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結婚、出産、離婚、起業、再婚、死別…人生フルコースの81歳女性が「80代が一番おもしろい」と断言するワケ

  • 2024.1.22

短大を卒業し就職した紅一点の職場でトップ営業となり、専業主婦が当たり前だった時代に子どもを育てながら成績を上げ続けた。離婚し、子ども達を引き取りたくて起業。再婚した夫を見送り、人生のフルコースを味わった今、「80代が一番おもしろい」という。連載「Over80 50年働いてきました」第12回は、おせっかい協会会長の高橋恵さん――。

冬でも半袖で、靴下を履かない81歳

扉を開けると、眩い光を背にした元気な笑顔に迎えられた。一般社団法人おせっかい協会会長、高橋恵さん。小柄な身体に溢れんばかりのパワーがみなぎり、人を惹きつける魅力的なオーラを持つ女性だと一瞬で思う。

一般社団法人おせっかい協会会長 高橋恵さん。ごみ拾い活動や講演会、交流会などのおせっかい活動を全国で10年にわたり展開してきた
一般社団法人おせっかい協会会長 高橋恵さん。ごみ拾い活動や講演会、交流会などのおせっかい活動を全国で10年にわたり展開してきた

東京都中野区、中野駅すぐの高層マンションの一室、ここが高橋さんの自宅であり、おせっかい協会の本部だ。開放的なワンルームは、太陽の光が降り注ぐ、ひだまりのような空間。大きく開かれた窓ガラスの向こうには、迫力ある東京の大パノラマが広がる。

驚くことに高橋さんは半袖のチュニックに、足元はなんと裸足なのだ。いくら暖冬とはいえ、12月後半だ。こちらは、分厚いコートにヒートテックまで着込んでいるというのに。

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
連載「Over80 50年働いてきました」はこちら

「私、冬でも半袖で、靴下も履かないの。いつも、こんな感じ」

高橋さんは、こともなげに笑う。この日は地方から来たメンバーが数人おり、「いつも、こうなんですよ」と笑いながら相槌を打つ。何だろう、ここに流れるあたたかさ。高橋さんのことなら何でも知っているとばかりに、まるで家族のようだ。

人が何と言おうが、いいと思える生き方を

対面した高橋さんの指には、大ぶりなアイボリーのバラの指輪。そして、鮮やかなピンクのネイルがパッと目に飛び込んでくる。81歳という固定観念が、心地よく崩される。

「私、歳を取るの、やめました。皆さん、やめればいいんです。今月は、これにしたのよ。2月8日に82歳になるから、『2882』って描いてもらったの」

誘われて足元を見るや、ド派手なピンクのネイル、しかも両方の親指に、黒で、「28」と「82」の数字が描かれている。

ド派手なピンクのネイルに82の数字
ド派手なピンクのネイルに82の数字(撮影=伊藤菜々子)

「トウモロコシの季節は黄色にして、海外に行く時は相手の国旗をネイルに入れるの。そうすると、喜んでもらえるから。こうやって、皆さん、楽しめばいいんですよ。誰にも迷惑をかけないし、いくつになろうが、人が何と言おうが、いいと思える生き方をしないと。世間体とか、常識とかに囚われすぎると、自分の人生を苦しいものにしちゃうんですね」

いきなり放たれる連続パンチに、圧倒される。明るくパワフル、まるで太陽のような存在だ。

母は26歳の時に3児を育てるシングルマザーとなった

それにしても、取材で味噌汁を振る舞われたのは初めての経験だった。大根、牛蒡、人参、里芋、カボチャまで入った具沢山の味噌汁は、相手を思う愛情そのもの。麦味噌の甘みがほっこり、やさしく染み渡る。

取材時にご馳走になったお味噌汁
取材時にご馳走になったお味噌汁(撮影=伊藤菜々子)

「これはもう、何年も前からずっと。時間があると作っておくの。あるといいでしょ。宅配便屋さんがくると必ず、お茶とお菓子をあげるの。みんな、喜んでくれる。楽しいこと、うれしくなることをしてあげると、相手は喜ぶ。ここは、そういう場所でもあるの。だって私は、人生のフルコースを生きてきたから、今度は与えることをしていきたい」

人生のフルコース……、何と斬新な響きだろう。結婚、出産、子育て、離婚、会社経営、孫育て、再婚、死別、これが、高橋さん自身が味わってきた、「人生のフルコース」だ。

高橋恵さんは1942年、戦時下真っ只中に、三姉妹の次女として生まれた。3歳の時に父親が戦死し、戦後の混乱期に、母親は26歳でシングルマザーとなった。貧困に喘ぐ生活の中で、3人を育てることが難しく、高橋さんは遠い親戚に預けられ、理不尽な日々を送ることとなる。このつらい日々を支えたのが、母親が何度も語ってくれた一つの言葉だ。

つらい日々を支えた言葉

「天知る 地知る 我知る」

「後漢書」楊震伝に、「天知る、神知る、我知る、子知る」という言葉がある。他人は知るまいと思っても、悪事はいつか必ず発覚するということ。

高橋さんの母は誰も知るまいと思っても、隠し事は天の神様が知っている、地の神様も知っている、そして自分が一番よく知っているという話を何度もした。高橋さんは続ける。

「同時に誰も見ていないと思える良い行いも誰かが見ている。良い行いは宇宙銀行に貯金されている、私はそう思うことにしているんです」

ここに、おせっかい協会を立ち上げた原点がある。

広告代理店で紅一点ながら、トップセールスに

高橋さんはその後、親戚での生活から東京に戻り短大を出た。姉が短大を出してくれたのだという。

短大卒業後、広告代理店に勤務。高橋さんは自分から希望して、営業職に就いた。社員57人中、女性は1人。そこで、トップセールスを記録する。1960年代当時、決して、女性が働きやすい時代ではなかったはずだ。

高橋さんは新卒から一貫して営業の仕事に携わってきた
高橋さんは新卒から一貫して営業の仕事に携わってきた

「とにかく、何でも楽しんで仕事をすれば、いくらでもできる。売れない、できないという方向ではなく、トランプだって52枚の中にエースは必ず4枚あるのだから、52件も回らないで、できないと決めるのはおかしい。こんなふうに考えて仕事をしていると、どういうわけか、みんな、うまくいくの。見返りを求めない、損得を考えない。まずは気持ちが大事。お金の力ではなく、人間は感情の動物だから、心の力を動かすこと。相手が喜ぶであろうことを、一生懸命にしてきただけ」

悔しい気持ちは川柳にぶつけた

会ってくれた人には、その日のうちに礼状を書く。きっと、そのほうがうれしいだろうから。そうやって、相手に喜んでもらえるように努力した。営業の現場では時に、つらいこともある。

「意地悪をされたり、見下されたりすると、私もあなたを見させてもらっていますよという気持ちで、川柳を作っちゃう」

その川柳が、これだ。

「見知らぬセールスマンに見せる素顔こそ、その人の素顔なり」

嫌なことも、川柳にして楽しんだという高橋さん。負の感情に囚われることを徹底して避け、笑いに転じた。

「そうすると、こういう人にならないように気をつけようと思うでしょ。だから、人生のお手本探しって考えていくと、営業はつらくはない。そうやって営業の成績が上がると、今度は飛び込み営業が趣味になっちゃう」

人と出会うことこそ、営業の現場だ。それこそが、高橋さんにとっての学びとなった。

「自分のお手本探しだと思ったら、どんな相手とでも楽しく話せる。そこで気づいたのは、営業というのは物があってもなくても、人の心を動かすことができたら成立する。私は全て、人から学ばせてもらったんです。飛び込みをすれば、いろんな人に会えるし、いろんな人から学ばせてもらえるし、やはり、人の顔を見て、人の心が動いて、それで決まった仕事は大事だと思いました」

心の力、それは今のおせっかい協会の活動にも通じるものだ。

誰が何と言おうと、女性も働かなければ

結婚して、娘が二人生まれても、高橋さんは子育てをしながらさまざまな営業職に就き、トップセールスを記録した。当時、専業主婦が圧倒的に多かった時代だ。

「当時は、女の人は家にいるものだと思っている人が多かった。女が働いても、大したことができないとされていた。でも私は母の姿を見ていますから、サラリーマンに嫁いで、もし夫に何かがあったら、女性も生きていく力をつけておかないと、一緒に死ぬようなことになってしまう、それではいけないと思ったんです。だから、誰が何と言おうと、女性も力をつけて働かなきゃいけないという思いが、私は人よりも強かったんですね」

営業で好成績だったのは、「人を喜ばせたい」という思いでしたおせっかいが基本にあったから
営業で好成績だったのは、「人を喜ばせたい」という思いでしたおせっかいが基本にあったから

しかし、幼い子どもを抱えて女性が働くのは、今でも多くの困難がある。だいぶ、解消されたとはいえ、保育園の待機児童問題に女性たちは悩まされてきた。

「みんな、子どもがいるからできない、子どもを預かってもらえないからできないって、仕事ができない理由ばっかり並べ立てる。私はできない理由よりも、できる理由を考えなさいと言うわけ。そうすると、いろいろなアイデアが浮かんでくる。子どもが保育園に入れないなら、子どもが好きで、子どもの面倒をみたいという人に預ければ、安心でしょ。これで、どちらも良いわけですから」

子どもたちを引き取るために起業を決意

娘が高校生になった頃、40歳の時に、高橋さんは離婚する。

「家の中に、男が二人いるような感じになっちゃったんでしょうね。やっぱり、相性もあるでしょう。できれば、別れないほうがいいと思うんですよ。でも、時と場合によっては、しょうがないこともある」

子どもを育てるためには、稼がなければいけない。高橋さんは42歳の時、娘と二人でPR会社の起業を決意する。

「子どもたちを引き取りたくて、少しでも高い収入を得られるようにと選んだのが起業でした」また、一からのスタートだ。

「小さなワンルームで仕事を始めた時、上の部屋が空いたからそこも借りて、名刺に部屋番号ではなく、『6F・7F』にしたの。そうすると、2フロアがあるように見えるでしょ。名刺を見せると、『すごいですね』って言われて。実際は一間で、自分の部屋だったりするんだけれど、そうやって嘘でない嘘をやりながら楽しんで。そういうふうに考えていったら、何をやってもできる」

当初は苦労もあったはずだが、高橋さんは吹っ切った笑顔で流暢に語る。

「コネがなくても行動力、常識がなくても知恵があって、身長がなくても体重がある。まあ、健康であれば、できるということです」

「言葉」へのこだわり

高橋さんが生み出した「名言」は数知れず。

「思い立ったら、即速行動」
「石橋を叩く前に渡り切る」
「言い訳の天才より、できる天才になってほしい」

つらい日々を支えてくれたのが母の言葉だったからこそ、高橋さんは人の心に響く言葉にこだわる。そうやって、30年かけて生み出した「おせっかい名言」がこの度、「百人一首」ならぬ、「百年一首」というカルタになった。

「誰でも、この言葉を100個覚えるだけで、人生が全然違ってきます。本当にいい言葉が、100枚。これなら遊びながら、覚えられる。言葉の力で、人をいっぱい助けてあげられるなら、私はそうしたいんです」

おせっかい名言を100個集めた「百年一首」
おせっかい名言を100個集めた「百年一首」
病院より美容院に行こう

フルコースの後半に待っていたのが、再婚だ。高橋さんは49歳で、5歳下の男性と結婚。しかし高橋さんが75歳の時、夫は他界した。伴侶との離別と死別の両方を経験するとは、まさにフルコースだ。起業した会社は娘が代表を務め、今や東証一部上場企業となった。60代は孫育て、70代になり、おせっかい協会を一人で立ち上げた。

82歳間近の今、薬どころか、サプリも補助食品も何も摂らない。手元にあるノートの細かい文字を、老眼鏡なしにスラスラ読む。

「風邪をひいても、ひいていない。健康診断には行かない。行ったら、予備軍にされるから。『病院より、美容院に行こう』です」

出たぁ〜、「おせっかい名言」。パワフルな笑顔に、その通りだと心から思う。

「80代は、一番面白いです」

確信に満ちた、高橋さんの揺るがぬ思いだ。

黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。

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