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10代将軍家治は田沼意次の言いなりだったわけではない…緊急の登城に遅れた田沼を叱りつけた意外な「将軍力」

  • 2024.2.15

ドラマ「大奥」(フジテレビ系)では老中・田沼意次に出生の秘密を握られ脅されている10代将軍・徳川家治。作家の濱田浩一郎さんは「近年まで、家治の27年の治世は田沼に実権を握られていたと思われてきたが、そうではないとする記述もある。むしろ、田沼が家治を恐れ、たじたじになることもあったようだ」という――。

一番知られていない将軍だが、聡明な人物だった家治

フジテレビでドラマ「大奥」が放送されています。主人公は小芝風花さん演じる五十宮倫子いそのみやともこ。倫子は、閑院宮直仁かんいんのみやなおひと親王の第6王女として生まれながら、徳川幕府10代将軍・徳川家治に正室として嫁いだ女性です。倫子の夫・家治を演じるのは、亀梨和也さん。

家治は、歴代徳川将軍のなかでも、一般では「地味」な存在ではあるでしょう。家康(初代)や家光(3代将軍)、家治の祖父・吉宗(8代将軍)の名はよく知られていますが、「家治」と聞いても「誰だっけ?」という人が大半だと思います。今回のドラマで家治がクローズアップされることは、知られざる人物に光を当てることであり、とても良いことだと感じます。

「徳川家治像」18世紀
「徳川家治像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

さて、家治は「長じては凡庸となり、老中たちの政治、とくに後半は田沼意次の政治に埋没していた」「27年間の治世は、側用人田沼意次が実権をにぎり」などと評されることがあります(『日本大百科全書』『世界大百科事典』)。しかし、家治は聡明な人物だったと筆者は感じています。

名君・吉宗は孫の家治を常に膝の上で抱いていた

まず、家治は後に9代将軍となる徳川家重の子として、1737年に生を受けました。家治は幼少期には、江戸城西の丸に居住していたのですが、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、家治はその頃から「御温和にして、慈愛の御志ふかく」(温和な性格で、思いやりの心が深かった)との性格だったようです。よって、祖父の徳川吉宗は、複数いた孫の中でも、とりわけこの家治をかわいがったのでした。吉宗は幼い家治を常に膝の上で抱いていたといいますので、溺愛ぶりがわかるというものです。

吉宗は家治をただ膝の上に置いてかわいがっただけではなく、この孫がいずれ将軍となることを見据えて、リーダー(指導者)の心持ちなどを教えたといいます。家治が10歳にも満たない頃だったようですが、このときにも、家治は吉宗の膝の上におりました。そんな時、吉宗は唐紙を取り出して「これに字を書いてみよ」と勧めます。

すぐに筆硯が用意されました。家治は紙に「大」の一字を大きく書こうとしたのですが、紙が小さく足りないと周りには見えたようです。さぁ、若君はどうするのだろうと、周りにいた人々は見守っていたのですが、家治は躊躇ちゅうちょすることなく、紙をはみ出し、畳の上に文字を書いたとのこと。その後、筆を捨て置いたようです。

その様子を見て、吉宗は家治の「快活」さを喜び、「天下を治める者の挙動、このようでなければならぬ」と頭をかきなでたのでした。この話は、長じて後、家治が周りの者に常に語っていたといいます。

祖父の吉宗から帝王学を授けられ、武芸にも優れていた

家治は「文武ぶんぶの御芸おんげい」に優れていたといいますが、それもまた祖父・吉宗の後見があったからでした。「弓馬」を嗜んだという家治ですが、特に弓は「精妙」であったとされ、若いときに飛ぶ鷹を射止めたとされます。白鳥を「一矢」で射落とし、お供の人々を驚かしたとの逸話もありますので、家治の武芸の達者ぶりが分かります。

武家の棟梁として必要な要素の1つを家治は備えていたと言えましょう。さて、そんな家治が10代将軍となったのは、宝暦10年(1760)のことでした。父・家重の隠居により、徳川宗家を継承した家治は、その翌日、老臣・松平武元を御前に呼び寄せたそうです。そして次のように語りました。

「私は年若くして、未だ国家のことに習熟しておらぬ。不幸にして父君(家重)が多病であるので、やむなく、家督を継承した。そのこと、深く恐れて手足の置き所がないほどじゃ。汝は祖父君(吉宗)のときより、政務を担っておる。その職に精錬しておるので、今日より後は、何事によらず、皆、告げ教えてくれ。もし私に誤りがあるならば、ただして欲しい。私もその諫言を納めようぞ」と。(『徳川実紀』)

ドラマ「大奥」(フジテレビ系)で将軍家治を演じる亀梨和也。宮崎市の巨人春季キャンプにて、2024年2月2日
ドラマ「大奥」(フジテレビ系)で将軍家治を演じる亀梨和也。宮崎市の巨人春季キャンプにて、2024年2月2日
23歳で将軍となり、火事のときは江戸市民の心配をした

国家の政務を担うということがいかに重責であるか、家治はそのことをよく理解していたのです。また、若く経験不足であることを自覚し、年長者を敬い、諫言を受け入れる姿勢を示したことは、家治の謙虚さを現しています。それもまた、上に立つ者の態度として大切なことでしょう。

江戸時代は火災が頻発した時代でしたが、家治の治世においても江戸で火災が発生し、城下の武家屋敷、町屋が多く焼亡したことがありました。その日、家治は「山に登り、火のありさまを見て参れ」と近習に命じます。年若い近習はわれ先にと、喜び勇んで飛び出して行こうとしたそうです。すると家治は「しばし待て」と言うと、次のように言葉を継いだとのこと。

「火災は民の憂いの大きなものだ。民の憂いはすなわち、わが憂いである。土地の遠近、火の緩急により対策のすべもあろうというもの。お前たちもその心持ちでよく見て参れ」と。その家治の言葉を聞いて、老臣は「ここまで民の憂いをお考えになられるとはかたじけない」と感動したそうです。

将軍なのに謙虚すぎて家臣たちも困っていたか

また、ある年に火災が起こった際には、家治は「政がうまくいっているときは、気候が穏やかで五穀が実り、民衆は苦難を免れるという。しかし、こうも火災が打ち続くのは、私のせいなのではないか。政治が良くないので、天が災害を為すのではないか。私のどのような所が至らないか。また、民衆の憂いとなるような政治はないか。そのようなことがあれば、すぐに教えてくれ」と周りの者に尋ねたとのこと。

すると、ある者は「民衆は太平の世を楽しんでおります」と答えます。しかし、家治はそれで納得せず「おもねらず、直言せよ」と3度まで下問したそうです。が、返答は「申しべきことなし」というもの。家治はその返答に不興だったとのこと。この逸話からも、家治の謙虚さや民衆を思う慈悲が分かるかと思います。

さて、家治は田沼意次を重用したことで知られています。田沼意次は、側用人と老中を務め、幕政を主導、「田沼時代」を築いたとして史上有名です。家治はその意次の陰に隠れ、意次は威勢を示していたという評価は冒頭で見たとおり。しかし、『徳川実紀』はそのような見解は「あやまり」(誤り)と否定しています。意次は常に家治の英明を恐れていたというのです。

老中筆頭に抜擢した田沼意次との本当の関係は?

あるとき、江戸城の近くで大火がありました。しかし、意次はすぐに出仕せず、遅れてしまったのです。家治は「なぜ遅れたのか」と意次を問い詰めたといいます。意次は「拙者の屋敷の近くに火が迫っていましたので、その対策のため手間取りました」と言上します。意次はこう答えれば、将軍は「そうか、それなら仕方ない」と言ってくれるものと思ったかもしれません。

明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』1814年
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』1814年(画像=江戸東京博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

だが、家治は違いました。「わが城を大事とするか。それともお前の屋敷を大事と思うのか」となおも意次を追及したのです。意次はそれに返答もできず、恐懼きょうくし、汗を拭いながら、退出するしかなかったといいます。このようなことが一度ならず、何度かあったようです。意次に圧倒されるどころか、家治が意次をたじたじにしていたと言えます。堂々とした将軍の振る舞いと言えましょう。威厳もあったのです。

在日オランダ商館長イサーク・ティチングが家治と江戸で謁見するくだりがドラマで描かれますが、ティチングは家治のことを「家治は名君の評判をほしいままにしている」(ティチング『日本風俗図誌』雄松堂書店、1970年)と記しています。

指導者としての責任感、慈悲もあり、言うべきことは言い、威厳のある家治。家治とその正室・倫子の夫婦仲は良好だったと伝えられますが、これまで見てきたようなさまざまな逸話を見るに、それもまた当然のように感じられます。倫子は明和8年(1771)、34歳の若さで、夫よりもかなり早くに亡くなります(家治は1786年に死去)。しかし、人格者である良き夫と出会えて、幸せだったかもしれません。

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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