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「気のせい」で終わらせてはいけない…アカデミー賞授賞式で露呈したアジア人が無視される大問題

  • 2024.3.27
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2024年3月10日、アメリカで行われた第96回アカデミー賞授賞式。全世界が生中継で注目したその晴れやかな場で、アジア人俳優を差別する振る舞いがあったのではという疑惑がある。アメリカで大学教員をしていた柴田優呼さんは「欧米では、アジア人がそこにいないものとして無視される現象がしばしば起きる。それを『気のせいだ』と問題視しないことは間違っている」という――。

土産店のオスカー像
※写真はイメージです
前年は『エブエブ』旋風で中国系俳優がダブル受賞したが…

2024年の第96回アカデミー賞授賞式は、昨年と打って変わった展開となった。昨年は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』主演の中国系マレーシア人で、香港映画界でも活躍してきたミシェル・ヨーが主演女優賞を受賞した。共演者であるベトナム華僑でアメリカ人のキー・ホイ・クァンも、助演男優賞を受賞。ヨーの主演賞受賞は、アジア系俳優では初めての快挙。クァンの助演男優賞受賞も、アジア系俳優では38年ぶりのことで、日本でも受賞を喜ぶ声が広がった。

それまで2020年頃から、コロナ禍のアメリカでは、アジア系の人々をターゲットにした暴力事件が多発してきた。「ブラック・ライブズ・マター」運動を全米に広げた黒人に比べ、おとなしいと思われてきたアジア系アメリカ人から強い抗議の声が上がり、それをアメリカのメディアも大きく報道した。アジア系の人々の存在が以前よりアメリカ社会でクローズアップされるようになり、そうした中で起きたオスカーのダブル受賞だった。それまで影の薄かったアジア系の人々も、ようやく日の目を見る時がきたように思われた。

ところが今年のアカデミー賞授賞式は暗転。昨年の高揚感に、冷や水を浴びせるような出来事が起きた。最初は、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニー・Jr.が、昨年受賞したキー・ホイ・クァンからトロフィーを受け取る際のことだった。ダウニー・Jr.はクァンを一顧だにしないまま、トロフィーだけ片手で彼から取ると、壇上にいたティム・ロビンスと握手し、サム・ロックウェルとは互いのこぶしを当てて、しっかりあいさつを交わした。その間クァンは全く無視され、受賞者の名前が入った封筒を渡すことすらできない様子がカメラに映し出された。

白人の受賞者が前年受賞者のアジア人俳優を無視?

受賞トロフィーは、前年受賞者が渡すのが恒例だ。だが今回は珍しく、過去の受賞者が5人も壇上に並び、その中央にキー・ホイ・クァンが立つ設定となっていた。このため対応の落差が際立つ結果にもなった。プレゼンターが5人になるのは、2009年に行われた形式にならったもの(2010年にも規模を縮小して行われた)。俳優同士のつながりや交流も披露することができる、といった理由で今回、復活していたのは皮肉だ。その時は白人に交じってハル・ベリー氏ら黒人俳優も一部壇上に上っていたが、アジア系俳優の姿はもちろんなかった。

ロバート・ダウニー・Jr. の振る舞いに続いて起きたのが、主演女優賞を受賞したエマ・ストーンを巡る一幕。ストーンに授与するためミシェル・ヨーが手にしていたトロフィーはなぜか、ヨーの隣にいたジェニファー・ローレンスの手元に移り、トロフィーは、ローレンスからストーンに渡された。ローレンスを後ろから止めようとするサリー・フィールドの姿がカメラに映った。

授与後、エマ・ストーンとジェニファー・ローレンスは間髪を入れず、ハグ。続けてストーンはサリー・フィールドともハグしたが、近くにいたミシェル・ヨーは素通り。壇上にいた他の2人に軽く挨拶した後、最後にストーンは申し訳程度に、ヨーにも軽く挨拶した。

クァンと目を合わせなかったロバート・ダウニー・Jr.

キー・ホイ・クァンにしてもミシェル・ヨーにしても、栄えある前年受賞者にふさわしい扱いだったようには見えなかった。この出来事に対し、X(旧ツイッター)などで、大きな批判の声が上がった。海外在住者や渡航経験者の間で、自分も同じような扱いを受けた、という投稿が相次いだ。このアカデミー賞授賞式の様子を見て、やっとあの時の自分の経験が何だったかわかった、という声もあった。キーワードは「透明化」。まるでその場にいない人であるかのように無視されることだ。

第7回アジア・フィルム・アワードのミシェル・ヨー、2013年3月18日、香港
第7回アジア・フィルム・アワードのミシェル・ヨー、2013年3月18日、香港

私自身、約20年海外に住み、教員として大学で教えたりしてきたが、白人がマジョリティーの国々では、数えきれないほどそうした扱いを受けた。食事や買い物など日常の場面だけでなく、大学内部や学会などでもそうだった。あまりによく起きるので気のせいだとは思えず、何か自分に問題があるのだろうかと思ったほどだ。でも香港や台湾、東南アジアで経験したことはない。明らかに私がアジア人女性であることと関係している。

これは人種差別というほど露骨ではないが、日常生活の行動や表現において、ささいな形で起きるマイクロアグレッション(自覚なき差別)の結果だと言えるだろう。今回のアカデミー賞授賞式で私たちが目にしたのも、それが形を取った出来事のように思える。Xでは問題にしすぎだという声も上がったが、こうした出来事を無視するべきでない理由は2つある。

アジア人の「透明化」は問題視するべきではないのか

1つは、アジア人である私たち自身のためだ。というのは、こうしたマイクロアグレッションを受けると、知らないうちに心理的に大きな負担がかかる。自身もアジア系アメリカ人男性であるデラルド・ウィン・スーは著書『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)で、そう指摘している。

今回多くの人たちがXで声を上げたということは、ささいなことのように見えて、喉に刺さった小骨のように、そうした経験がずっと彼らの心に引っかかっていたことを示している。こうしたことがきっかけで、海外留学や就労、移住、海外とのビジネスや海外旅行を考えていたのに、二の足を踏むようなことになったとしたら、個人的にも大きな損失だ。そんな不利益を、私たちがこうむるゆえんはないからだ。

もう1つは、マジョリティーである白人のためだ。彼らにしても、差別的な振る舞いをしたように見られたくはないはずだ。しかし今回、実際はどうであれ、彼らが多くのアジア人やアジア系の人々に良くない印象を与えてしまったのは確かだ。

多数派である白人は自分たちの差別意識に気づいていない?

マイクロアグレッションの特徴の1つに、加害者が自分の行為に気づかない、ということが挙げられる。ダメージを避けるために、アカデミー賞のように世界の衆目を集める場で、アジア人の同輩に対しどのように振る舞うべきか、彼らは知っておくべきなのだ。もちろん日常生活でも、同じように振る舞うべきだが。

ではこの2つのケースで、彼らはどうすればよかったのだろう。一言で言えば、ロバート・ダウニー・Jr.はキー・ホイ・クァン、エマ・ストーンはミシェル・ヨーの存在をきちんと認めて応えればよかったのだ。英語で言う「acknowledge」をするという行動を取ればよかった。例えば、目を合わせて握手やハグをしたり笑顔で短く言葉を交わしたりするという、ただそれだけのことだ。

ロバート・ダウニー・Jr.はクァンからトロフィーを受け取る時、そうすれば良かったし、エマ・ストーンはミシェル・ヨーではなく、ジェニファー・ローレンスからトロフィーを受け取る形になっても、その場ですぐヨーに対し、皆にわかる形で謝意を示すべきだった。またローレンスもヨーに対し、授与役をさせてもらったことを感謝するしぐさをするべきだった。それが「acknowledge」する行為を通じて、リスペクトを示すということだ。

だが、彼らはそうした行動を取らなかったので、本意ではなかっただろうに、まるで植民地時代や奴隷制の下、非白人を無視して平気な白人植民者であるかのようにも見えてしまった。

ビジネスの会議をする白人とアジア人
※写真はイメージです
「エマの親友と一緒にトロフィーを渡したかった」

ここでもう一つ考えたいのは、ミシェル・ヨーの対応だ。ヨーはインスタグラムで「エマ・ストーンの親友であるローレンスと一緒に、トロフィーを渡したいと自分が考えた」と明かした。これをどう考えるべきだろうか。私から見ると、ヨーの意図は成功したとは言えない。上記で述べたように、もしそうであるならヨーの計らいに対して、ストーンとローレンスが謝意を示すジェスチャーを取らないと、この目的は完遂しない。それなしには、2人の態度が失礼に見えてしまうことに変わりはないからだ。

エマ・ストーンがミシェル・ヨーに、トロフィー授与時に即座に謝意を示さなかったのも、ミシェル・ヨーの意図が正確に伝わらず、とまどっていた可能性もある。

ミシェルが一人でトロフィーを渡さなかった理由は?

また、なかなか直視しにくいことだが、マイクロアグレッションの被害を受けた当人が、加害者のために、わざわざ言い訳をしてあげることも、少なからず起きる。

そもそもなぜミシェル・ヨーは、自分一人でトロフィーを渡さなかったのだろう。なぜローレンスと一緒に渡すことを考えたのだろう。ヨーは先述のインスタグラムで、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で共演したジェイミー・リー・カーティスとの友情にも言及しており、アジア人女性と白人女性との間のシスターフッドの存在を強調したかったのかもしれない。だが、そのように受け取っている人はほとんどいないのが現状だ。

私が気がかりなのは、ミシェル・ヨーにどこか気後れはなかったのかということだ。歴史的に白人が牛耳ってきたアカデミー賞授賞式の場で、「この場の主役は白人のあなたたちで、アジア人の私ではない」という意識がどこかになかったのだろうか。

ミショル・ヨーのアカデミー賞受賞を知らせるマレーシアのパネル、2023年
ミショル・ヨーのアカデミー賞受賞を祝うマレーシアのパネル、2023年(※写真はイメージです)
ミシェルの振る舞いは後進のアジア人のためにならない

欧米では、アジア人女性は往々にして、自己犠牲を美徳とする、というステレオタイプを押し付けられてきた。オペラ「マダム・バタフライ」のストーリーはその典型だ、とアジア研究の分野では長く批判されてきた。本来そのつもりはなくても、結果として、ミシェル・ヨーはそのステレオタイプを自ら演じてしまわなかっただろうか。

ミシェル・ヨーが主演した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、アジア系移民の世代間格差が大きなテーマで、最終的には、理解できない娘のことを母が受け入れる物語となっていた。でも残念ながら、アカデミー賞授賞式でのヨーの行動は、アジア系の娘たちのロールモデルになるもののようには見えない。

若い世代のために「自己犠牲をするアジア人」から脱するべき

私がアメリカの大学で教えていた時、アジア系アメリカ人やアジア人の女子学生がクラスにたくさんいた。教室では彼女たちは活発で、白人や黒人やヒスパニック系などの学生たちに交じり、それぞれ自分の個性と性格に基づいて、思い思いに行動していた。彼女たちが教室を出て社会に入っていった時、アジア人女性というカテゴリーに押し込められ、自己犠牲の名の下に、自分より白人女性を優先するのが良いことであるかのような経験はしてほしくない。

ミシェル・ヨーは既に、アジア人初のアカデミー主演賞受賞という偉業を成し遂げた。それは、これまで他の誰にもできなかったことだ。多くのプレッシャーの中でそこまで達成した彼女に、全てを求めるのは酷なことでもある。

だから、彼女が到達してくれたところから、今後さらに私たちがバトンを引き継げばいいということだ。アジア人が白人社会で、きちんとリスペクトを払われるようにするため、私たち一人ひとりがもっと働きかけていくことが、アジア人と白人、またその他の非白人の人々のためにもなることだと思う。

柴田 優呼(しばた・ゆうこ)
アカデミック・ジャーナリスト
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。

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