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夢物語の世界に憧れた、孤独な王様の人生とは?現代人が共感できる「ファンタジー」としてのノイシュヴァンシュタイン城の魅力【後編】

  • 2024.2.6

こんにちは、Sitakke編集部ナベ子です。

国内外から来場約200万人が訪れる、札幌の冬の風物詩「さっぽろ雪まつり」。
74回目となる今年は、2月4日(日)から11日(日)までの8日間開催されています!

さっぽろ雪まつりにも登場!「ノイシュヴァンシュタイン城」の魅力とは

大通会場のなかでも注目度の高い展示といえば「大雪像」。
大通7丁目では毎年HBCが、雪まつりにおける国際交流を象徴する大雪像を企画しています。
今年のテーマは、「ノイシュヴァンンシュタイン城」。ドイツ南部に位置するバイエルン州にあるお城です。

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ノイシュヴァンシュタイン城外観© DZT/ Hans Peter Merten

おとぎ話のアニメーションに登場するお城のモデルとなったともいわれるこのお城。
名前を知らなくとも、テレビや旅行雑誌などを通し、このお城を観たことがあるという人も多いのではないでしょうか。

一方で、この美しいお城の成り立ちには、理想の世界を夢見た王様の、悲しくもドラマチックなストーリーがあるということを知っていますか?

自身の夢の世界のために建てた美しいお城と、最終的に幽閉され、湖に身を投げることになった王様の生涯……知れば知るほど、きっとあなたもこのお城にハマってしまうかも!?

「ノイシュヴァンシュタイン城」の魅力を紐解く 【後編】夢見る王様・ルートヴィヒ2世の生涯

というわけで今回は、「ノイシュヴァンシュタイン城」の魅力について注目していきます

解説いただくのは、東京大学大学院で歴史学(ドイツ観光史)を研究し、現在はドイツ観光局広報を担当する大畑悟さん。

前編では、「ノイシュヴァンシュタイン城」の成り立ちを紐解きながら、お城の魅力についてご紹介いただきました。

前編⇒さっぽろ雪まつりにも登場!悲しき王様が描いた夢の世界「ノイシュヴァンシュタイン城」の魅力とは

後編となるこの記事では、「ノイシュヴァンシュタイン城」の建設者・バイエルン国王ルートヴィヒ2世の生涯を辿りながら、お城の魅力について注目していきます

ノイシュヴァンシュタイン城を建てた王様~英雄に憧れた少年時代

■英雄物語が大好きだった少年時代

世界的に有名な白鳥の城ノイシュヴァンシュタインを語る時、切っても切り離せないのが、建設者バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845年‐1886年、在位1864年‐1886年)の悲劇の生涯です。なぜ彼は身の破滅を招いてまで、ワーグナーのオペラや太陽王ルイ14世の世界を具現化した城を建造したかったのでしょうか。

少年時代まで遡って彼が憧れた世界を探っていきましょう。

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ノイシュヴァンシュタイン城の建設者バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845年‐1886年)

国王即位前の10代のルートヴィヒ少年は読書好きでした。好みの作品は、彼に贈られた誕生プレゼントの品々から後世に知られています。シラー、ゲーテといったドイツの文豪の作品や、シェイクスピアの戯曲、ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』等を好んで読んでいたようです。

中でも彼の心を強く捉えたのは、シラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』でした。テルは中世スイスの伝説の英雄で、貴族の支配に抵抗した弓の名手として知られています。15歳の時、彼は少ない小遣いからヴィルヘルム・テルのフィギュアを買い、即位後の20歳の時にはテルゆかりの地を訪問しました。今でいうところのファン・ツーリズム=聖地巡礼を敢行したのです。それだけ英雄テルの物語が好きだったのです。

読書に親しむ一方で、『ヴィルヘルム・テル』をはじめとするオペラも好んで観劇しました。そして1861年2月2日、15歳の少年はワーグナーのオペラ『ローエングリン』を観劇し、いたく感動して劇の進行の内容をこと細かに日記に記したほどでした。白鳥の騎士ローエングリンは、ブラバント公国の公女を救う物語で、ヴィルヘルム・テルはスイスの貴族支配に抵抗した物語。ルートヴィヒ少年の心を強く捉えたのは、困難な政治状況に立ち向かう勇敢な英雄の物語でした。

時代と地域は違えど、世界のどこにでもいそうな夢見る少年だったのです。

18歳にして国王に即位~劇的な人生の幕開け

■ワーグナー崇拝の青年王

1864年3月10日、父王マクシミリアン2世が急死し、大学在学中だったルートヴィヒ2世は18歳の若さでバイエルン国王に即位しなければならなくなりました。ほとんど何の政治経験や知識もなしに一国の最高権力者の役目を果たさなければならなくなったのです。

そして即位後すぐに取り掛かったのが、あろうことか、借金取りに追われていたワーグナーの保護でした。その年の5月4日に王都で対面を果たすと、気前よく彼に住居と生活費を与え、オペラの制作資金を提供したのです。国王即位後初の自発的な取り組みが、浪費家で革命関与の疑いのあった芸術家の保護でしたから、内閣をはじめ政治家たちは良く思わず、ワーグナーへの反感は募るばかりでした。

そして翌1865年12月10日、内閣からの圧力で、ワーグナーは王都ミュンヘンからスイスに追われることになったのです。この事件はワーグナーを庇護するつもりだったルートヴィヒ2世にはまことに苦い挫折体験となりました。最高権力者の国王と言えど、内閣の圧力には逆らい難かったのです。
この時すでに、ルートヴィヒ2世の悲劇の人生は幕を開けていました。

■プロイセンの軍門に下る

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バイエルン州の州都・ミュンヘンの街並み©DZT/Dietmar Scherf

1866年5月、風雲急を告げていたプロイセンとオーストリア間の戦争に際し、初めは参戦を渋っていたルートヴィヒ2世も内閣の圧力で動員令に署名せざるを得なくなり、嫌々オーストリア側に参戦しました。両陣営に親類がいるドイツの内戦を前に、ルートヴィヒ2世は「地獄の苦しみを感じ」、「退位してしまいたい」とワーグナー宛ての手紙で弱音を吐いています。

戦争の結果はオーストリア軍・バイエルン軍の完敗に終わり、バイエルンは辛くもプロイセンとの講和を結ぶことになりました。バイエルン王国の独立こそ保つことができたものの、3000万グルデンの賠償金と、戦時はバイエルン軍がプロイセン軍の指揮下に入るという秘密同盟を結ばされました。バイエルンは事実上、戦時の兵権を失ったのです。

1870年7月、今度はプロイセンとフランスが戦争することになり、バイエルン軍は密約通りプロイセン側に参戦して勝利しました。ところがドイツ帝国を建国したいプロイセンの意向で、ルートヴィヒ2世はプロイセン王をドイツ皇帝に推戴する書状を書かされることになりました。結果、バイエルン王国は一定の自治権を保持できたものの、ドイツ帝国の一部に組み込まれることになったのです。

プロイセン王=ドイツ皇帝の軍門に下るような事態に、ルートヴィヒ2世は弟に次のような心情を吐露しています。

「驚くべきことに、戦争や条約締結等があった昨年以来、統治も人々も私にとって忌まわしいものになりました。ところが、王位や君主の職は地上で最も美しいもの、気高いものとされます。何もかもが台無しになる時代に生まれたことが私には苦痛で仕方ありません」。

王として気高くありたい、けれど現実には困難な政治状況にさらされるのが苦痛で、崇高な統治が忌まわしく感じられることを正直に告白しています。
理想とした勇敢な白鳥の騎士=救国の英雄とは異なる体たらくに、ルートヴィヒ2世は次第に耐えられなくなっていったのです。

理想と現実とのはざまで

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ノイシュヴァンシュタイン城外観© DZT/ Hans Peter Merten

■ワーグナーに捧げる城

1867年6月、ルートヴィヒ2世はワーグナーのオペラ『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』の上演に備えるため、舞台となったヴァルトブルク城を訪れました。また同じ年の7月にパリ万博のついでにフランスのピエールフォン城を訪れ、ワーグナーのオペラの「『トリスタンとイゾルデ』の第一幕の最後を思わせるような」王城だったとコジマ(ワーグナーの後の妻)宛の手紙に書いています。

この頃から彼は、ワーグナーのオペラの世界を実感できるような城を建設し、そこに住みたいと思うようになり、前回の記事に書いた通り1868年5月にはその思いをワーグナーに手紙で打ち明けました。

ルートヴィヒ2世には幼少期を楽しく過ごしたホーエンシュヴァンガウ城があり、そこに白鳥の騎士の壁画なども飾られていたのですが、王母もまたその城によく滞在したので、自分だけの城を築きたいと考えるようになったのです。19世紀後半はヴァルトブルク城にしろ、ピエールフォン城にしろ、中世の城を再建して伝説の世界を蘇らせることが流行した歴史主義建築の時代でした。

1868年2月29日に祖父で元国王のルートヴィヒ1世が亡くなると、彼に割り当てられていた王室費(年間50万グルデン)が丸々使えるようになり、ルートヴィヒ2世はかねてからの築城の夢を実行に移すことにしました。まず、ワーグナーのオペラの劇場画家に城のデザインを描かせました。念頭にあったのは、ローエングリン等に登場する「聖杯の城」のイメージでした。

「疲れた生活」からの逃避~想像の世界へ

■太陽王に捧げる城

1867年7月にルートヴィヒ2世はナポレオン3世の招きでテュイルリー宮殿やコンピエーニュ宮殿を見学すると、歴史書で読んだルイ14世や15世の物語が蘇り、自分も「太陽王の宮殿」を建設したいと思うようになりました。そして1868年11月28日付の手紙で宮廷秘書官に次のように書いています。

「ルイ14世は、華麗なヴェルサイユ宮殿で延々と強要される単調な宮廷儀礼や疲れた生活から解放されるため、安らぐトリアノン宮殿を建造した。そしてそこもまた宮殿らしく拡張されてしまうと、公務に疲れた後に一息つくため、こじんまりとしたマルリー宮殿を建造した。余もまたリンダーホーフに建てられた礼拝堂の近くに小さな東屋を建てたい」。「小さな東屋」と言いながら構想は膨らみ、ブルボン朝の宮殿を思わせるリンダーホーフ城の建造が1874年に、ヴェルサイユ宮殿をモデルにしたヘレンキームゼー城の建造が1878年に始まりました。

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リンダ―ホーフ城外観© Satoru OHATA

リンダーホーフ城の玄関にはルイ14世の騎馬像があり、ルートヴィヒ2世はそれにお辞儀していたと伝えられるので、この宮殿が太陽王に捧げられた宮殿であることは明白です。そして建造の理由として挙げているのが、「単調な宮廷儀礼」、「疲れた生活」、「公務の疲れ」ですから、太陽王のように偉大な王でありたいという願望とともに 「疲れた生活」から逃避したい という願望が透けて見えます。

ルートヴィヒ2世を間近に見た見習い料理人の回想録によれば、
王はいつもおひとりで食事されたにもかかわらず、4人分の料理が用意されなければならなかった。・・・王はポンパドール夫人、マントノン夫人、デュ・バリー夫人ら、フランスの模範とした人々の輪の中で乾杯し、歓談に興じ、その想像の世界に入り浸っている、と聞いた」そうです。

ルイ14世、15世の愛妾達との想像上の飲み会は、自身が太陽王であるかのように感じられ、夢のようなひと時だったことでしょう。現代風に考えれば、お酒を飲みながらアニメや映画を見てその主人公の気分に浸る行為に近いと言えます。

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リンダーホーフ城の食堂と魔法のテーブル© Bayerische Schlösserverwaltung, Tanja Mayr/Rainer Herrmann, München

政府によって逮捕、幽閉、そして自ら湖に身を投げた

■破滅的築城熱

ルートヴィヒ2世は3つの城を同時に造営し、莫大な資金を投下しました。それも国費ではなく私費(王室費など)を使ってです。そして絢爛豪華な内装の工事が進むと資金が足りなくなり、未払金が増えてついに1884年に銀行で借金をすることになりました。その額なんと700万マルク(現代の価値で約200億円)。

しかし内装工事の再開にもかかわらずヘレンキームゼー城の完成は程遠く、1年後さらに約650万マルクの未払金を発生させてしまいました。これ以上銀行で借金することもできず、ルートヴィヒ2世は財務問題の解決を大臣たちに依頼します。しかし首相は「国庫からの前払いは、法的権限付与のない簡単なやり方ではもちろん考えられません」とにべもなく返答しました。国王個人の負債を国費で補填するという時代錯誤の方法は、近代立憲君主制の時代には考えられなかったのです。

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ヘレンキームゼー城外観© Satoru OHATA

巨額の未払金の問題に頭を悩ませたルートヴィヒ2世は「これではリンダーホーフ城やヘレンキームゼー城などの余の所有物が裁判所に差し押さえられてしまう!これが阻止できないのであれば、余はすぐに自殺するか、ひどいことが起こっているこの呪われた国から即刻退去することになるだろう」と侍従武官に弱音を漏らしています。

結局この財務問題は解決せず、王とバイエルン内閣の対立は深まり、1886年6月12日、ついにルートヴィヒ2世は政府によって逮捕され、ベルク城に幽閉された後、湖に自ら身を投げたのでした。

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ヘレンキームゼー城の寝室© Bayerische Schlösserverwaltung, Maria Scherf / Andrea Gruber, München

現代人が共感できる「ファンタジー」としてのノイシュヴァンシュタイン城

なぜルートヴィヒ2世は財務の行き詰まりや大臣たちの諫言にもかかわらず築城を止められなかったのでしょうか。筆者はルートヴィヒ2世は一種の依存症だったと考えます。

ルートヴィヒ2世自身にその傾向があったアルコール依存症は、飲めば飲むほど飲まずにはいられなくなっていきますが、同様に王は城を建てれば建てるほどさらに城を建てずにはいられなくなっていたのです。そうしなければ、国王の権力が失われた「呪われた国」の「疲れた生活」の中で、満たされない願望を抱えながら「一息つく」ことさえできない、と思い込んでいたのでしょう。

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ノイシュヴァンシュタイン城外観©DZT/Florian Trykowski

ルートヴィヒ2世はおよそ模範とは言えない国王だったかもしれませんが、彼の残した3つの城が今日観光客に大人気であることを考えると、仕事や生活に疲れた現代人が共感できるファンタジーを城という形で具現化した、と言えるのではないでしょうか。

***

文:ドイツ観光局広報マネージャー・大畑悟
編集:Sitakke編集部・ナベ子

主要参考文献
マルタ・シャート、西川賢一訳『美と狂気の王ルートヴィヒⅡ世』講談社、2001年
Michael Petzet, Gebaute Träume: Die Schlösser Ludwigs II. von Bayern, Hirmer Verlag, München, 1995

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