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「最も輝いた時代をそのままに残したい」と42歳でマイクを置いた…己に厳しかった笠置シヅ子"引き際の美学"

  • 2024.3.25

笠置シヅ子が1956年の紅白歌合戦後に歌手引退したのはなぜか。笠置の評伝を書いた砂古口早苗さんは「引退の理由を『太ってきたから』とも語った笠置。自分のあとを追いかけるスターたちの若さには勝てないと気づき、歌って踊る歌手としての限界を悟ったのではないか」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

一世を風靡したブギが下火になり「三人娘」のマンボがヒット

歌謡界では昭和20年代後半にブギが下火になり、世界的ブームとなったマンボが日本でも大流行すると、いろんな歌手がマンボの曲を歌った。笠置も1955年に「ジャンケン・マンボ」「エッサッサ・マンボ」(ともに服部良一作曲)を吹き込んでいる。だが、ブギの女王・笠置のマンボは注目されなかった。

ヒットしたのは美空ひばりの「お祭りマンボ」(1952年)や江利チエミの「パパはマンボがお好き」(1955年)、雪村いづみの「マンボ・イタリアーノ」(1955年)だった。時代はすでに三人娘の全盛期となる。1956年にはキューバからペレス・プラードが来日している。レコード業界も技術革新が進み、それまでのSP盤からLPやEPシングル盤に切り替わる。

1956年1月、日劇「ゴールデン・パレード」。3月、日劇「たよりにしてまっせ」(主演はミヤコ蝶々、南都雄三)の公演を終えた後、突然、笠置は舞台活動を停止した。実はこの1956年は笠置シヅ子の謎の年で、それまでから一転して活動が激減し、空白の1年といってもいい。笠置の活動を前年までは追えたが、56年の彼女の資料がそれまでより極端に少ないのである。ラジオ出演や雑誌のインタビュー記事がいくつかあるが、舞台や映画などの活動をほとんどしていないと思われる。

引退2年前の笠置シヅ子
引退2年前の笠置シヅ子(写真=『アサヒグラフ』1955年12月7日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
笠置シヅ子の歌手引退前の「空白の1年間」とは?

1956年春、「ジャジャンボ」「たよりにしてまっせ」の2曲を吹き込み、これが笠置の最後のレコードとなった。12月31日、第7回NHK紅白歌合戦に出場して大トリを務め、「ヘイヘイブギー」を歌う。そしてこれが“ブギの女王の花道”を飾るものとなった。この年のいつの時期かは不明だが、笠置は歌手を辞める決意をしたのではないかと思われる。

笠置は後に、「それまで『歌う喜劇女優』として望外の知遇を得たが二足のわらじを履くことを断念した」と述懐している。そう割り切るまでには苦悩もあったと正直に述べていて、それがちょうどこの年だったことになる。

1957年早々、笠置は「歌手を廃業し、これからは女優業に専念したい」と公表した。1956年の空白の謎が、これで氷解した。

歌手廃業の理由を笠置ははっきりとこう述べている。

「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」いかにも自分に厳しい笠置らしい理由だ。一度こうと決めたら切り替えは早く、しかも頑固だ。その発言どおり、ブギの女王・笠置シヅ子はスポットライトから静かにフェードアウトした。

歌手廃業の理由を笠置は後年、自分が太ってきて踊れなくなったからだと述べている。笠置の声は肉体と一体であり、笠置の歌は踊りと切り離せない。踊れなくなると、「歌って踊るブギの女王・笠置シヅ子」ではなくなる。自分に厳しい笠置はそう考えたのだろう。

引退の理由は「太ってきて踊れなくなったから」とも

私は“踊る笠置シヅ子”を知らない世代の一人だが、1948年の映画『春爛漫狸祭』のフィナーレで踊る笠置の脚が、あまりに高く上がるのを見て驚いた。しかも体形はスリムである。このシーンで彼女がレビューダンサーだったことを改めて思い知らされた。この時の笠置は34歳だったから、戦前の20代ではもっと高く上がっていたかもしれない。だから1950年代半ばになり、40歳を過ぎた笠置が引退を考えた気持ちは理解できないこともない。

もはや自分のあとを追いかけるスターたちのはじけるような若さには勝てないと気づき、歌って踊る歌手としての限界を悟ったのだ。この頃、巷ちまたではロカビリーが爆音のように流行の兆しを見せていた。笠置は背中で、容赦なく新しいスターを次々と登場させる時代の厳しさを感じていたのではないだろうか。1957年大晦日おおみそかの第8回NHK紅白歌合戦では、前年の大トリだった笠置に代わって、出場2回目で20歳の美空ひばりが女性陣のトリを務めたのは象徴的だ。

その陰で、時代に捨てられる前に自分から身を引き、ファンに惜しまれながらスパッとやめてしまうスター、笠置シヅ子。なんてかっこいいんだろうと思う反面、たとえ太って踊れなくても、少々声が出なくても、皺しわや白髪も含めて、容姿の履歴もまたスターの勲章だ。“ブルースの女王”淡谷のり子のように、中高年になって貫禄たっぷりの“ブギの女王”もいいではないか。ステージに現れるその存在だけで聴衆には懐かしく、うれしいという思いがある。笠置シヅ子の歌は笠置シヅ子が歌ってこそ価値があるのだ。

映画『春の饗宴』(1947年)より
映画『春の饗宴』(1947年)より
女優に専念しテレビ局や映画会社にギャラの引き下げを交渉

潔く颯爽さっそうと消えて行こうとする本人の固い意志と、いつまでも歌ってほしいというファンの願い……。その両方の思いがせめぎあい、今でも人々の心に揺れ動く。おそらくスター自身にも、年月を経ると同時に、スターの座に留まるべきか否かの深い葛藤があるに違いない。だが、笠置には笠置の美学があった。表現者として不可欠な挑戦意欲、緊張感やある種のはげしさが、年月とともに穏やかで円熟したものへと転化していくのは自然なことなのかもしれない。それもまた前向きだ。

笠置は映画会社やテレビ局を訪れ、

「これまでの歌手・笠置シヅ子の高いギャラはいりません。これからは新人女優のギャラで使ってください」

と挨拶あいさつして回った。ギャラのランクを上げてくれというのではなく、自ら下げてくれと頼んだ芸人はみたことがない、と業界では評判になった。人気というのは泡みたいなものだと、笠置は知っていた。スターの座や過去の栄光にすがることなく常に前向きで、溌剌はつらつとした笠置の姿が目に浮かぶ。そしてこれを機に、戦前から“笠置シズ子”と表記されていた芸名を廃し、女優・タレント“笠置シヅ子”としての新たな船出となった。

「もともと一本気だから、“なんでも屋”にはなれない」

この年から、ラジオ東京テレビ連続ドラマ「雨だれ母さん」(五所平之助監督)などのドラマやラジオ番組に出演する。

それまで歌う女優として舞台に映画にと活躍していた笠置が、歌手を廃業した理由をこう述べている。何事も一途に努力する笠置の、生一本な性格がよく表れている。

「歌える女優として望外の知遇を得ましたが、民放ラジオの各局からドラマ出演の交渉を受けるようになったのを機会に、二足のわらじを履くことを断念しました。(略)三十四歳でブギウギに挑戦し、四十歳をすぎてドラマを克服しなければならない“老いたる戦後派”です。もともと一本気の私なのですから、“なんでも屋”になりきれるわけがありませんもの」
(『婦人公論』1966年8月号「ブギウギから二十年」)

笠置が女優業に転身してすぐの頃、南原繁が笠置の出演するテレビ局のスタジオを訪問したという話を、私は南原の長男・南原実さん(東大名誉教授、1930〜2013)から直接伺った。

「昭和30年頃、父から、笠置さんが母親役で出演しているホームドラマのテレビスタジオを見学してきた、と聞いたことがあります」

と実さんは語る。そのとき実さんは20代後半だったという。

ホームドラマの「お母さん女優」としてキャリア転換に成功

南原は1951年12月に2期目の東大総長を任期満了で辞任し、以後は著作と講演活動で多忙な日々を送っていて、昭和30年頃は南原が60代後半ということになる。笠置は1961年から4年間、フジテレビの「台風家族」でも母親役を演じているが、時期から考えて、その前のラジオ東京テレビ(現在のTBS)の「雨だれ母さん」のときで、南原が見学した時期はずばり57年か58年だと考えられる。

笠置シヅ子の後援会会長を務めていた南原繁。田村茂撮影『現代日本の百人』1953年
笠置シヅ子の後援会会長を務めていた南原繁。田村茂撮影『現代日本の百人』1953年(写真=文芸春秋新社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)

二人が1951年に初めて会って以来、笠置は南原を父のように慕ってきたが、互いに多忙でなかなか会う機会がなかった。このとき笠置が南原をスタジオに誘ったのではないだろうか。

笠置が歌手を廃業して女優に転身した当時、「笠置さんはズルイ。目先を利かせて、うまいこと看板を塗り変えたわね」と言われたと、後に笠置は雑誌の手記に書いている(言った人物の名前は書かれていない)。笠置に面と向かってそんな“皮肉めいた冗談”を言える人物は、淡谷のり子以外にはいない。やがてその人物はこうも言っている。

「すっかり“お母さん女優”がイタについたわね。案外やるじゃないの」そんな“ゴマをすられて”、笠置は「襟すじをムズムズさせております」と書き、ユーモアでお返ししている。

砂古口 早苗(さこぐち・さなえ)
ノンフィクション作家
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など

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