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「民主主義って何?」にスパッと答えられるか…政治学者が「多数決と民主主義は関係がない」と言い切るワケ

  • 2024.2.29

職場でも学校でも国会でも、「何かを決めるとき」によく使われる多数決。政治学者の岡田憲治さんは「民主主義と多数決はイコールと考えられることが多いが、それは誤解だ。民主主義と多数決は、ほとんど関係がない」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)の一部を再編集したものです。

教室で手を上げた10代の学生
※写真はイメージです
多数決と民主主義はほとんど関係がない

「言い負かす」とか「バッサリとやる」という言葉を、実際の政治の現場でイージーに使うと、僕たちの問題を解決するための「選んで・決めて・受け入れさせる」という政治の流れも、かなり強引なものとなってしまう。

今の君たちの教室では、昔に比べると民主主義という言葉が登場する頻度が下がっているから、「それって何だっけ?」と尋ねられた時には、何だかぼんやりとして、ギリギリのところで「多数決のことですよね?」と苦しい答弁となる。無理もない。

そこにクリアな言葉をあてがうことができる大人もたくさんはいない。先日、君たちの両親ぐらいの人たちが集まったイベントでスピーカーとして話をしたが、民主主義をそれなりの自信をもって説明できる大人はあまりいなかった。おそらく脳内に「タスウケツ……?」という音がよぎったかもしれない。

大事なことをいきなり言うのがこの本の特徴のひとつだから言っておこう。

民主主義と多数決は基本的にはほとんど関係がない。

誤解が積み重なっていることはもう一度念を押して言っておかねばならない。

「多数決≠民主主義」である。

何を言っているのか、この教授は? 眉をひそめた諸君もいるかもしれない。しかし、そうなのだ。すまん。これもまた今まで黙っていた。謝る。

たとえば、クラスの学園祭の出し物を決めた時のことを振り返ってみてほしい。授業の後のホームルームのよどんだ空気と、なかなか決まらないイライラと、いくえにも重なる相手の気持ちへの先回りなどで、クタクタになった、あの光景だ。

「模擬店やる人はやって、アート=ミュージック系もやって、残った人はサポにまわる」という結論は、過半数をわずか1票上回っただけのギリギリの決め事だった。だから、「決まったって言ったって、半分くらいのクラスのやつに推されてない」から、「こんなんでいいのかな?」とモヤモヤしたのだ。

でも、1票でも多いのだから、「合意が成立したかどうかはかなり怪しいけれど、成立したことにする」となったのだ。そう。モヤモヤしてギリギリだったのだ。

「多数決=民主主義」と決めつけると…

そこに、クラスのひとりの苦労人で弁が立って、口ぐせが「勉強してから言えよ!」のトオル君が出てきて、「決まった以上、ガタガタ文句言うなよな! 決まったことが不満なら、もっと頑張って多数決で勝てばよかったんだよ!」なんて言ってきたら、みんなはどう思うだろうか?

「決まった以上は仕方がない」とキッパリと先に進むのだろうか?

「決まったけど、本当には合意はできてない」とモヤモヤするのだろうか?

こういう時に、多数決=民主主義と決めつけてしまうと、こんなことをさらりと言ってしまうのだ。

「投票に勝った以上、あとは勝った側がぜんぶ好きなようにやるからな」
「え? それはちょっと強引なんじゃない?」
「悔しかったら勝てばよかったんだよ。文句言う資格ねぇよ」

こういうことは起こるものだ。

多数決のマジック

ちなみにこの強引な理屈を政治学では「多数決の勝者への統治の白紙委任」と呼んでいる。議会で過半数を獲得した党派は、その後の議会運営をすべて自分たちだけの決定でやってよいという権限を得たのだ、という理屈だ。「勝者総取り方式」なんていう言い方もある。

中高一貫6学年で1学年4クラスあり、クラスごとに40人いるとする。各クラスの意見を聞いて、ぜんぶで24クラスの意見を集約して合意を作ろうとするなら、ひとクラス40人のうち、数字的には各クラス21人賛成すれば、全校生徒960人中、504人しか賛成していなくても24全クラスの意見の合計となる。

そしてこれが「合意してないのに合意したことになってしまう」多数決のマジックだ。

全クラス24の意見が同じなのだから、それを受けた運営委員会は、フリーハンドで何でも好きなように運営できることになる。というか、「好きに運営できるはずだろ? 多数決なんだから。民主主義なんだから」と言われてしまう可能性がある。

でも、限られた時間の中で、およそ「このあたりで決めておいて、細かいところは、いろいろ意見の違いがあることをふまえて、進めていこう」と考えているモヤギリ派からすれば、ちょっと待ってよ、である。

学園祭でのクラスの出し物の話に戻せば、なかなか難しいことだとわかってはいるけれど、できれば決め事に関して大きな意見の違いを残して先に進めていきたくはないと多くの人は思っているのだから、「出し物は○○に決まりました」という多数決の結果があったからといって、それに賛成する人たちが「基本ぜんぶオレ・ワタシらの好きなようにやるから」ということまで認めたわけじゃない。

あくまでも、多数決というのは、時間の制限の中で、「今、この時点での最大風速はどれくらいか?」を計測したものに過ぎないのであって、人間の考えや気持ちはまさに天気のように、あるいは別の事情(先生が突然、「PTAからの寄付が増えて予算が2倍になった」と言ってきたり)で変わりうる。

青空とウィンドソックス
※写真はイメージです
民主主義は面倒くさい

だから、本当に正確にみんなの気持ちや考えを反映させたければ、できればもっと頻繁に風速と温度と気圧の計測をしたほうが、よりモヤモヤの少ない決定になるはずだ。

でもそうそう測定ばっかりやっているわけにはいかない。だから、「確かにあの時の風速はあれくらいだった」という記憶を残しつつ、それでもみんなの様子を見て、話して、聞いて、なるべく多くの人のエネルギーを集めて進めていきたいのだ。

学問的な定義はちょっとわきにおいて、「多くのメンバーの力やセンスをなるべく集めて、一人ではできないことを協力してやるための方法」くらいに民主主義を考えれば、やっぱり「多数決=合意」とざっくりとやってしまって、「後はフリーハンドだから」というのは、逆に民主主義に反するやり方なのだ。

その意味で、じつに面倒くさい。民主主義とは。時間もエネルギーもかかる。

でも、そう考えれば、僕たちがどうして議論などという面倒くさいことをやるのかがわかるだろう。どうして「はい論破!」と10秒だけ爽快な気分になってもしょうがないのかがわかるだろう。どうして、合意をつくるということが、基本的には上手くいかないのかがわかるだろう。

「やれやれ。そんなウザいことばっかりなら、もういいよ。ともゆきさんとトオル君に決めてもらえばいいじゃん。そうそう風速の測定ばっかりやって、また戻して、話して、帰りも遅くなって、疲れるし、どうせ何割かは最初からあんまりやる気ない人もいるし」……そう考えたくなる。

僕だって、時々そういう気になることもある。職場の教授会なんかでも、時々本当に疲れてしまうこともある。

多数決を使うための前提

でも、多数決で勝ったんだから勝ったやつの総取りでよしとすると、その後とんでもないことが起こった時には、もうあまり止める方法が残されていないのだ。なぜなら、「多数派にぜんぶゆだねるって決めたじゃないかよ!」と声のでかい、押し出しのいい連中が強気で封じ込めてくることが多いからだ。

君たちも知っているあのドイツのヒットラーが首相になった時、議席の足し算で多数を握っただけで「憲法を停止してすべての権限をヒットラー個人に与える」という無茶苦茶な法律を、わずか40分の議論(のふり)でガッシャーンと決めてしまった。その後、ドイツが破滅寸前まで追い詰められる侵略戦争をしたことは有名な歴史だ。

そういう歴史の教訓を知っている以上、言うことはこうだ。

多数決は政治の道具の一つだが、それを使うためには「何のために議論するのか」をみんながそれなりに共通して理解していることが必要だ。

空気ではなく言葉を読む

「そんな(ヒットラーのような)ひとりの人間に、全国民の運命をゆだねるようなことをしてはならないと思う」と、勇気をもって発言した者に対して、君たちはこう言えるだろうか?

岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)
岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)

それって、あなたの感想ですよね?

ヘンテコリンな決め事がなされる時は、多くの場合は話の中身や理屈の組み立てのできの良さ悪さではなく、そういう方向に行く空気だったし、流れ的にそれに逆らえなかったしモヤモヤしてたけど、キャラを変えるわけにはいかなかったからしょうがなかったという理由でそうなる。

空気や流れやキャラ演じではなく、言葉を行き交わせて議論をすることは、面倒でもやっぱりものすごく大切なことなのだ。

空気じゃない。言葉を読もう。話そう。「そうかなぁ」でもいい。

話そう。モヤモヤし続けるかもしれないけれど。

話そう!

でもいいよなぁ。岡田さんは。

……え?

話せるじゃん。言葉使えるじゃん。言えるじゃん。

みんなの前で。キョージュだし。

ん? そうだけど?

オレ・ワタシ、言えないんだよ。い・え・な・い、のよ。

そうなのだ。実は、まだそこの話に触れていないのだ。

というか、これまでの政治や民主主義の本は、だいたいみんなここに踏み込まないで、その手前で「言いましょう!」「声を上げましょう!」「シュタイテキなシミンになりましょう!」と呼びかけて終わりにしたのだ。

つまり「言えない人たち」のことはとり残して、先に進んだのだ。

しかし、この本は違う。言ったでしょ? 「はじめに」で。

まだ誰もトライしたことのない本を書いたんだって。

「言えないよ」だったよな。

言えないよな。そうそう言えない。言えれば言うが、言えない。

そのことは、きちんと受け止める。そして、ちゃんと言っておく。言えないこと自体は、善悪や正誤の話とは関係がない、と。無理に言わなくても、まずはそのままの君たちを肯定する、と。

でもそれは放置するということではない。そんなことをするはずがない。

君たちの居場所を言葉にしておくということだ。

岡田 憲治(おかだ・けんじ)
政治学者
1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。民主主義の社会的諸条件に注目し、現代日本の言語・教育・スポーツ等をめぐる状況に関心を持つ。著書に『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)などがある。

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