1. トップ
  2. 恋愛
  3. ♍の☀♀☿が奏でる不思議世界「宮沢賢治」

♍の☀♀☿が奏でる不思議世界「宮沢賢治」

  • 2024.1.8

今回のホロスコープhistoryは、詩人・童話作家の宮沢賢治。 教科書掲載に、推薦図書等、彼の作品に触れる機会は多く、郷里岩手県の自然を愛する人として、名を知られています。そんな宮沢賢治の人柄や、育った環境から、どのような人生を歩んだのか、星回りをベースに見ていきましょう。

宮沢賢治パーソナルデーター

1896年(明治29年)8月27日岩手県花巻川口町(現・花巻市)生まれ 出生時間不明

第1室本人の部屋 ♍ ☀・♀・☿

第2室金銭所有の部屋 ♎

第3室幼年期の部屋 ♏ ♄・♅

第4室家族の部屋 ♐

第5室嗜好の部屋 ♑

第6室健康勤務の部屋 ♒ ☊

第7室契約の部屋 ♓

第8室授受の部屋 ♈ ☽(月のふり幅10:43~22:33)

第9室精神の部屋 ♉

第10室社会の部屋 ♊ ♂・♇・♆

第11室友人希望の部屋 ♋

第12室障害溶解の部屋 ♌ ♃

第1室を飾る♍☀・☿・♀のステリウムと、第10室社会の部屋の♊♂・♇・♆のステリウム。心地よき風と豊かな実りを育む大地とも、神経衰弱な組み合わせともいえるスクエア。☿と♆は、書くこと、話すことに、美を添えるだけでなく、化かす効果もあり。摩訶不思議な世界観を宿す、宮沢賢治の一端とも言えます。

☽は第8室♈にあり、16度なので、終日♈。さらに第12室障害溶解の部屋。

♌の♃と調和しているあたりが救いで、負けず嫌いを緩和。彼の生涯を支える楽屋裏になっています。作品が国語の教科書に載ることもあり、彼の名と、その作品のいくつかは、周知ですが、彼の生前に、作品が売れて豊かになった経緯はありません。

☽と♃の調和は、肥沃・目に見えない援助・成功等がありますが、彼の場合は、実家が太かったことを裏付けるとみてもよいでしょう。第3室幼年期の部屋が、♏を背景に♄と♅があることは、彼の心の葛藤を知る手掛かりになります。

宮沢賢治略年表 ウィキその他 資料参照

1896(明治29年)8月27日岩手県花巻町で商いを営む宮沢征次郎・イチ夫妻の長男として誕生。出産は、母の里である鍛冶屋町8月31日陸羽地震(17時6分27秒・マグニチュード7.2)

1898(明治31)年11月25日 妹トシが生まれる。

1901(明治34)年6月18日 妹シゲが生まれる。

1902(明治35)年赤痢で二週間入院。

1903(明治36)年4月 花巻川口尋常小学校入学

1904(明治37)年4月1日 弟清六が生まれる。

1907(明治40)年3月4日 妹クニが生まれる。

1909(明治42)年4月 岩手建立盛岡中学校入学(現・盛岡第一高等学校)1年(13歳)短歌を詠むなどの文学活動を始める。

1914(大正3)年3月 盛岡中学校卒業。4月 肥厚性鼻炎で岩手病院に入院。手術を受ける。術後、発熱が続き、5月末まで入院。退院後は、稼業を手伝うが、進学を許され、受験勉強に打ち込む。

1915(大正4)年4月 盛岡高等農林学校に主席入学。(現・岩手大学農学部)

1916(大正5)年3月 農学第2部(農芸化学専攻)特待生に選ばれる。

1917(大正6)年7月 同校の学友保坂嘉内らと、雑誌『アザレア』を作る。

1918(大正7)年3月 盛岡高等農林学校を卒業。そのまま研究生として学内に残る。4月 兵役検査第二乙種合格。兵役免除。6月 肋膜炎と診断される。12月 妹トシが、肺炎で東京の病院へ入院。看病のため上京する。

1919(大正8)年 萩原朔太郎の詩集「月に吠える」と出会う。3月 トシと共に帰省。家業を手伝う。

1920(大正9)年5月20日 研究生を卒業。国柱会に入信。父に改宗を迫る。

1921(大正10)年1月23日上京。国柱会本部を訪問。本郷菊坂町に下宿。働きながら童話執筆。8月 トシ病気のため帰省。12月3日稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭になる。

1922(大正11)年1月 雑誌「愛国婦人」12月号・1月号に「雪わたり」を掲載。11月27日トシが病死する。

1924(大正13)年4月20日 詩集『春と修羅』。自費出版。12月1日童話集『注文の多い料理店』を出版。

1925(大正14)年7月 詩人草野新平の同人誌「銅鑼」に参加。

1926(大正15・昭和元年)3月花巻農学校を退職。4月花巻市の別宅で一人暮らし。私塾「羅須地人協会」を設立。12月上京タイプライター・エスペラント語を習う。高村光太郎宅訪問。

1927(昭和2)年2月1日「岩手日報」で賢治の活動が紹介される。社会主義者と誤解される。

1928(昭和3)年6月農業指導のため、伊豆大島の伊藤七雄を訪問。12月 過労で倒れ、両側肺湿潤と診断される。実家に戻って療養する。

1930(昭和5)年5月東北砕石工場主の鈴木東蔵の訪問を受ける。

1931(昭和6)年2月21日体調回復。東北砕石工場技師となる。石灰肥料の宣伝担当。9月20日営業のため上京。発熱し、倒れる。9月28日花巻市に帰省。療養生活に入る。11月詩「雨にも負けず」を記す。

1932(昭和7)年3月児童文学第二冊に、「グスコーブドリの伝記」を発表。

1933(昭和8)年9月21日 急性肺炎により死去(享年37歳)

宮沢賢治惑星history ☽年齢域0~7歳1896(明治29)~1903(明治36)年

宮沢賢治は、岩手県稗貫郡里川口村(現・岩手県花巻市)に生まれた。となっていますが、彼が生まれる時代、地域に産院はなく、長子は母親の実家で産むというのが、一般的だったようで、彼は、鍛治屋町(現岩手県花巻市)にある母・イチの実家で生まれています。

母方の実家は、雑貨をはじめ、砂糖や小麦粉。灯油。専売品であったタバコや塩を扱う、地域密着の商店「宮澤」で、祖父の宮澤善治は、勤勉で意志強く聡明。とても温厚な人で、祖母のサメも明るい人だったそうです。 一家総出で、商いを営む家に生まれ育った賢治の母・イチは、両親の気質を受け継ぎ、とても明るく情の深い女性でした。

賢治が生まれて、数日後の8月31日午後5時6分。秋田県と岩手県の県境にある真昼山地で、直下型の陸羽地震が発生。マグニチュードは7.2。とても強く、揺れたのでしょう。

産後間もないイチは、乳児を入れて守る籠(エジコ)に賢治を入れて、その上に覆いかぶさり、念仏を唱えそうです。

賢治の父、宮沢政次郎は、仏教(浄土真宗)への信仰が篤い人で、先代である宮澤嘉助から稼業である古着商「宮右かまど」を受け継ぐと、質屋と古着商を兼ねた「宮澤商店」として、繁盛させました。その傍ら、地域への貢献として、民生委員や調停委員を長く勤めたのです。

仕事で旅行中だったため、弟の治三郎が、賢治と名付けています。

2年後、妹のトシが生まれました。さらに二人の妹と弟が一人生まれますが、賢治とトシは、年齢も近いこともあるのか、大変仲の良い兄妹でした。

3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉のヤギが、「正信偈」「白骨のご紋章」を唱えているのを聞き覚えた賢治。一緒に仏前で唱えたという話があります。宮澤家は比較的裕福というだけでなく、仏教への信仰が篤い家庭だったことから、経文を親しむ土壌で賢治の心は育ったのでした。

☽年齢域も終わろうとする1902年(明治35年)。賢治は赤痢で2週間ほど入院します。看病のために付き添った父も、感染。大腸カタルを起こしました。

宮沢賢治惑星history ☿年齢域7~15歳1903(明治36)~1911(明治44)年

1903年(明治36年)世の中が日露戦争に染まる時代、7歳になった賢治は、花巻川口尋常小学校に入学します。3年、4年の担任八木英三先生は、生徒たちに「海の塩はなぜ辛い」「家なき子」といった民話や童話を、読み聞かせてくれました。好奇心旺盛で、感受性伸び放題な賢治にとって、この先生との出会いは、彼の将来への礎となったと言われています。

その一方で植物・鉱物・昆虫採集に興味を示した少年賢治。標本作りに熱中しました。熱中する賢治を見て、家族は「石っこ賢さん」と、親しみを込めて呼んだそうです。

父が主催した花巻仏教会の夏期講習に参加した際、講師の暁烏敏の世話係を担当しました。

1909年(明治42年)12歳の時、花城尋常高等小学校を、卒業した賢治。成績は大変優秀で、6年間全科目「甲」(今でいえばオールA)でした。勉強が大好きな少年賢治は、同年4月。県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に進学します。

この時代、既に義務教育は施行されていましたが、庶民階層では、小学校で学業を終わりにさせ、子どもを働きに出す家庭も多かったのです。(この頃の日本は、まだ子どもの労働は禁止されていませんでした)

父方の祖父喜助は、「商人に学問は不要」という価値観を持っていました。

当の賢治は稼業を嫌い、家を継ぐことを悲観していたのです。この状況を鑑みた父政次郎は、喜助を説得して、賢治の中学進学を実現させたのでした。寄宿舎生活が始まりますが、卒業後は、家業である古着と質屋で働かなければなりません。今の時代よりも「家を継ぐ」ということ。「長男」という位置が重くのしかかる時代。利発な賢治は、既に決まっている自分の将来に希望が持てず、成績はダダ下がりしてゆきます。

宮沢賢治惑星history ♀年齢域15~24歳1911(明治44)~1920(大正9)年

賢治の☿と♀は♍を守る守護星として、☀と共にありますが、☿年齢域から♀年齢域前半。

関心を示すことには細部までの工夫を凝らしますが、心配なことや不安要素があると、逃避する傾向が強く出る賢治。基礎教育や子ども時代を表す第3室は、♏を背景に、♄=締め付けや抑制に、♅意外性・デンジャラスという組み合わせ。親から虐待を受ける、とかではなく、賢治にとっては「稼業を継ぐ」という、既定路線が重かったのでしょう。

自我が芽生える年齢に達していることもあり、教師や親に反抗的な言動を取ったり、寮では管理人に嫌がらせをしたり、優等生らしからぬ一面も見せたかと思うと、盛岡近在の山々を歩いて鉱物採集や、天文学に没頭します。自然の中に逃避するだけでなく、多感の少年は、石川啄木の作品に触れ、短歌を作るようになりました。

1914年(大正3年)中学を卒業して間もなく、4月に肥厚性鼻炎を発症。手術のために、盛岡市岩手病院へ入院します。術後、熱が下がらない日が続き、発疹チフスの疑いから、退院は5月下旬と長引きました。その間、看病に当たった父・政次郎も感染してしまい、入院することになったのをみて、自分の看病で、2度も倒れた父に対し、後々まで負い目を感じていたそうです。

同時にこの入院中、一人の看護師さんに、恋心を抱きました。

退院後、両親に「あの人と結婚したい」と相談しますが、まだ若すぎるという理由で反対され、この話はなかったことに。

政次郎に「あれは早成な所があって、困ったもんじゃ」と、言わせた賢治。体も落ち着き本格的に稼業や養蚕を手伝いだすと、実に鬱々していたそうです。あまりの様子をみて、かねた父は、盛岡高等農林学校への進学を、認めたのでした。

生き生きと受験勉強に取り組む賢治。同時期に、島地大等訳の「漢和対照 妙法蓮華経」を読み、感銘を受けます。幼い頃から、仏教が身近だった賢治の心は、誰もが努力をすることで、成仏できるという法華経の教えに惹かれてゆきます。

1915(大正4年)4月。盛岡高等農林学校農学科(現・盛岡大農学部)に、主席入学を果たした宮沢賢治。入学宣誓式で、総代として誓文を朗読しました。

農学科では、土壌学者の関豊太郎の指導を受け、盛岡地方の地質調査等を行いました。関との出会いが、勉強好きな賢治に磨きをかけ、寄宿舎「自啓寮」に入寮すると、土日は登山や鉱物採集を楽しみました。

1916年(大正5年)20歳の時、成績優秀ということで特待生に選ばれ、授業料を免除された賢治。同時に毎朝、「法華経」を唱えていたそうです。

1917年(大正6年)3月。同校の友人小菅健吉、後輩で親友の保坂嘉内。保坂の同級生である河本義行といった仲間で、同人誌「アザリア」を創刊しました。賢治が通っていた農林学校は、日本に2校しかない官立高等農林学校で、全国からエリートが集まる学校だったのです。さらに時代は、大正デモクラシー。懐古的な作品とは違う、新しい文学が芽生えだし、出版花盛りな雰囲気な空気が、あったのです。その中で、理系の学校にあつまった文学好きな学生たちは、様々な作品を語り合い、自分たちも書いたのでした。賢治は短歌の「みふゆのひのき」や、短編「旅人のはなし」を発表。「アザリア」の活動は、1年ほどで、2ヶ月に1回ペースで、同人誌を発行しています。

1918年(大正7年)3月。賢治が盛岡農林学校を卒業する直前のことでした。保坂嘉内が「アザリア」へ投稿した作品が問題視されます。保坂は1学年後輩で、彼が賢治の親友と言われる所以は、後に賢治が描いた「銀河鉄道の夜」に出てくるジョバンニのモデルと言われているからです。

保坂の除籍処分を決めた教授会に、賢治は猛烈な抗議をしました。しかし、状況が好転することはなく、除籍処分となってしまったのです。

卒業後、賢治は研究生として、学校に残ることを決めますが、これは本人の意思ではなく、関教授の勧めと、徴兵検査の延期を考えた父・政次郎の親心があってのことでした。

第一次世界大戦は終わったものの、革命を成功させたロシアの南進を警戒や、シベリア出兵などもあるため、国は軍の強化を考えたのです。

徳川幕府から、明治政府に代わる時、西洋諸国の植民地とならないために、富国強兵を選択した日本ですが、そこには経済と税制のシステムの大変更と、旧来の武士だけが国防に従事するのではなく、すべての日本国民が国防に当たる防衛のシステム変更(=徴兵制)が含まれていました。

それでも明治時代は、商家の長男という名目等で、徴兵検査を逃れる道もあったのですが、1918年(大正7年)になると、それも難しくなります。

この頃の日本は、戦後不況にさらされて、企業の倒産なども起こり、国民生活は逼迫。農村の次男三男や、仕事を失う家の子や、軍に行きたい青年はともかく、徴兵検査は心配の種でした。経済的に余裕のある家は、子供に大学の研究生になる道を進めたのです。

ところが賢治は、検査に受かれば、従軍すればいいと、検査延期を拒否。軍にあこがれることはない賢治ですが、法華経に魅せられていた事から、浄土真宗を軸に物事を考える父への抵抗感が、強く出たのかもしれません。(この後、家族が顔色を変えて心配するほど、父と息子は、壮絶な宗教論争を展開します)

現実問題として、学校で学んでいる土壌調査が、実際生活の役に立たないと感じていたのもあり、化学工業に進もうと考えましたが、そこを関先生に説得されて、学校に踏み留まったのでした。

根がまじめな賢治は、稗貫郡の地質調査に励みつつ、学校の実験室で解体される動物の悲鳴に、心を痛めてしまい、この頃から数年の間、肉が食べられなくなったのです。

父が心配していた兵役検査に関しては、4月に第二乙種合格。兵役免除条項の一つ体格不良で、兵役免除となります。同年6月30日。岩手病院に於いて、肋膜炎の診断が出ました。

肋膜炎そのものによる発症はないものの、肺炎や結核。癌等にかかると発症するため、好きだった山歩きを止められます。土性調査の都合上、報告書を9月まで提出するものの、賢治は7月に花巻へ帰りました。見送りに来た河本義行に、「私の寿命は、あと15年はありません」と語ったそうです。

実家に帰えると、仲が良かった妹のトシは、この当時、東京の大学へ進学して不在でした。家業を手伝いながら半療養暮らしが始まります。そんな年の暮れ。12月26日。トシの入院を知らせる一報に、賢治は母親と共に、急いで東京へ向かいました。

入院先は、東京帝国大学医学部付属病院小石川分院。当初チフスの疑いで入院ですが、最終的に肺炎と診断されます。

1919年(大正8年)トシの体調が落ち着く1月中旬、母は先に帰省。兄妹揃って花巻の実家へ帰える3月3日まで、賢治は東京で暮らしました。童話を書き始めていた賢治は、図書館に通うだけでなく、中学時代の同窓生から、萩原朔太郎の「月に吠える」を借りて、感銘をうけます。同時に、自分の将来の仕事を考えました。

家業を継ぎたくないという本音と、都会の風にあてられたのかもしれません。 「東京へ移住して、家業の古着屋の代わりに、人造宝石の製造販売をしてはどうか?」と、父に提案しましたが、「現実的ではない」と、あっさり却下されます。

妹と共に、郷里へ帰った賢治。渋々ながら家業を手伝う生活が、再び始まりました。

世の中的には、パリ講和条約が結ばれる頃。世間的には経済的に苦しくなって行くのですが、上京中に、賢治が仕入れた「便利瓦」(布にアスファルトのようなものを塗ったもの。トタン板の代用として使用)が、よく売れて、金銭的には余裕が出たのです。

自由になる経済を得た賢治。元がオタク気質な彼は、空いている時間、趣味に走りました。音楽が好きだったことから、クラシックのレコードのコレクターとなります。とにかくレコードをよく買った賢治。行きつけの楽器店は、イギリスのレコード会社から、感謝状が贈られたそうです。地元花巻の農民と、楽団を結成したい。描いていた夢を実現するために、チェロの練習もはじめました。

「銀河鉄道の夜」に出てくるカムパネルラの名前は、リストのピアノ曲「ラ・カンパネラ」のイメージからと言われていますが、チェロを弾く体験から生まれたのが、名作「セロ弾きのゴーシュ」です。 他には浮世絵(特に春画)のコレクターでもありました。多くの作品を読み、見る、奏、聞く「オタク」的生活は、♀年齢域を飾るにふさわしく、彼の作品の養分になったと言えるでしょう。

宮沢賢治惑星history ☀年齢域24~34歳 1920(大正9)~1930(昭和5)年

1920年(大正9年)5月。盛岡高等農林学校研究生を修了。関教授は、賢治を助教授に推薦しましたが、これを辞退。実家で働きながら、短編作品をいくつか執筆してゆきます。書き物を志す者としては、恵まれた環境ですが、ここで別の問題が浮上しました。

信仰を巡って、父と仲がこじれるのです。

かつて農林学校への受験勉強に勤しんでいた頃、同時進行で「法華経」の経典を読んだ賢治は、日蓮宗に惹かれてゆきました。トシの看病で上京した際、日蓮宗僧侶田中智学の講演を聞く機会を得た賢治は、「法華経」に入信し、1920年(大正9年)には、田中智学が創設した法華宗系の在家仏教団体「国柱会」に入会したのです。

父・正次郎は浄土真宗の信仰篤く、宮沢家は長年にわたり地域貢献も行ってきた家柄でした。

日蓮宗・法華経とは、自ら進んで正道を進み、仏になってゆく教え。

浄土真宗とは、どんな人でも阿弥陀如来が必ず救ってくれる教え。

かなり簡略的に、双方の教えを表現しています。(詳しくはお調べください)

どちらも大乗仏教ですが、根本的な教えは違いました。しかも、日蓮聖人が強く否定したのが、浄土真宗。賢治は父・政次郎を改宗させようと、説得を試みたのです。こうなれば両者、相容れることは難しく、妹たちが青ざめるほど、仲がこじれたのでした。

この年前後、賢治のN☀と♀☿がある♍には、アクセルとブレーキを踏み込んだように、T♃と♄が入室しています。♃は1年で、次の星座へ移動しますが、♄は2年班ほど滞在しますから、かなり賢治の気持ちを、底の底から掘り返したと見ていいでしょう。

♋にはT♇があり、11月頃には、T♑の♂が対となります。善悪や白黒を付けたくなったり、喧嘩腰になりやすい傾向も絡み、良くも悪くも押さえつけてくるものに対しての抵抗感。崇拝している人への思慕は、強くなるのでしょう。親子対立が激烈となった、背景とみても差し支えないと思います。(強烈に揉める時は、☽や♂の位置を、確認しましょう)

1921年(大正10年)1月下旬。賢治は東京行の電車に乗り、家出を敢行。鶯谷にある国柱会館を訪ねます。「なんでもするから、滞在させてほしい」と頼み込みますが、この願いは、聞き届かれることなく、なだめられた賢治は、父の知人の家に身を寄せました。

本郷菊坂に下宿して、東大赤門近くの謄写版印刷所「文信社」に勤めた賢治は、ジャガイモに豆腐と油揚げという、質素な「食事を続けながら、法華文学」を描く傍ら、国柱会の講演会に参加。

昼間でも時間を見つけては、街頭布教に参加と、かなり熱心な信仰活動を行います。無理をしていないか。肋膜炎を心配した父は、小切手を送りますが、これを送り返す賢治。

同年4月。「国柱会」への固執を、諦めさせようと、伊勢・奈良・比叡山を、息子を伴い、歩いた政次郎ですが、賢治の心は変わりません。保坂嘉内にも、入信を即す手紙を何度か送っていますが、行き過ぎた宗教勧誘は、断裂を招く結果となりました。 ところが8月中旬。一通の電報が、頑なだった賢治を、花巻へ向かわせます。

「トシビョウキ。スグカエレ」

彼女の病気は、結核でした。妹の容態を案じた賢治は、そのまま実家に暮らし、12月には稗貫郡立稗貫農学校の先生に就任しました。

この時期雑誌「愛国婦人」12月号と1922年(大正11年)1月号の2回にわたり、「雪渡り」を掲載しています。この時受け取った原稿料が5円。(生涯唯一の原稿料と言われています)

「竜と詩人」や「注文の多い料理人」等、多くの人が効いたことのある作品が生まれたのも、この心でした。

教員としての給料は80円。下宿代として、家に20円入れたような、いないような感じで、給料のほとんどは、本代にレコード代、飲食代に、消えたようです。花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治と親しくなり、レコード鑑賞や食事を楽しんだ賢治。その傍らで、作品を書く姿に、家族もホッとしますが、それもつかの間。11月下旬。トシの容体が急変。悲しみが宮沢家を包みました。

誰よりも自分を理解してくれた妹を失った賢治は、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という詩を描く賢治。相当つらかったのでしょう。約半年ほど、作詩活動は止ました。

1923年7月樺太を旅行する機会があり、ここでも妹トシを思う詩を書いています。

1924年(大正13年)4月「春と修羅」を刊行。花巻の印刷所に持ち込み、1000部の自費出版を行いました。半分の500部を、東京で配本してもらうため、知人に頼みます。ところが知人は、500部を安価で古本市場へ卸してしまいました。

完全に大赤字。とんでもない事態に見舞われますが、別な変化も起きてきます。

ダダイストの辻潤が、読売新聞に連載していたエッセイで、「春と修羅」を紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌「日本詩人」に、宮沢賢治の独創性を褒め、若い詩人たちに「宮沢君のようなオリジナリティーを持つように」と、例に挙げたのです。中原中也は、夜店で安く出ていた「春と修羅」を買い集めて、知人に配っていたのでした。大正後期の文学界、そうそうたる人たちに、注目を浴びる賢治。

同年12月イーハトーブ童話「注文の多い料理店」を刊行。1000部作りますが、これも当時は全く売れず、賢治は父からお金を借りて、自ら200部買い取りました。

「注文の多い料理店」の挿絵を描いた菊池武雄を介して、雑誌「赤い鳥」に、創作童話の掲載してもらえるように頼みましたが、雑誌「赤い鳥」の主宰鈴木三重吉は、「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな」と、あっさりと一言。かろうじて翌年1925年(大正14年)「赤い鳥」1月月号に、「注文の多い料理店」の広告だけが掲載されます。反響はほとんどなし。

宮沢賢治=イーハトーブ童話は、今でこそ有名ですが、彼が執筆活動をしていた頃は、見向きもされなかったのです。「イーハトーブ」とは、賢治の作った造語で、彼の出身である岩手県をもじった「宮沢賢治の心の中に描いた理想郷」ともいえるのでしょう。

具体的な説明、意味づけをしていないこと。本人が仏教(特に日蓮宗)に影響を受けていることもあり、その生死観に、捉えどころのなさを感じ、受けにくかったのかもしれません。

そんな中でも、賢治の作品に魅せられたのが、詩人草野心平でした。彼の主宰する同人誌「銅鑼」に参加して、作品を発表してゆきます。

1926年(大正15年・昭和元年)3月。賢治は花巻農林学校を、自主退職。花巻市の下根子桜にある別宅で、一人暮らしを始めます。ここはトシが療養生活を送った家でもありました。卒業生や農業技術を覚えたい人に教えつつ、自らも農業を行うため、家の改装だけでなく、周囲を開墾。白菜・セロリ・トウモロコシに、アスパラガスといった野菜を栽培。ヒヤシンスやチューリップ等、花も育てたのです。

育てた野菜は、リヤカーで移動販売を試みる賢治でしたが、農村の大事な共同作業には参加せずに、金を支払うことで済ませていた事。根っから農家でない者が、自分たちよりも良い農具(特にリヤカー)を持っている事等が、地域の農民側からは「金持ち坊やの道楽」と映ったのです。

丹精込めて育てた作物や農具を、農民に盗まれるといった事もありました。普通なら、怒るところを、嫌がらせも受けそれを笑って許せるのは、信仰心があるからなのでしょう。変わることなく、尋ねてくる農民に稲作指導をはじめ、肥料の計算等、相談に乗ってゆく賢治。

地元の若い農民たちのサークル「羅須地人協会」を作り、農業の講習や、生活の向上の為の集会の他、レコード鑑賞や、 演奏会を開く等、文化活動を図ろうと試みてゆきました。

同年12月2日上京。タイプライター。セロ、オルガンを買い、エスペラント語を習った賢治は、観劇の後、高村光太郎を訪ねています。抵抗感を抱きつつ、父を頼る自分へのジレンマを感じつつも、この時の経費を、父親頼みだった賢治。

12月25日。大正天皇が崩御され、時代は昭和を迎えます。

1927年(昭和2年)2月1日「岩手日報」の夕刊に「農村文化の創造に務む/花巻の青年有志が/地人協会組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで、活動が紹介されました。

ところが、賢治の行っている活動が、社会主義活動や教育と疑われ、花巻警察の聴取を受けることになったのです。今まで何とかやってきた集会は不定期に、オーケストラも一時解散となってしまいました。

昭和恐慌が起きた翌年の1928年(昭和3年)6月。賢治は、結核療養のために、大島へ移り住んだ、胆沢郡水沢町(現・水沢市)出身の伊藤七雄を尋ねて、大島へ渡ります。この地に園芸学校を設立するため、賢治の助言を得るべく、相談をしていたのです。(1931年伊藤が死去したことから、学校は消滅)伊藤の妹チエとの見合いの意味もあったようですが、賢治にその気がないため、こちらの話は進みませんでした。

花巻に帰った賢治は、肥料相談や稲作の指導に勤しみますが、8月に高熱を出して倒れ、両側肺侵潤と診断を受けます。12月には、急性肺炎を発症。 実家で療養生活を送ることになった賢治を、翌1929年4月。東北砕石工場主の鈴木東蔵が訪ねてきます。石灰岩を粉砕して、土壌の肥料に使うために、過去2年ほど、花巻市は東北砕石工場から石灰岩を買っていました。賢治が療養生活に入って以降、肥料の計算をする人がいなくなり、石灰岩の注文が途絶えたのです。鈴木は注文が途絶えた花巻を訪れて、人々から話を聞き、その中で。宮沢賢治の存在を知り、是非、会ってみたいと、実家を訪ねたのでした。

石灰とカリ肥料を加えた合成肥料の販売計画を考えていると、鈴木から聞いた賢治は、今までよりも安い材料で、土壌改良ができるなら、農民のためになると考え、賛同します。 こうして意気投合した二人は、活発に連絡を取り合ったのでした。

宮沢賢治惑星history ♂年齢域34~37歳1930(昭和5)~1933(昭和8)年

1930年(昭和5年)2月。34歳になった賢治は、東北砕石工場の技師となって、商品の宣伝と販売を受け持ちました。製品のさらなる改造や、広告文の作成に販売と、やることは多岐にわたり、体調と相談しつつも、嬉々として働く賢治。 もちろん、作品の執筆も止まることなく続け、文語詩の政策に着手。同年8月には、「風の又三郎」が生まれます。

やりがいもあり、良い意味で緊張感もあったようですが、1931年(昭和6年)9月。商品宣伝のために上京した際、発熱し、倒れてしまいました。

この時、死を覚悟した賢治は、家族あてに遺書を書き、その後、父親に電話をかけたのです。 心配していた正次郎は、友人に頼み、すぐに賢治を花巻に呼び戻しました。 療養の日々が続く中、1931年11月。賢治は「雨二モマケズ」を手帳に書き止めます。(この歌は、没後発見されます)

可能な限り、農民からの相談にも応じますが、体調が改善してゆくことはありませんでした。闘病生活の中で描き、発表したのが「グスコープドリの伝記」です。挿絵は棟方志功でした。

1933年(昭和8年)9月21日。急性肺炎が再発し、帰らぬ人となった宮沢賢治。享年37歳。 「法華経を1000部印刷して、知人に渡してください」と言い残し、♂年齢域真っ只中だった彼は、亡くなる前日まで、肥料の相談に訪れた農民と話していたそうです。

葬儀は宮沢家の菩提寺だった安浄寺で営まれました。 彼の作品を愛した草野心平の尽力によって、 賢治の死後、多くの作品が刊行されます。

遺稿は出尽くした感がありましたが、近年、実家の土蔵から未発表の詩の草稿が発見されたのが出てきて、これが2009年4月に公表されました。「新校本 宮澤賢治全集」別巻(筑摩書房)に収録されています。 1951年(昭和26年)宮沢家は日蓮宗に改宗。墓所は花巻市の身照寺に移されました。

国柱会から、賢治の法名「真金院三不日賢善男子」が送られます。 さらに時代は進み、1982年(昭和57年)花巻市立宮沢賢治記念館が、建設されました。

♍に☀だけでなく、技術と拘りとアウトプットの☿。飾ることを喜び、天真爛漫な♀が備わっている宮沢賢治。不思議な世界主義と、自然への愛。仏教への情熱と、父親への抵抗感。弱者への献身的な思い、強者への嫌悪も絡み合う複雑な心理構造が、時に作品を難しく見せているのかもしれませんが、星の影響もあったのでしょう。天文が好きだった賢治が、星座や惑星を使って、ホロスコープを読んだら、どんな読み解きをしたでしょうか。

歴史に「もしも」はありませんが、彼は面白い占星術者になったと思います。

お話/緑川連理先生

元記事で読む
の記事をもっとみる