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国会で話し合われた法律がなぜポンコツなのか…政治学者が解説する「話し合い」の本当の目的

  • 2024.2.27

学校でも職場でもしょっちゅう行われる「話し合い」だが、その目的ややり方を理解してやっているのだろうか。政治学者の岡田憲治さんは「話し合いや議論の目的は、『正しい結論を出す』ことではない」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)の一部を再編集したものです。

日本の国会議事堂
※写真はイメージです
なぜ議論するのか

そもそも、人はどうして議論などするのだろうか?

すまん。やっぱり「そもそも」の話になった。

僕たちは、学校で、街場で、家庭で、「話し合いなさい」と言われ、「対話が大事」と教わり、「議論が必要だ」と耳にしてきた。そうやって言葉を投げ合ってやりとりすることの大切さはなんとなくわかるし、面倒くさい気もするけど、相手が何を考えているのかわからないと困るし、ガスを吐き出さないと心のなかが何かで詰まってしまう感じもある。

でも、そうしたやりとりが「対話(ダイアローグ)」なのか「討論(ディベート)」なのか「議論(ディスカッション)」なのか、あまり細かい区別もなしに、「話し合い」として、いろいろなされてきた(この区別については踏み込まない。その前の部分がとりあえず大事だ)。

こんなことはないだろうか?

中学の時、夏休みが終わったら「マサトシ、部活辞めるってよ」ってLINEに流れてきて、あんなにサッカー燃えてたのに、何であんなにあっさり辞めるんだよと思ったところ、顧問のサカモト先生が「あいつが部活辞めるの、お前らにも責任あるんじゃねぇのか? 話し合え」とか、かん高い声で言ってきたりした。マサトシが辞めるのに何でオレらに関係があんだよと思うが、母さんに話したら「やっぱり、よく話し合ったほうがいいんじゃない?」なんて言う。よくわかんない。
話し合ってどうすんだよ?

話し「合って」ないじゃん

でも、金曜日にホームルーム終わって部室行ったら、3年生とかも集まって、「話し合って」いた。はじっこのほうに、当のマサトシがぽつんとパイプ椅子に座って、先輩たちの話を聞いている。よくよく聞いてみると、要は話し「合う」んじゃなくて、マサトシの気持ちを聞いてやることが目的のようだ。「合って」ねぇじゃん。聞いてるだけじゃん。しかも、聞いてどうなるのか誰もわからないし、オレらが今日ここに集まって話を聞いてる理由も、「マサトシ部活辞めるってさ」以外にわからない。でも話し合う。いつもそう。なんか、話し合う。実際は3年がずっと話してる。 クラス対抗の体育祭の実行委員会があるから、全クラスから委員選んで2名ずつ視聴覚教室に集まれとメールがきた。話し合いがあるらしい。行ってみると、「1年や中等部が、あたしら高2の委員会の指示通りにしか動かないから、もっと考えて動いてよ」と説教の時間だった。「こっちもいつまでも面倒見られないから、もっとこのクラス対抗について意識持ってやってよ」ってことだ。何それ。話し「合って」ないじゃん。上からの説教じゃん。でも話し合うんだそうだ。いつもそう。なんか、話し合う。

なんでもかんでも「話し合い」

そうやって日々を暮らして、僕たちの社会は話し合うという言葉を分節化しないままだから、人と人が言葉を通じてやりとりすることの意味や目的が、いつも曖昧あいまいなままだ。気持ちを聞くのも、説教受けるのも、受験の進路を決める三者面談で嫌なこと言われるのも、みんな話し合いだ。

そのくせ、学園祭ではB組は何をするのかについては話し合って決めることが要求されるから、話し合いの仕方もみんなバラバラで、結論の出し方も、揉めた時の対応も、ぜんぶその場になってあたふたする。

そんなやり方、教わったことはないし、そもそも担任の先生の職員室での会議なんかをドアの隙間から盗み見してみると、ずっと下向いて、スマホいじって副校長の話を聞いてるふりしているように見える。なんか辛そうだ。それはオレ・ワタシらとも同じだ。どっちかがガーって言って、大体それで終わりだ。
だからいきなり「国会論戦始まる」なんていう新聞やスマホのまとめニュースの見出しを目にしても、反応する気にもならない。「論戦? 話し合い? 聞き出し? 説教? 愚痴? ディスり?……」、そのうち忘れる。国会で議論(?)だってもう選挙で議席の数は決まってるし、今さら国会で話し合ったって、結局、あのおじいさんの声で「賛成の諸君はご起立願います!」って言われて、テレビのニュースでちょっとだけそのシーンが出てきて、「え? 話し合ったの?」という感じだ。

「正しい結論」が目的なのか

でも、やっぱり学園祭で何をやるかを話し合ったとき、「ああ、早く帰りたいなぁ」って思ったけど、それでもいちおう話し合いになった。こんなバラバラなクラスの意見なんかまとまるわけないじゃんと半分諦めてたし、足して2で割って、余りはチョボチョボみたいなやり方だったけど、いちおうやる前よりも、いくらか発見もあったから、完全に無意味だとは思わなかった。だから、もっとちゃんと話し合えば、ちゃんとした結論も出るような気もしている。そんな予感はある。基本は面倒くさいけど。
やっぱちゃんと話し合わないと。「正しい結論」に近づくことが目的でしょ?

しかし、意地悪かもしれないが、僕は尋ねたくなる。学問の世界で生きていこうと思ってから今まで、もう数え切れないくらいの数の議論の場を経験したけれども、すればするほどまた疑念はつのる。話し合えば話し合うほど、正しい結論や合意が出てくるのだろうか? 僕たちは、正しさを手に入れるための秘訣ひけつを「もっと話し合いをちゃんとする」ということだと、曖昧に決めつけていないだろうか?

空っぽの日本の教室で輝く太陽
※写真はイメージです
正しい結論なんて出ていない

もし、もっとちゃんとやれば正しい結論が出るということなら、どうして国会で決めた法律があんなにポンコツになるのだろう(もちろん良くできた法律もあるけど)? どうしてちゃんと話し合ったはずなのに、コロナ禍において神宮球場に野球ファンが3万人も入っているのに、小学校の給食の時間に「黙食じゃなきゃダメ!」って注意されて子供たちが食欲を失うみたいなことになったのだろう? 本当に、黙食がもたらす結果をちゃんと議論したのだろうか? したのなら、どうしてある県の小学校ではマスク外して卒業式とかやっているのに、他の多くの地域では相変わらずつい立てに隠れて子供たちが給食を食べていたんだろう?

ちゃんと話し合っても、正しい結論なんて出ていないじゃないか?

そんなふうに考えたくなってくる。そして、そういう気持ちになるのは無理もないのだ。

なぜならば、僕たちが話し合いや議論をする目的は、「正しい結論を出す」ことではないからだ。

もう一度言う。

僕たちが議論をする目的は、「正しい結論を出すため」ではない。

それじゃ、いったい何のために、あんな面倒くさいことをやるのだろうか?

もちろん、ちゃんと議論や話し合いをすれば、「正しい結論」に近づく可能性は高まる「かも」しれない。しかし、必ずそうなるという保証はない。もし何かの意味で「正しい」結論が出たとしたら(この意味は人によってそれぞれだ)、それはじつに有難ありがたいことだ(この有難いは、「感謝する」と言う意味じゃなくて、「そうそうないこと」という意味だ)。幸運だ。偶然だ。ひょうたんから駒だ。つまり、かけた時間に比例して、出てくる結論の水準が上がるという法則はないということだ。時間をかけてしまったために、にっちもさっちもいかない泥沼にはまり込むことだってあるのだから。

じゃあ、どうすればいいんだよ?

交通整理をする

僕たちが議論をする目的の一つは、まずは交通整理をすることだ。あらゆる種類の動くもの(大型トラック、普通車、オートバイ、自転車、歩行者など)が、バーっと交差点に来たら、渋滞や衝突など、もう目も当てられない事態となるから、東西南北行きたい方向を順序よく振り分けて、進めるレーンと待っているレーンとを信号で分けて、歩く人と車の人と自転車通行の人のレーンを指定する。

同じように、心根はさほど悪くはないけど、どうしても無意識の自己チューになってしまう人間が集まるのだから思惑もそれぞれで、学園祭でやりたいことも、理由はまちまちだ。「リュウタといっしょに焼きそばつくりたい」という恋心からはじまって、「相鉄の20000系車両の美しさをどうしても人々に知らせたい」まで、そして「盛り上がりたい」から、「適当に協力するふりしてやり過ごしたい」まで、じつにみんなの事情は異なっている。

いっしょに歩いた道と分かれた場所

だから、事故や無意味な対立や切ないハレーションが起こって、本筋じゃないとこでエネルギーを無駄にしないように、話のポイントがわかるやりとりをしなければならない。そのために僕たちは話し合いをする必要がある。結論の話はまだ先だ。

岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)
岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)

そういう最初の整理だってけっこう面倒だ。むしろ話し合いがあんなに疲れる理由は、たいていここにあったりする。

僕たちは、本当に人の話を聞かない。シンポジウムで(公開研究討論会みたいなもの)、トークが終わって司会者が「フロアから質問があれば挙手をお願いします! いいですか、『質問』ですよ! それ以外はご遠慮ください!」って何度も念を押しているのに、マイクを持たせると必ず「演説」を始めるおじさんやおばさんがいる。もちろん悪気なんてない(社会には理由もなく「人の言うことを聞く」人たちがこんなにたくさんいるのに、「話し合い」のルールをお願いされるときは、「人の話を聞いていない」のだ)。

でも交通整理の中には、こういう基本的な「いや、もうその話終わったから!」みたいなツッコミだけでない、もう一つものすごく大事なことが含まれているのだ。それは、いっしょに歩いた道すじと、分かれ道になったところを確認することだ。

岡田 憲治(おかだ・けんじ)
政治学者
1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。民主主義の社会的諸条件に注目し、現代日本の言語・教育・スポーツ等をめぐる状況に関心を持つ。著書に『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)などがある。

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