1. トップ
  2. レシピ
  3. たった1枚の紙きれが一家心中しようとした母を救った…81歳女性が全国に「おせっかい」を広める深い理由

たった1枚の紙きれが一家心中しようとした母を救った…81歳女性が全国に「おせっかい」を広める深い理由

  • 2024.1.22

10年前、おせっかい協会を立ち上げた高橋恵さんは、全国に仲間を作りながらごみ拾い活動、講演活動、SNSでの発信を続けてきた。一貫して伝えてきたのは一人ひとりの思いやりのある行動の大切さだ。その原点には、1枚の紙きれに命を救われた幼少期の経験があった――。

26歳の母と4歳・3歳・0歳の娘

1枚の紙切れで救われた命――、おせっかい協会会長の高橋恵さんはこれまで何百回と、こう噛み締めてきたことか。その紙切れがあったからこそ、今があるのだ。

高橋さんは1942年生まれ、3歳で父親が戦死し、終戦の年に母親は26歳で、4歳、3歳、0歳の3人の娘を抱えるシングルマザーとなった。戦後の混乱期、食糧もなければ仕事もない。母親は意を決し鹿児島から上京し、さまざまな事業に取り組んだものの、廃業に追い込まれることとなった。

一般社団法人おせっかい協会会長の高橋恵さん
一般社団法人おせっかい協会会長の高橋恵さん

「どんなに食べられなくても、国に頼るのは恥だと母は言い続けていました。自分がごはんを食べなくても、子どもには食べさせる。そういうことを母はやって、だけどついに、どうにもならなくなっちゃったんです」

玄関に差し挟まれた1枚の紙

当時、近所で無理心中を図る家族は少なくなかった。事業に失敗し、生きる気力を失った母親はある時、子どもたちと一緒に死のうと決めた。まさにその時、玄関でコトリと音がした。母子が無理心中の一歩手前にいる窮状を察した近所の人が、玄関に1枚の紙切れを挟んでくれたのだ。

「あなたには、3つの太陽があるではありませんか。今は雲の中に隠れていても、必ず、光り輝く時が来るでしょう。それまではどうか、挫けないで頑張ってください」

命を救ってくれた手紙のエピソードは紙芝居にして、おせっかい活動の中で語りついでいる
命を救ってくれた手紙のエピソードは紙芝居にして、おせっかい活動の中で語りついでいる(紙芝居=木谷安憲・作)

この言葉で母親ははっと我に返り、無理心中を思い止まった。「死のうとして、ごめん」と母親は泣き崩れ、4人抱き合って泣いた。

何と、大いなるおせっかいか。

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
連載「Over80 50年働いてきました」はこちら

「泣けるほど、立派な言葉でした。その紙切れによって、私は命が助かって、今、ここにいるんです。私が雲から出てきた太陽ならば、今度は自分が多くの人を光り輝かせたいという思いで、ここまでやってきました。いつか、世の中のために尽くそうと。だから、死ぬまでおせっかいを続けるわけです」

「心まで貧乏に染まってはいけません」

国にも人にも頼ることをよしとしない、高橋さんの母親は、道徳というものに非常に厳しい人でもあった。母親は娘たちに、一つの言葉を繰り返し教えた。

「天知る 地知る 我知る」

母親は三姉妹を並ばせ、こう諭すのが常だった。

「天が見ています。大地が見ています。そして、あなたが一番知っているでしょう。だから、どんなに貧乏になっても、心まで貧乏に染まってはいけません」

おせっかい協会を立ち上げた高橋恵さん

母親の稼ぎでは3人を育てることが難しいため、高橋さんと妹はそれぞれ、遠い親戚に預けられて、つらい時間を送ることとなった。

「その家には明治生まれの厳しいおばあちゃんがいて、私はひどくいじめられました。余計者でしたから。人間じゃない扱いをされた時は、悲しかったですね。トイレに行って泣いて、窓から飛ぶ鳥を見ていると、また泣けてくる。鳥は、自由でいいなーって」

この時、鳥を見てはっきり思った。高橋さん、14歳の時だった。

「私は絶対に、自由に飛べる鳥になりたい。過去は振り返らない。前向きに生きて行こう」

耳元で母の言葉が聞こえる

つらい時間を支えてくれたのが、母親のあの言葉だった。いつも、耳元で母親が囁いてくれた。生の声のように、響いてくるのだ。

「犬に牛乳をあげようとしたけど、ひもじくて、自分で飲んでしまおうと思った時、母の声が聞こえたんです。『天が見ていますよ。あなたが一番、知っているでしょう』って。人って、これほど心に染み込ませる言葉を与えられたら、絶対に悪いことをしない」

これが、高橋さんのおせっかいの原点だ。

高橋さんにつらく当たったおばあさんは死ぬ間際、高橋さんを枕元に呼び、「当時はすまないことをしましたね」と謝ってくれた。許す気持ちにはなれなかったが、はっきりと思った。

「私は、ひどい意地悪をされた。でも、されたことを、人には絶対にしてはいけない」

高橋さんのおせっかいの根底に、それは今もずっと横たわる。

街のゴミ拾いを4年半続けるうちに仲間が増えた

2013年、71歳でおせっかい協会を立ち上げようと思った時、背中を押してくれたのが、2005年にガンで若くして亡くなった、プロウインドサーファー、飯島夏樹さんの言葉だった。

「得ることよりも、与えることに鍵があるね」

70代になり、これからの人生は世の中のために尽くしたいと思った時、この言葉が鮮烈に甦った。そうだ、与えることをやって行こう。一般社団法人にしたのは、ビジネスではないからだ。

「見返りを求めない。みんなが平等に幸せになるということを、理解した人が入れる会。愛あるおせっかいで、誰かの役に立つことを目指す会として、東京・中野にある自分の住まいを本部にして、一人で立ち上げました」

うちわやカレンダー、切手まで……仲間の発案でおせっかいグッズが増えてきた
うちわやカレンダー、切手まで……仲間の発案でおせっかいグッズが増えてきた

最初は街をきれいにするために中野駅周辺で4年半、ゴミ拾いをした。すると、高橋さんの姿を見かけた人たちが一緒にゴミ拾いをするようになり、どんどん仲間が増えて、帰りがけに自宅で話をするようになった。こうして“おせっかい仲間”が増えていき、今やFacebookには3000人が集う。会費も無く、会報も発行していない会だというのに驚きだ。

「お金をかけないでやっても、これだけの人が集まるというのは、お金の力じゃなくて、人の心の力で活動ができるわけです。私は地位も名誉も何もいらない。同じような気持ちの人がもっと増えると、世の中はもっと良くなると思いますね」

今の子ども達に伝えていきたいこと

おせっかいを世の中に広めていく活動を、高橋さんは自身の使命とした。突き動かす原動力も、使命感が湧き上がる源泉も全て、母親が惜しみなく与えてくれた愛情から発している。

「私が私を失うことなく、私のままでいられるのは、母の無条件の愛があったからです。健康な身体に産んでくれたことと、『あなたにはあなたの、いいところがたくさんあります』と褒め続けてくれた。姉妹を比較しないで、その子の持っている本質を生かしてくれた。母は大正時代に生まれ、大変な戦争に巻き込まれ、それでも子どもの未来を思って、厳しく教育してくれました。人の家で生活していた時に、『天知る、地知る、我知る』という言葉に支えられたからこそ、この言葉を、今の子どもたちに伝えていくべきだと思うんです」

自分に条件と制限を設けず、歪みなく、真っ直ぐに生きる

どんな境遇にあろうとも、誇りある人間に子どもを育てなければいけないという母たちの思いを、高橋さんは次の世代の子どもたちに伝えなければいけないと強く思う。

おせっかい協会を立ち上げた高橋恵さん

「大正時代の女性たちの凛々しい姿を、後世に残したい。私の母の教えは、子どもたちにつなげていかなければならないと思うのです。子どもたちは誰から何を学び、何に気づいて大人になっていくのか。時代は違っても、私の考えが古くても、そういう教育を受けてきたことで今があるので、これはもっと多くの人に知らせていかないといけない。

今の人たちがどれだけ、自分に条件と制限を設けず、歪みなく、真っ直ぐに生きているのか。今の子どもたちを見ていると、ひきこもりが多いと聞きますし、しっかり伝えていかないと。もう、私の地球滞在時間は短いのですが、これだけはやり遂げたいと思っているんです」

迷っているうちに、心の隙間にゴミがたまっていく

高橋さんだからこそ気づく、子どもやその家族の歪みの一端が、昨年、不登校の児童生徒数が過去最多を更新したという現状に表れているのかもしれない。

「自分がどう歪んでいるか、わかりそうでわからない。では、どうやって歪みをほぐせるのか。私は歪みというのは、心の隙間にゴミが溜まるから生じるのだと思う。何をやるにも、どうしよう、ああしようと悩んでいたら、心の隙間がゴミだらけになって、わけがわからなくなってしまう。だから、“即速行動”なのです。とにかく、すぐ行動することが大事。私たちは『おせっかいSDGs』というのをつくったのですが、Say=言ってみる、Do=やってみる、Go=行ってみる、Speed=即行動。これが大事」

能登半島地震に際して、いち早く缶詰の寄附活動を行った
能登半島地震に際して、いち早く缶詰の寄附活動を行った

主な「おせっかい活動」は、全国各地での講演や自身の書籍、ラジオ番組出演や、毎日欠かさない、音声SNSアプリ「clubhouse」での月に50本の配信など、高橋さんの人間力を通した普及活動だ。講演は日本にとどまらず、インドネシアにまで“愛あるおせっかいのススメ”は及んでいる。定期的に開催する自宅での「お話会」も好評で、中野区長が参加することも。

「私は中野をおせっかいの町、親しみやすく、誰でも生きやすい町にしたいですね。ここが“おせっかいの町”だとなったら、皆さん、もっとおせっかいを意識するのでは」

昨年秋、設立10周年を迎え、国内のおせっかい支部は北海道、千葉、東京、埼玉、長野、愛知、大阪、岡山、山口、香川、愛媛、福岡県、鹿児島、沖縄と全国に広がり、メンバーたちがたんぽぽの綿毛のシンボルマークや、“おせっかい名言”の日めくりカレンダーなど、さまざまな普及促進のアイテムを作り、活動を盛り上げ続けてくれている。

人生、楽しんだ人が勝ち

高橋さんは自宅の壁を取っ払い、アイランドキッチンのある広いワンルームにして大きなテーブルを置き、メンバーが気軽に集える場所にした。自身のプライベート空間は、押し入れだった場所に置いた小さなベッドだけ。おせっかい仲間同士、仕切りも壁も要らないから。

「お金をかけないでやっていますから、みんなが協力してくれます。おせっかいに生きれば、周りに笑顔が集まってくる。人生、楽しんだ人が勝ちなんですよ。常識というのは、正しい顔をしながら人生を縛っている。だから、それに囚われないで楽しまないと。80代で、これだけ頑張っている人がいることをわかっていただき、皆さんに元気でいてほしい。多くの人たち、とりわけ未来の子どもたちが幸せになっていく、これだけが私の思いです」

おせっかい協会10周年記念にもらったバラの花束
おせっかい協会10周年記念にもらったバラの花束

2023年11月、創立10周年の記念イベントで、高橋さんは高らかに宣言した。

「20周年にも、皆さんと会いましょう!」

その時、自身は91歳だ。「もう、地球滞在時間は短い」との思いはどこへ、高橋さんのパワーみなぎる笑顔を見れば、これはもう間違いないと確信しかない。

黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。

元記事で読む
の記事をもっとみる