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瀬戸内海でうさぎの楽園とダークツーリズム。地図から消された島「大久野島」で想う平和とは

  • 2024.3.16

瀬戸内海にポツンと浮かぶ小さな島・大久野島。

近年、たくさんの野生のうさぎとふれあえる島として注目され、今や連日、国内外から観光客が詰めかけるほどの人気ぶりです。

人懐っこいうさぎたちとのふれあいは、それだけ見れば平和そのもの。しかし、大久野島はかつて軍事下に置かれた戦争遺産島という裏の顔をご存じですか?

そんな負の歴史を抱えた大久野島でのダークツーリズムを通して、平和を考える旅をご紹介します。

「うさぎ島」で人気沸騰!瀬戸内海に浮かぶ「大久野島」とは

広島県竹原市の忠海港(ただのうみこう)からフェリーで約15分、瀬戸内海に浮かぶ「大久野島(おおくのじま)」は、周囲約4.3km、徒歩約1時間で島内一周できるほどの小さな離島です。

そんな大久野島が近年注目を集めているのは、今や島のシンボルともなった野生のうさぎたち。

島に生息する野生化したうさぎは500~600匹にも及び、そのモフモフとしたラブリーなビジュアルとエサに群がる人懐っこさで、コロナ禍前には国内外から年間40万人の観光客が訪れる一大観光リゾートとなっています。

では、そもそもなぜ、大久野島が「うさぎの島」になったのでしょう。

それは、さかのぼること70年余り前。戦後まもなく瀬戸内海国立公園に編入された大久野島は、本土からのアクセスが良好、かつ自然も豊富で島の歴史も学べることから野外レクリエーションに適した場所として国民休暇村が設置され、1963年(昭和38年)にオープンを迎えます。

その後、1971年(昭和46年)に、島外の小学校で飼いきれなくなったうさぎ8羽を放したのがきっかけでうさぎが野生化、繁殖を繰り返すうち、観光客による餌やりも一因で、ピーク時には1,000羽近くまで増加。コロナ禍の観光客激減で数はいったん減少したものの、現在では600羽近くが生息していると言われています。

動物好きにはたまらない「うさぎ島」としてすっかり定着した大久野島。

大久野島唯一の宿泊施設「休暇村 大久野島」は、天然温泉から瀬戸内のご当地グルメ、釣り、キャンプ、サイクリング、海水浴、屋外プールまでさまざまなアクティビティが楽しめる一大レジャー施設で、島内にはうさぎの耳のかたちをしたこんな“映える”集音器まで。

これだけ見れば、じつにのどかで、平和そのもの。

しかし、大久野島には、この平和な姿からは想像もつかない負の側面を秘めています。それは、第二次大戦の戦時下において、この島は殺人兵器である毒ガスを製造していた島だったということ。

今回は、教科書ではなかなか教えてくれない日本の「加害の歴史」の証が残る大久野島の負の遺産を通じて、平和を考えるダークツーリズムをご紹介します。

※「ダークツーリズム」とは、戦争跡地や災害被災跡地を訪れ、人類の死や哀しみの記憶をめぐる観光のこと。

「地図から消された島」大久野島

秘密にされた、毒ガス製造の拠点・大久野島

広島といえば、世界ではじめて原子爆弾が投下され、未曽有の悲劇がもたらされた「被害の歴史」で象徴された都市。

しかし一方で、当時、国際条約で使用を禁じられていた化学兵器である毒ガス製造を行い、実際に使用した「加害の歴史」の側面があったことは意外と知られていません。そして、その毒ガス製造の拠点だったのがこの大久野島でした。

当時島で暮らしていた3世帯を強制移住させ、島全体が毒ガス開発の工場と化した大久野島。この事実は重大な軍事機密とされ、地図からもその存在を抹消、戦後まで秘密裏にされていました。

「加害の歴史」を学ぶ「大久野島 毒ガス資料館」

製造した毒ガスは実際に中国大陸で使用され、何千人もの犠牲者を出したとされています。製造に当たった日本の工員らもまた毒ガスの危険にさらされ、多くの方が亡くなり、または生涯その後遺症に苦しめられたといわれています。

そうした「加害の歴史」の貴重な資料を展示した「大久野島 毒ガス資料館」は、平和教育の場として利用されています。

戦後、毒ガスはすべて廃棄処分され、関連施設は解体・破壊されるなどして島に残る戦跡は多くありません。しかし、大久野島では、本資料館も含めて、限られたその負の遺産から「戦争の加害者」という視点で戦争の痕跡をたどり、平和への気づきを得ることができます。

毒ガス製造の痕跡、その戦争遺産とは

それではここから、島内に残された戦争遺産の主なスポットをご紹介します。

戦争遺産その1:「毒ガス貯蔵庫」

「休暇村 大久野島」から目と鼻の先にある「毒ガス貯蔵庫跡」。

現在は埋め立てられ、コンクリート台座が一部残るのみとなっていますが、当時は10トンの毒液が入った大型毒ガスタンク8基を貯蔵できるほどの大きさの施設で、ここでは皮膚がただれる猛毒のイペリットとルイサイトが主に保管されていました。

戦争遺産その2:「長浦毒ガス貯蔵庫」

島の北東部、一見教会跡のようなたたずまいが漂うコンクリート製の巨大構造物が「長浦毒ガス貯蔵庫跡」です。

直径4m、高さ11m、容量約85トンもの巨大なタテ型毒物貯蔵タンクを6基収容した、当時島内最大の毒ガス貯蔵庫で、壁には戦後、毒性除去のため火炎放射器で激しく焼かれた生々しい黒焦げの跡が残っています。

戦争遺産その3:「北部砲台跡」

長浦毒ガス貯蔵庫跡の先にあるのが「北部砲台跡」。

毒ガス製造を行う前の大久野島では、日清戦争をきっかけとした瀬戸内海の国防強化のため「芸予(げいよ)要塞」が築かれました。「北部砲台」は、島内に設置された3つの砲台(北部・中部・南部)のひとつです。

結局、芸予要塞は使用されないまま廃止を迎え、その後、カノン砲が置かれた跡地には毒ガスタンクが置かれることとなります。

戦争遺産その4:「発電所跡」

島内一周のハイライトともいえるのが、この大きな戦争遺産の「発電所跡」です。

毒ガスを製造していた1929年~1945年の間、当時は重油を燃料として8基のディーゼル発電機で電気を供給していました。さらに、1944年から終戦までは、ここで学徒動員の女生徒が米国本土の敵地へ飛ばす「風船爆弾」の気球を作らされていたそうです。

大久野島では、女学生はおろか13~15歳の子どもたちまでも動員され、危険な作業に従事させられたといわれています。彼らの中には毒ガスの被害を受け、終戦後もその後遺症に苦しめられた方が大勢いたそうです。

うさぎ島で考える、「戦争」とは「平和」とは

ちょっと立ち止まるだけで、餌をねだりに無邪気にすり寄ってくる愛くるしいうさぎたち。

毒ガス製造時代にも実験用として200羽のうさぎが飼われていましたが、終戦後にすべて殺処分され、今このうさぎたちはその子孫ではないそうです。

うさぎたちもまた戦争に、人間に翻弄させられた気の毒な被害者たち。

そう考えると複雑な心情がこみ上げつつも、今はただこうして純粋に“かわいい”とうさぎを撫でることができる平和へのありがたみを嬉しく思い、その一方、その平和は過去の「加害」と「被害」の歴史の上に成り立っているのだということを忘れてはならないと考えさせられます。

紹介したものを含め、大久野島に遺された戦争遺跡は大小合わせて30ほど。倉庫以外にも毒ガス開発や研究に使用された研究所跡や防空壕跡なども残され、島内で犠牲となった方々への慰霊碑も立っています。

島内は起伏も割と多いですが、島内一周は徒歩で約1時間、自転車であればおよそ30分程度で回ることができます。日帰りでも十分楽しめるサイズの島、ぜひ広島から、愛媛から、足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

中部砲台へ向かう山の中腹から見た瀬戸内海の多島美。きっとこの景色は、今も昔も変わらず美しいのでしょう。

うさぎを訪ね、絶景を見、そしてちょっと戦争と平和について考えてみる、そんな機会を与えてくれる大久野島の「ダークツーリズム」の旅もたまには良いのではないでしょうか。

All photos by Mayumi

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