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「友達がいなくても楽しく生きられる」は本当?「不要論」「必要論」から見えた人間関係の“コスパ化”

  • 2024.3.31
「友達不要論」「友達必要論」が対立することも
「友達不要論」「友達必要論」が対立することも

さまざまな社会問題を批評する評論家の真鍋厚さんによると、近年、孤独や孤立が社会問題として認識されるようになった影響で、友人をはじめとした人間関係に関するマニュアル本や専門家のインタビュー、有名人の発言などが注目されるようになってきたといいます。

そんな中、「友達がいなくても人生を楽しく生きられる。むしろ友達はいらない」といった友達不要論と、「友達の数が健康状態に反映される。友達がいないと健康状態が悪くなり、寿命も縮む」といった友達必要論がネット上などで登場しており、ときに両者は対立することがあるようです。

なぜこのような極論な理論に分かれてしまうのでしょうか。そもそも正解はあるのでしょうか。真鍋さんが解説します。

友人関係を築き健康を維持

まず友達不要論と友達必要論の対立ですが、前者については世間にはびこる「ぼっち」に対する寂しそう、かわいそうといった差別意識への反発のほか、家庭や学校などにおける既存の人間関係への不信感、後者については健康志向から来るコストパフォーマンス(費用対効果。略語はコスパ)の追求が背景にあると考えられます。

確かに学校や職場などで1人で食事をしている場合、一緒に食事をする相手がいないことに不安を感じる「ランチメイト症候群」という言葉があるほど、1人でいることを「変わったこと」「問題がある」と評価する風潮が依然として根強くあります。同調圧力といってもいいかもしれません。

また、「友達はいいもの」「友達が1人もいないのは人間的におかしい」などといった価値観があり、これが「ぼっち」への偏見を助長している面もあります。友達不要論は、このような価値観にノーを突き付けるとともに、積極的に1人になるメリットなどを示して、現状を肯定してくれます。

一方、友達必要論は、昨今の健康志向の高まりと密接に関連しています。新型コロナウイルスの流行を通じて、社会的なつながりの重要性とそれが心身に与える影響の大きさが再評価されると同時に、先進国で超長寿化時代を迎える中で、健康を維持していくためには良好な人間関係が必要との知見が広まっているからです。これは個人のレベルにとどまらず、政府の政策などにおいても実施されています。

例えば、英国の経済学者のノリーナ・ハーツは、いくつかの研究を踏まえ「ごくわずかな時間でも他人とポジティブなつながりを持てれば、その人の健康に大きなプラスとなる。ストレスの多い状況でも、友達がいるだけで、生理学的な反応が落ち着く(血圧やコルチゾール値の低下など)」と述べています(※1)。

2010年に発表されたある研究では、適切な社会的つながりを持つ人は、不十分な社会的つながりを持つ人に比べて生存の可能性が50%高いことが示されました(※2)。この効果の大きさは禁煙に匹敵し、肥満や運動不足などのよく知られている死亡危険因子を上回ると主張しています。

米国のハーバード大学は、80年以上にわたって幸福に関する研究を進め、大規模な追跡調査を実施してきました。この研究の現在の責任者で精神科医のロバート・ウォールディンガーと、副責任者で心理学者のマーク・シュルツは、「どの研究の知見も、人とのつながりの重要性を示している。家族や友人、地域社会とのつながりが強い人の方が、そうでない人よりも幸せで、肉体的にも健康だ」と指摘しました(※3)。

このような研究成果だけを見ると、友達必要論が優勢のようにも思えてきます。しかし、注意が必要です。先述のウォールディンガーとシュルツは、「自分が望む以上に孤立している人は、他者とのつながりを感じている人よりも早い時期から健康状態が悪化する」というように条件を付けているからです。

つまり、極端な話、「友達がゼロでも苦にならない。かえって1人の方が楽」という人は当然いるわけで、この人は「自分が望む以上」には孤立していないのです。

例えば、2021年に死去した脚本家の橋田壽賀子さんは、「友達がいないというのは、すごくさわやか」と発言するなど、友達をつくらない立場を公言している有名人の一人ですが、そのような人がまったくいないわけでもないようです(※4)。

「友達」の定義は難しい?

ここで少しばかり検討が必要なのは、「友達」「友人」のそもそもの定義です。夫婦のように契約関係にあるものではなく、恋人のように「付き合う」ことを合意するものでもないため、非常に線引きが難しいのです。ただの「知り合い」「知人」とどう違うのかと問われると、本人の主観でしかないようにも思えてきます。自分は「友達」と捉えていても、相手が同様に考えているとは限らないからです。

どちらにしても、ウォールディンガーとシュルツが「重要なのは人間関係の質」と述べている通り、周囲の人々の定義などよりも、「心が通っているかどうか」「活力をもらえているか」などといった実利の有無こそが大切だといえます。

人を不愉快な気分にさせたり、約束を守らず、うそを吐いたりして迷惑を掛けたりする友達を「毒友」と呼ぶようですが、形だけの人間関係にこだわっていると、「毒友でもいないよりはまし」などと本末転倒なことになるでしょう。

そうすると、仮に定期的に会う友達はいなかったとしても、たまに会う知り合いやジムのインストラクター、なじみの飲食店の店主といったような浅い付き合いによって、日々の「人間関係の質」が担保されているのであれば、さほど問題はないのかもしれません。

結論的には、友達の数や必要性は「人による」となりますが、やはり問題なのは、先述の「自分が望む以上に孤立している人」です。しかも孤独感は、極めて個人的なものなので、家族や友人に恵まれていても強い孤独を感じる人もいますし、常にいろんな土地を渡り歩いているような独り者にもかかわらず、まったく孤独を感じない人もいます。

また、友情という手あかの付いた言葉も、この問題の正確な理解を妨げかねません。友情という概念はもともと明治期に海外から輸入されたものです。それが文学などを通じて一般にも定着し、理想化された「親友」、「魂の友(ソウルメート)」に発展しました。それ以前で近い言葉は「義兄弟」ですが、これは現在の友達というものとは異なります。

いずれにしても、誰もが目指すべき模範となる友達関係というものは存在しませんし、何が「友達」を意味するのかも自明ではありません。ただし、「人間関係の質」が幸福の主要な因子であり、健康にも大きな影響を与えることもまた事実のようです。

最近よく目にするのは、人間関係を資産運用と同じくポートフォリオを作って、どのような投資をしたら利益を得られるか、という考え方です。これほどまでに人間関係がコスパ、タイパ(時間対効果。正式名称はタイムパフォーマンス)感覚でコントロールすることの重要性が説かれ、自己啓発の手段として先鋭化している時代はないのかもしれません。

【参考文献】(※1)『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』(藤原朝子訳、ダイヤモンド社)(※2)Julianne Holt-Lunstad,Timothy B.Smith,J.Bradley Layton“Social Relationships and Mortality Risk:A Meta-analytic Review”July 27,2010/PLOSMEDICINE(※3)『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』(児島修訳、辰巳出版)(※4)橋田壽賀子、友達は「ほんとに欲しくない」 断言するワケ/2020年2月8日/AERA dot.

評論家、著述家 真鍋厚

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