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週3で人工透析を受けながら現場で一番大きい声を出す…車椅子でメガホン握る92歳"最高齢女性映画監督"の信念

  • 2024.3.26
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映画監督だった夫の後を継いで監督デビューしたのは64歳の時だった。その後10の作品を世に送り出してきた。活動の原点にあるのは女性が自立することを想像すらできなかった、幼い頃の記憶。連載「Over80 50年働いてきました」14人目は国内最高齢の女性映画監督、山田火砂子さん――。

インタビューに答える山田火砂子監督
インタビューに答える山田火砂子監督
今も「現場で一番大きい声を出している」

国内最高齢の現役女性映画監督、山田火砂子さん(92歳)は、週3回人工透析の通院を続けながらメガホンを取り、2024年2月に新作『わたしのかあさん―天使の詩―』を完成させた。移動の際は車椅子を使うものの、撮影現場では大きな声で指示を出す。事務所のスタッフは「寺島しのぶさんが『現場で一番大きい声を出しているのが山田監督ですね』と驚いていました」と振り返る。

新作「わたしのかあさん―天使の詩―」撮影現場で、主演の寺島しのぶさん(左)と監督の山田火砂子さん(中央)
新作『わたしのかあさん―天使の詩―』撮影現場で、主演の寺島しのぶさん(左)と監督の山田火砂子さん(中央)
原点になった戦中、戦後の記憶

彼女の映画づくりの原点には、女性が自立することを想像すらできなかった幼い頃の記憶がある。

山田さんが東京府豊多摩郡落合村(現在の新宿区)で生まれたのは1932年(昭和7年)、満州事変の翌年だ。幼い頃から少女時代にかけての記憶は、戦争とともにある。

「小学校1年の時に、床屋のみよちゃんが疎開していった。埼玉だったか栃木だったか……。泣きながら別れたのを覚えてる」

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
連載「Over80 50年働いてきました」はこちら

13歳の時には、山の手大空襲を経験した。何百機ものB29が空を覆い、焼夷弾によってあたり一面が火の海になった。川の近くまで逃げ、水に濡らした布団をかぶってなんとか命拾いしたものの、当時の恐怖心はいまも消えない。「花火なんて見ないよ。あれ見ると、思い出しちゃうからね」

敗戦後は、誰もが必死で生きていた。NHKの連続テレビ小説「ブギウギ」にも登場した「パンパン」と呼ばれていた女性たちも見かけたことがあったが、「映画やドラマとは全然違う」と話す。

「自分の身を捨てても親やきょうだいを助けてやろうと、死に物狂いで生きていた女性たち。刺青を入れて、おっかなかった。じろじろ眺めたら殴られちゃうような感じだったよ」

「男天下」の時代だった

男女差別は「ひどいなんてもんじゃなかった」。ソフト帽を被った男性がステッキをついて歩く後ろを、子どもを背負い、両手に荷物を持った女性が追いかける姿を何度も見た。

「男は荷物を持つこともなく、『早くしろ。置いていくぞ』なんて言ってた」

山田さんは幼心に「なんだい、えばりくさりやがって」と思っていたそうだ。

男性が気に入った女性を追いかけまわし、女性が嫌がっても「お前が色気を振りまくのが悪い」と言う。戦争で男性が減り、女性が市電の運転手をするようになると「女が運転してんだって」とバカにされる――。「男天下」の時代だった、と振り返る。

それでも、商いをしている家庭では雰囲気が違っていた。夫が品物を作り、妻が売る店が多く、「女房に逃げられたら食っていかれないからね。共存共栄で食ってた連中は小商人だけ。あそこには自由があった」。品物作りから店番までやっている女性もいて、「かっこいいなと思って見てた」と振り返る。

山田さんの実家はパン屋を営んでおり、父親は優しい人だったそうだ。

山田さんは幼い頃からしっかりしていて、父親は「もったいないな。男に生まれりゃよかったな」と悲しんでいた。「男しか自立できない、えらくなれない社会だったからね」

ミュージシャン、女優から40代でプロデューサーに

山田さんは女学校に在学中、女優を目指して新人俳優発掘のためのオーディション「大映ニューフェイス」に応募した。「違う世界に飛び出してみたかった」からだ。落ちたものの、聴講生として学校に通い始めた。

10代の終わりごろに女性バンド「ウエスタン・ローズ」の一員として進駐軍のクラブをまわるようになり、その後は女優に転身。コントや芝居をやりたくて浅草演芸場にも立った。

「ウエスタン・ローズ」の一員として活動していたころの山田火砂子さん(前列左)
「ウエスタン・ローズ」の一員として活動していたころの山田火砂子さん(前列左)

29歳で結婚して長女と次女を出産。離婚後、43歳の時に再婚した相手が、16歳年上の映画監督、山田典吾さんだった。

「(山田典吾さんと)結婚したときは『私、もしかしたら女優に復帰できるかな』と思ったの。そしたらさ、典吾さんが言うことがふるってんの。『年寄りの女優は売るやつがいないんだよ。頼むからプロデューサーになってくれないか?』って。それからは、苦労の連続ですよ」

映画をどう売ればいいのかなんて、見当もつかなかった。まずポスターを作らないといけないと教わり、漫画家の赤塚不二夫さんに頼みに行った。赤塚さんがノーギャラで描いてくれた絵を持ってデザイナーのところへ。デザインも完成し、35万円を払って5000枚を印刷してもらったら、配給会社から「裸とかセックスシーンがないとお客は観にこない」と言われてがくぜんとした。

常に借金に追われ、生活のめどが立たず、お酒や競馬におぼれた時期もあった。「プロデューサーは、お金があれば全然平気ですよ。何の商売でもそうだけど、お金を出せばいくらでも作れます。でも、お金がなくて映画を作らないといけない大変さといったら……」

小さかった娘たちを車に乗せて走り回っていると「子連れ狼」と呼ばれた。そのようにしながら、典吾さんが監督を務めた三國連太郎主演の『はだしのゲン』(1976年)や芦屋雁之助主演の『裸の大将放浪記 山下清物語』(1981年)などを世に送り出した。

「私が監督をするしかない」64歳で監督デビュー

1998年に典吾さんが亡くなると、典吾さんが率いた会社「現代ぷろだくしょん」の監督がいなくなってしまった。「自分で監督をするしかない」。64歳で撮った初監督作品は、自身と娘が暮らした日々を描いたアニメ。2004年には、3000人の孤児を救った人物を主人公にした『石井のおとうさん ありがとう 岡山孤児院・石井十次の生涯』(出演=松平健、永作博美、竹下景子ほか)を撮った。72歳での実写映画デビューだった。

その後も、監督として10本の映画を製作してきた。反戦をテーマにすることが多く、『母 小林多喜二の母の物語』(2017年、出演=寺島しのぶ、塩谷瞬ほか)では国家権力に立ち向かい、拷問死した小林多喜二の母の姿を描いた。パンフレットには「戦争を二度としてほしくない。こんな時代を作らないでとの願いを込めて作りました」と記した。

山田さんは、広島で原爆に遭った友達から若い頃に聞かされた話がいまも記憶に残っている。原爆で亡くなった人たちの死骸をザリガニが食べ、人間はそのザリガニを食べて生きざるをえなかった、と。「そんなもんなんだよ、生き残るっていうのはさ」

2017年に公開した「母 小林多喜二の母の物語」のワンシーン
2017年に公開した『母 小林多喜二の母の物語』のワンシーン
女性もきちんと主張を

男女平等も大切にしてきたテーマのひとつだ。

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(2019年、出演=若村麻由美、山本耕史ほか)で取り上げたのは、日本で初めて医師になった女性。荻野は夫から性病を移されたあげく、「子どもを産めない嫁はいらん」と家を追い出された。女性が医師になる道が閉ざされていた時代に、粘り強く学び続けて医師になった荻野のことを多くの人に知ってもらいたいと映画化を決めた。医学部入試で女性が差別されていた問題が明らかになった翌年に完成した。

『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(2022年、出演=常盤貴子、石黒賢ほか)では酒乱の夫に離縁状を突きつけ、婦人参政権運動などに尽くした女性を映画にした。作品の中で、矢嶋は次のように語る。


運命とは、命を運にあずけることです。
大切な命を運に任すのではなく、
これからの女性は、使命を持って生きてください。
使命とは、命を使うことです。
自分の命は、自分で使うのです。

これは、山田さんの想いでもある。

「女性が男性に依存せず、きちんと主張してほしい。素手と素手でけんかしたら力の強いほうが勝つけど、強者だけで国を作ると戦前のように軍国主義になるよね。女性が主張して戦争に反対すれば、戦争はできないはずだと思う」

最近、街中で男性が幼い子どもを抱いたり背負ったりしているのを見ると、嬉しい気持ちになると話す。「典吾さんはお茶も入れないし、どっかり座って何もしなかった。いまの男の子を見ると、良い教育だなと思いますよ」

山田さんが大切にしてきたテーマは、反戦と男女平等に加えてもうひとつある。それが障害者福祉だ。長女が幼い頃にわかった障害がきっかけだった。

(後編に続く)

「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」撮影中の、主演・常盤貴子さんと山田火砂子監督
『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』撮影中の、主演・常盤貴子さんと山田火砂子監督

山本 奈朱香(やまもと・なすか)
ライター
京都生まれ。小学生の3年間をペルーで過ごす。大学院修了後に半年間バックパッカーで海外をめぐった後、2006年に朝日新聞社入社。青森総局、東京社会部、文化くらし報道部などを経て2023年に退社。関わった書籍は『「小さないのち」を守る』『Dear Girls』『平成家族』『調理科学でもっとおいしく定番料理』(いずれも朝日新聞出版)。ヨガインストラクターとしても活動。

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