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【黒柳徹子】会えば、いつも笑っていた。飾らない、気取らないお人柄だった、中村メイコさん

  • 2024.3.13
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第23回】女優 中村メイコさん

中村メイコさんがお亡くなりになりました。

メイコさんは、2歳で子役デビューして、私がNHK専属のテレビ女優になったときは、同世代にしてもう大変な売れっ子でした。私がラジオドラマのエキストラに駆り出されるようになって、通行人の役がまったくうまくできなかったとき、NHKの先輩から、「喋り方がヘンだ」「直せ!」と注意されたことがあります。そのとき、いちばんショックだったのが、「中村メイコの真似でもしてやがんのか?」と言われたことです。当時の私は、本当に失敗続きで、自分を必要としてくれる場所を必死で探していたと思うのですが、そんな私でも、人の真似をするのは恥ずかしいことだと思っていました。人の真似なんかしたら、トモエ学園の小林宗作校長先生が小学校1年生の私にかけてくれた、「きみは、本当は、いい子なんだよ」という言葉や、母が私をお客さんの前で、「素直なだけが取り柄です」と言って褒めてくれた、大好きな人たちが私にくれた信頼を、裏切ってしまうような気がしたからです。

NHKでテレビドラマが収録されるようになって、実際に会ってみると、年も近いし、家庭環境なんかにも共通点があって、すっかり意気投合して。メイコさんの最後のテレビ出演が、亡くなる6日前に収録された「徹子の部屋」だったのですが、そのとき、生放送のドラマで、メイコさんと私がいかに変なことばかりしていたか、懐かしい話をいくつか披露してくださいました。

自ら「喜劇女優」と自称していらしたので、番組でもプライベートでも、いつも楽しい話が多かった印象ですが、1989年の「徹子の部屋」では、終戦間近に、特攻隊の慰問に行ったお話をしてくださいました。軍の命令で、当時劇団の中でいちばん小さかったメイコさんは、お母様とお二人で、目隠しされて飛行機に乗せられて、明日には特攻に行くような人たちが集まる島まで連れていかれたんだそうです。それで、特攻隊員の前で、おしゃべりして、歌を歌うんだけれど、作家だったお父様からは、「軍歌だけは歌うな」とか「童謡も、旋律がセンチメンタルすぎる」とかいろんなことを禁じられて。かといって、アメリカの歌も歌えない。でもせめて知っている歌を精一杯歌って、「ちょっと抱っこさせて」と言われたりすると、ニコニコしていたんですって。でも、学徒出陣の兵隊さんに、そんな小さい子どもを会わせるのには理由があったのです。

当時の特攻隊員は、とてもインテリで、「明日死ぬ」というときになると、虚無的になってしまって、いくら美味しいものを食べさせても、綺麗な女優さんや歌手の方を会わせても、感動しない。でも、小さな子どもを見せて、「君たちは、この子どもたちの未来への希望をつなぐ役割なんだ」というと、兵隊さんたちは、さめざめと涙を流して、「この子の未来のために」と、出陣してくれたのだそうです。

特攻隊員さんの挨拶には、「行って参ります」はなくて、「行きます」だけ。でも、そのときの澄んだ目を、メイコさんは、大人になっても忘れられなかった。ただ、あとになって、「自分は戦争の片棒を担いでしまったんだ」と辛く悲しい気持ちになったといいます。

私も、戦争中は、たった一本のスルメの足欲しさに、出征する兵隊さんに向かって旗を振りながら、「万歳!」なんて叫んだことがありました。そして、大人になってから、私もメイコさんと同じような罪悪感を持ったものです。万歳をしている私を見て「この子のために戦おう!」と兵隊さんが思って、もし、戦死したら私の罪はどんなに重いのでしょう。戦争は、人の命を奪うだけでなく、子どもの純真さにつけ込んで、その心に深い傷を負わせることもあるのです。

私たちの共通点の一つに、「喜劇」にこだわっていることがあります。私は長い間、「黒柳徹子主演 海外コメディ・シリーズ」と題して、良質な翻訳物の喜劇を舞台で上演していました。それは、人生には悲しいことや辛いことが多いので、お芝居を観ているときぐらいは笑ってほしい、という願いがあったからです。

メイコさんもまた、常に明るく大らかで、どんなときもユーモアを忘れず、人生を喜劇的に生きようとした方でした。旦那様のことも、「本当はそんなに好きじゃない」なんて言っちゃうし(笑)。会えば、いつも笑っていた。飾らない、気取らないお人柄は、知り合ってから70年もずーっと変わらなくて、大好きでした。メイコさん、寂しいわ……。

中村メイコさん

女優

中村メイコさん

1934年生まれ。東京都出身。父は小説家・劇作家の中村正常、母は新劇の女優中村チエコ。2歳のときに映画デビュー。NHKには1940年に開催予定だった東京オリンピックに先立つ実験放送の頃から出演。歌手としても活躍。1959年から61年まで3年連続で、NHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。夫は作曲家の神津善行。エッセイストとしても著書多数。2023年12月31日逝去。その芸能活動歴は87年にも及んだ。

─ 今月の審美言 ─

「会えば、いつも笑っていた。飾らない、気取らないお人柄は、知り合ってから70年もずーっと変わらなくて、大好きでした」

写真提供/時事通信フォト 取材・文/菊地陽子

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