鑑賞するということの楽しみを知り、仕事としてだけでなく個人的に大変貴重な機会だった。

しかし同時に、きーんと浸みるような情けなさも思い出すのである。このころはコロナ禍でステイホームを強く喚起された時期で、私も私で引きこもるのが得意なものだから、一日中座るか寝るかで一切運動をしていなかったのだ。そんな状態で出羽三山のひとつ羽黒山を真夏日に上り下りしていたら、撮影スタッフの誰よりも早くバテて、さらに膝を痛めてしまったのだ。

さいわい関節や靱帯の怪我ではなく、筋肉疲労からくる痛みであった。登山やマラソンではままあるらしいが、監督やディレクターには親ほど離れた年齢の方もいる中、当時まだ二十代であった自分が……と、今思い出すだけでも恥ずかしい。それがきっかけで定期的なジム通いを始め、パーソナルトレーナーにウエイトトレーニングの指導も仰いだ時期もある。

まだまだへなちょことはいえ、ここ最近は扱える重量もちょっと増えてきた。春も近づいてきたことだし、久しぶりにこのシューズで軽いトレッキングに再チャレンジしてみようか? と思い立ち、丹沢大山に行ってみることに。私は今まで山に縁がなかったので、お試しコースとして山頂ではなく山の中腹にある阿夫利神社の下社まで歩くことにした。とはいえ山の中を歩くので、数年ぶりに足を通すシューズや服装など、念のためアウトドアショップの店員にチェックしてもらってから当日を迎えた。

当日は軽く寝坊し、昼過ぎののだいたい13時前に伊勢原駅に到着した。伊勢原駅に発着している神奈川中央交通バスで20〜30分ほど揺られて「大山ケーブルカー駅」に降り、さらにこま参道を15分ほど歩くのだが、このこま参道もくせ者なのだ。なんと階段が362段もある。ここで既にギブアップしたくなる人も多いだろう。私はというと、日々のトレーニングのおかげか少し心拍数が上がる程度で気持ちよくのぼれていた。よしよし、けっこう脚強くなっているじゃないか、と得意げにケーブルカー駅周辺に到着する。

ここからケーブルカー、急な石段や足場のある男坂、いくらかやさしい女坂と分岐が三つに別れる。これらのジェンダー表現もそろそろ見直されるのだろうか、これは「文化」として残るのだろうかなどと考えつつ女坂を選ぶ。石段をのぼると幻のような、いや、むしろつい数時間前まで乗り継いだ駅や街のほうが幻だったかのような、清冽な空気に切り替わった。前日までは天気が安定していなかったようで山がしっとりとしていて、冷えた草の匂いがする。

橋を渡って階段を上ってゆくと、「女坂の七不思議」という看板が目に入る。大山の女坂には七つの不思議な伝説のある湧き水や地蔵、菩提樹や岩などがあり、それらを探しながらトレッキングを楽しむことができるそうだ。ちょうど柳田國男『遠野物語』を読んでいたので、山の怪異に興味津々になりながら不揃いの石段をひたすらのぼる。空気はしんと冷えているのに、心拍数が上がり体は燃えるように熱い。歩き慣れているようすの、数人の軽装の女性たちが通り過ぎる。驚いたことに、その中にひとり白い着物を着て草履を引っかけた女性がいたのだ。もしかして、このコースにトレッキングシューズは気合い入れすぎだったか? ちょっとだけ恥ずかしくながら気を取り直して先へゆくと、石段はますます狭く高く、険しくなってゆく。

3年前に膝を痛めた羽黒山のように、長い道であるものの石段は低く参道は広く、大自然や五重塔を見上げながらゆっくり歩いてゆく……といった道を想像していたのだが、とんでもない。大山は山頂標高が1252m、今回の目標である阿夫利神社下社は696m。後から調べたのだが羽黒山は414mなので、私は山レベルをややすっ飛ばしてしまったようだ。獣道ではないが、うっかり足を滑らせたら滑落してしまいそうな道もあって恐々とする。焦って一歩一歩が大股になるが、「焦って早く行こうとして無駄に体力を消耗しないように、無理をしないで」というアウトドアショップ店員の忠告が頭によぎり、慎重に足を繰り出し直す。顔を上げると吸い込まれそうな濃い山の世界に囲まれていて、聞こえてくる音は葉が風に擦れる音、湧水のせせらぎ、遠くで鳴いている鳥の声、そして私の心音と呼吸音だけだった。

この平日だったのとスタートが比較的遅かったとはいえ、さっきの着物の女性含めた集団以外、大山にしては人がほとんどいない。もしかして私は遭難したのか? いやいや石段の上しか進んでいないぞ……と不安になりながら進むと、静かな山のせせらぎや風の音の向こうに念仏が混ざって聞こえてきた。次第に、DJの曲繋ぎのようにその念仏のボリュームが上がってゆく。焼香の匂いもほのかに流れてくる。冷気――というよりも霊気が頬に触れる感じがする。現代の郊外育ちの私にとっては、異界めいた雰囲気が流れ込んできた。

それでも急峻な階段を踏ん張り登ると、今度は背丈の揃った階段が空に続いていた。坂の途中にある大山寺である。息せき切ってその参道の階段を上がると、爆音の念仏がどっと押し寄せて足元がよろけそうになった。

雨降山 大山寺

神奈川県伊勢原市大山724
*神奈川中央交通バス「大山ケーブル駅」より大山ケーブル使用の場合「大山寺駅」

お参りとお賽銭でも投げようと本堂を覗くと、さっきまでの人気の無さが嘘のように、大きな本殿の中に参拝しに来たひとたちが隙間なく座って手を合わせている。ここまでお寺の中に人がいるのを初めて見て圧倒されてしまった。何かを祈る背中を私のような関係ない人間が興味本位で眺めるのはなんだか申し訳なくなって、浄財箱に小銭を入れてからそそくさと下りると「本日御開帳日」と大きく書かれた看板を見つける。

どうやら、この日は大山寺の一年に一度のイベントである五壇護摩(ごだんごま)が行われていたようだ。そんな大切な日に参拝できてラッキーだなぁ、とありがたい気持ちになる。少し多めに持ってきたポカリを飲んで、念仏を背に登山ルートを先に進み出した。

七不思議の中で最も興味深かったのは、大山寺を発ってすぐにある潮音洞(ちょうおんどう)だった。紙垂の下げられた岩盤の穴から潮騒の音が聞こえるのである。もちろん超自然的な怪異ではなく、科学的な自然現象だろう。木々や近くの水流の音が四角形の穴の中でうまいこと反響すると海みたいに聞こえるんだなぁ、とついつい乾いた考察をしてしまったが、しかし怪異でも自然現象でも不思議は不思議なのだ。

途切れることなく聞こえてきた念仏も聞こえなくなってくると、また急な石段が続く。熱い冷や汗をかきながら進む。息は上がって体は熱いのだが、冷気で妙に頭は冴えて集中している。目に飛び込む景色も美しくて、苦しいけれど気分はいい。

――と、一意専心な登山マインドになれるわけでもなく、私、何してるんだ? 大山は熊も出るのに、危険を冒してまで膝関節を削りに行ってどうする? 足腰を鍛えるのならジムのほうが安全じゃないか? てかファストフード食べたいなぁ、私は柳田の言う「平地人」なんだ。平地人の何が悪い。身体的弱者が生きられる社会はすばらしいだろうが。自然マチズモめ――冴えた脳では悪口も鋭くなってゆく。歩く雑念の塊が、より磨かれたそれになっただけだ。

手すりや鎖も打たれているので登山好きにはやさしいルートかもしれないが、完全な初心者にとっては思ったよりしんどい! それでもなんとか登りきり、阿夫利神社の下社に到着。神社の境内へはまた階段が続くのだが、「はいはい、登りますよっと……」といった感じでもう階段に対して驚かなくなっていた。下社といっても関東平野を見張らせる高さで、この日は運良くよく晴れていて江ノ島も見えた。高所恐怖症にもこの景色は清々しいご褒美である。時間にして約45分ほどの、ぎゅっと凝縮した初心者トレッキングだった。

休憩がてら、神社に併設されている茶寮「石尊」というカフェに入った。頼むか迷ったけれど本日は残り三つと言われ、勧められるがまま名物の升ティラミスを注文する。抹茶とクリームチーズの塩味が効いていて、甘いのが得意ではない私でもつるっと平らげられた。
食後にコーヒーで一息ついていると、お店に女性客が数人入ってくる。序盤ですれ違ったあの白い着物の女性もいた。私のあとに升ティラミスは売り切れたようで、グループから落胆の声が上がる。
「せっかくがんばったのにねぇ」
「シフォンケーキと水まんじゅうはあるって。どうする?」
「そっかー、じゃあ下のラーメンでも食べようかぁ」
そんな会話が入り口で盛り上がっている。結局そのグループは「石尊」をさっぱり諦めて、神社の階段の下にある休憩処や茶屋に向かっていった。
なんとなく聞き流していたのだが、はっと気づく。あの白い着物のひと、まさかあの格好でここまで徒歩で来たのか!? こっちは高機能ウェアに身を包んでも汗ダラダラ、疲れにくいトレッキングシューズと着圧のある靴下を履いても、明日の筋肉痛がすでに怖いのに? そのひとが健脚なのか、私がよほど運動不足なのか、あるいはどちらでもあるのかわからないが、またも山で自分の心身の貧弱さを痛感する結果になった。

大山阿夫利神社下社・茶寮「石尊」

神奈川県伊勢原市大山355
*神奈川中央交通バス「大山ケーブル駅」より大山ケーブル使用の場合「阿夫利神社駅」

本来なら大山登山はここからが本番で、この阿夫利神社下社でお祓いをしてからやっと「入山」なのだが、私はここで終了。帰りはケーブルカーで下山した。若干の高所恐怖を感じながらも、約9分であっという間に分岐の大山ケーブルカー駅についてしまった。あっけなさすぎて言葉を失いながら、こま参道を下り始める。

そしてトレッキング中は気にならなかったが、こま参道の階段を下りている途中、片膝がカクンと力が抜けるようになってきた。――来た! 3年前に味わった同じ痛みである。女坂はあくまで大山登山のスタート地点までの道のりなのに……と情けなさを爆発させながら階段をえっちらおっちら下りる。

なんとかバスに辿り着き帰路についている間、考え事をしていた。次回はもう少しギアを揃えて阿夫利神社下社から山頂にも行ってみたいなぁ、いやいやしばらく女坂で慣れるべきだ、その前にスクワットの重量を上げなくちゃ、大腿四頭筋が硬すぎるんだろうな、もっとストレッチもしなくては、いつかはケーブルカーも使わず山頂まで踏破できるだろうか……。

そんな感じで、気づけば家に帰るまでずっと次のコースや段取りについて考えていた。初心者向けと気軽に行くと、こうしてあれよあれよと山の魔力に魅せられてしまうので、大山登山の際はくれぐれもご注意を。

児玉雨子 作詞家、小説家。

アイドルグループやTVアニメなどに作詞提供。第169回芥川賞候補にノミネートされた『##NAME##』(河出書房新社)、近世文芸読書エッセイ『江戸POP道中膝栗毛』(集英社)が発売中

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