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【黒柳徹子】最愛のお友達、作家・脚本家の向田邦子さん

  • 2024.1.7
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第21回】作家・脚本家 向田邦子さん

「あ、きれいな人がいる」

それが、向田邦子さんを最初にお見かけしたときの印象です。ラジオの連続ドラマに出演するために、私が赤坂のTBSスタジオを訪れると、スタジオのガラスの向こうで何かを必死に書いている女性がいて、それが向田さんでした。当時からホンを書くのが遅かった向田さんは、次の回のための脚本を、スタジオのガラスの向こうで書いていたのです。当時、向田さんは30代半ばぐらい。誰かに「脚本家の向田邦子さん」と紹介されたとき、黒い髪がツヤツヤとしていて、私が思わず「髪がすごくキレイ」って呟くと、「どんなときも頭だけはね。他はともかく」と言って、向田さんは、大人っぽく微笑んだのでした。

向田さんのいう「他」というのは、たぶんお化粧のこと。確かに、ファンデーションなんて塗ってなくて、化粧水で整えた肌に、濃いめの口紅を塗っておしまい、みたいなさっぱりしたメイクに、服装も黒がベース。全体的に落ち着いた雰囲気があって、フワフワのヒラヒラが好きな私とは対照的でした。でも、自分に似合うものがわかっているのか、身につけるものすべての趣味が良くて、知的な雰囲気もあって、私はたちまち向田さんのことが大好きになったのです。

その何年か前、向田さんは、「森繁の重役読本」というTBSのラジオドラマで、当時から名俳優として名を馳せていた森繁久彌さんから、その才能を認められていました。私が向田さんと出会ったのは、まさに彼女が売れっ子になろうとしている頃。犬が出てくるドラマだった記憶はあるのですが、タイトルは覚えていません(笑)。それからしばらくして、女優の加藤治子さんに「遊びに行かない?」と誘われて、今の西麻布にある向田さんのマンションを訪ねてから、私はそこに入り浸るようになりました。

木造モルタル3階建ての2階にある「2-B」の部屋に向田さんは1人で住んでいました。「霞町マンション」なんて洒落た名前はついているけれど、建物自体は、今でいうアパートみたいな感じ。そんなに広くはない部屋には、玄関を入って右手に仕事机があって、その隣にソファーがあって、ソファーの向かいにある本棚の上では、シャム猫がいつも昼寝をしていました。同じ部屋にいるからといって何かおしゃべりをすることもなく、私が台本を読んでいる隣で、向田さんは読書をしたり、原稿を書いたり。でも、お腹がすくと向田さんはパッと頭にヘアバンドを巻いてからキッチンに立ち、冷蔵庫のありものでパパッと美味しいものを作ってくれるのです! 当時の私はまだ親元から仕事に通っていたので、向田さんの暮らしぶりは、とても自由で颯爽として見えました。

あるとき、向田さんの書いた私のセリフの中に「禍福はあざなえる縄の如し」というセリフがありました。大体の意味はわかっていたけれど、向田さんに、「これはどういう意味?」と聞くと、「人生は、いいことがあると必ず、その後によくないことがあって、つまり、幸福の縄と不幸の縄と2本で撚(よ)ってあるようなものだ、ということなんじゃない?」と。それを聞いた私は、即座に、「でも、私は、幸福の縄2本で編んである人生がいいなぁ。そういうのはないの?」って聞いたんです。そうしたら向田さんは言下に「ないの」って(笑)。

昔から、向田さんには独特の翳(かげ)がありました。決して暗いわけじゃないし、普段から、面白い話が好きで、話し出したら、もう笑ってばかりの2人なのに、ふとした瞬間に、心のどこかに孤独感とか虚無感みたいなのを抱えているような向田さんを見ることがあって……。もちろん、向田さんのほうが私よりもお姉さんだから、大人っぽいのは当たり前だけど、向田さんが飛行機事故で亡くなった後、「どうしてあのとき、向田さんは毎日家を訪問する私のことを、受け入れてくれたんだろう?」「どうして、あんなに物事を達観していたんだろう?」と考えると不思議でした。でも、向田さんの妹さんの和子さんが書いた、『向田邦子の恋文』を読んで、その理由がわかったのです。私が霞町マンションに入り浸っていた頃は、向田さんのカメラマンの恋人が亡くなった後。仕事もまだ中途半端な状態だったようですし、人生にいろいろ迷っていた時期だったのかもしれません。寺内貫太郎などを書くのは、このずっと後です。

向田さんが亡くなった1981年は、『窓ぎわのトットちゃん』が刊行された年でもあります。とても幸せな出来事があった年、私は、最愛のお友達を亡くしてしまいました。いつになく強く「禍福はあざなえる縄の如し」を実感した1年でした。

向田邦子さん
朝日新聞社/時事通信フォト

作家・脚本家

向田邦子さん

1929年生まれ。東京都世田谷区出身。父の転勤で小学校の2年間を鹿児島で過ごす。大学卒業後、映画製作会社を経て洋画雑誌の編集者となり、会社勤めをしながらシナリオライターの集団に参加。「昔の日常茶飯を記憶していて、巧みな比喩と上質のユーモアを交えて再現する」と森繁久彌に才能を認められ、ドラマ脚本家として「寺内貫太郎一家」などのヒット作を手がけ、倉本聰、山田太一とともに、「シナリオライター御三家」と呼ばれる。1980年直木賞受賞。翌年、台湾旅行中の飛行機事故により客死。享年51。作品はもとより、猫や食器や服など、好きなものだけに囲まれて暮らすライフスタイルは今も大人の女性たちの憧れ。

─ 今月の審美言 ─

「私が『髪がすごくキレイ』って呟くと、『どんなときも頭だけはね。他はともかく』と言って微笑んだのでした」

取材・文/菊地陽子

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