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家康の死後、秀忠は大坂城の堀の深さと石垣の高さを2倍にさせた…二代目の"天下人アピール"の中身

  • 2023.12.29

江戸幕府開府から13年、徳川家康が75歳で死去した後、二代将軍の秀忠はどうやって権力基盤を固めたのか。歴史学者の藤井讓治さんは「秀忠はまず家康を神として祀らせ、大軍を率いて上洛して軍事指揮権が自分にあることを誇示し、大名たちにも領地宛行状を発行して最高権力者であることを認めさせた」という――。

※本稿は、藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
75歳まで生きた家康の死因は「鯛の天ぷら」だったのか

元和2年(1616)正月7日に駿河田中辺りに鷹狩りに出かけた家康は、21日夜遅く痰たんがつまり床に伏す。家康の発病については、ポルトガルから伝わったキャラの油で揚げた鯛のテンプラを食したのが原因ともいわれているが、確かなことは分からない。家康の病状は、いったん回復するも一進一退が続き、秀忠は、年寄衆の安藤重信や土井利勝を駿府に派遣し、2月2日には自ら駿府を訪れ、その後家康の死まで駿府にとどまる。

家康の病気は2月5日ころには京都にも伝わり、後水尾天皇は諸寺社に家康の病気平癒祈願の祈薦を命じ、勅使を駿府に派遣する。病状が悪化するなか、家康を太政大臣に任じるようにとの奏請が駿府滞在の伝奏からなされ、3月21日、家康は太政大臣に任じられる。

家康の死後起きた「権現」か「明神」かという神号問題

3月も終わろうとするころ家康は、多くの大名に形見の品を頒わける。そして翌4月2日、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を枕許に呼び、死後遺体は駿河久能山に葬り、葬礼は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺だいじゅじに立てるよう命じ、最後に1周忌が過ぎたら下野日光にっこうに小堂を建てて勧請かんじょうせよ、「関八州の鎮守」となるであろうと申し渡す。そして4月17日巳みの刻(午前10時)、75年の生涯を駿府城本丸に閉じる。

元和5年の大坂の直轄化にともなう大坂城の大普請が「御代替みよがわり之の御普請ごふしん」と称されたように、徳川の「御代替り」は、天皇による将軍任官ではなく、秀忠自らが天下人であることを衆人に認めさせねばならなかった。

秀忠が、最初に取り組んだのは、家康の神号問題である。家康が死去した4月17日の夜、家康の遺体は久能山に移され、吉田よしだ神道しんとうに従って埋葬される。そして本社を「大明神だいみょうじん造」で建てるとしたように、家康は「大明神」として祀られることになっていた。

二代将軍・秀忠は家康の神号問題をどう判断したか

ところが家康死去直後、駿府城で南光坊天海と金地院崇伝との間で論争が起き、崇伝は祀る作法は神道を司る吉田家に任せ、神号は勅定によるとしたのに対し、天海は、作法は山王さんのう神道(両部習合神道)、神号も「権現ごんげん」とすべしとし、また「明神」は豊国大明神の例をみればわかるように良くないと主張する。江戸に戻った秀忠は、吉田家につながる神竜院梵舜しんりゅういんぼんしゅんに「権現」と「明神」の優劣を問いただしたうえで、家康を「権現」として祀るよう命じる。

秀忠の奏請を受けた禁裏では、公家たちが集められ、仏家が神号を云々することに異論が出るが、将軍の執奏でもあるということで「権現」と決める。名については朝廷から「日本権現」「東光権現」「東照権現」「霊威権現」の案が示され、秀忠は自ら「東照大権現」の神号を選び、それを受けて朝廷では元和2年9月に勅許する。そして、翌年3月、朝廷は正一位の贈位を決め、4月、日光に造営された社殿への仮遷宮の日に宣命使がそれを伝えた。

家康を神として祀る日光東照宮、栃木県
家康を神として祀る日光東照宮、栃木県

神とするには天皇を抜きに行うことはあり得なかったが、朝廷は、秀吉のときには「新八幡」を入れなかったのに、家康のときは将軍秀忠の意向にそって「権現」と決し、具体的な神号も秀忠の意向に従い決まる。このように、家康の神号決定は、将軍側の優位のもとに進められ、天皇の役割はその形を調えるに過ぎなかった。

家康の死の翌年、秀忠は上洛し「天下人」であることをアピール

元和3年6月、秀忠は、東国の諸大名を動員し数万の軍勢で上洛する。在府の西国大名も秀忠にあい前後して江戸を発ち京都へと向かい、領地にいた大名も多くが上洛する。大名の供奉ぐぶをともなう上洛は、軍事指揮権が秀忠にあることを示し、秀忠が「天下人」であることを諸人に認めさせる一つの手段であった。

この上洛中、秀忠は、大名・旗本・公家・寺社等に領知朱印状を一斉交付する。対象となった大名数は、確認できるものだけで外様大名31人、譜代大名13人の合計44人である。その多くは、島津家久・黒田長政・福島正則などの西国外様大名と美濃・三河・尾張・丹波・摂津などに所領を持った譜代大名であり、東国大名は対象とされなかったようである。

領知宛行状や大規模な転封で最高権力者であることを示す

同じとき、秀忠は、播磨姫路城主池田氏を因幡鳥取へ転封させる。池田氏は徳川氏との婚姻を通じて太い絆で結ばれていたが、前年に父利隆をなくしたわずか9歳の光政みつまさが当主であり、山陽道の要衝姫路を任すには荷が重すぎるとして転封が命じられたのである。

光政に替って姫路には譜代の伊勢桑名城主本多忠政ただまさ・忠刻ただとき(編集部註:千姫の再婚相手)が入り、播磨明石には信濃松本城主小笠原忠真ただざねが、播磨竜野たつのには本多政朝まさともが上総大多喜おおたきから、また伊勢桑名には伏見城代の松平定勝さだかつが、伏見には摂津高槻城主内藤信正のぶまさが入る。さらに、近江膳所ぜぜ城主戸田氏鉄うじかねが摂津尼崎へ転封となる。これらの大名はすべて譜代大名である。

こうした領知宛行状の一斉交付や大規模な転封も、秀忠が「天下人」であることを認めさせるものであった。

【図表】元和5年(1619)大阪城周辺の大名配置図
出典=『戦国乱世から太平の世へ』
旧豊臣家臣の福島正則を改易し中国・四国の支配を強化

元和5年、上洛した秀忠は、上洛5日目の6月2日、福島正則を居城広島城の無断修築の咎とがで改易する。これに先立ち秀忠から広島城修築を糺ただされた正則は、修築箇所の取壊しを約束するが、二の丸・三の丸をそのままにしたことが改めて咎められ、改易に及ぶ。

9日、諸大名に正則改易が伝えられ、ついで加藤嘉明をはじめとする中国・四国のほぼすべての大名に広島城受取が命じられる。国許では家臣が籠城する構えをみせるが、正則の嫡子忠勝から正則の指示として城の明け渡しが命じられ、城は引き渡される。

福島正則の改易は、諸大名に秀忠の「武威」を示し、また広島城受取に中国・四国の大名を動員することで秀忠の軍事指揮権が西国大大名にも及ぶことを明確化するものだった。

福島正則改易のあとに和歌山の浅野長晟ながあきらを、同時に大和郡山の水野勝成かつなりを備後福山に加封する。水野の福山転封は、譜代大名の西国進出であり、幕権の西国への伸長として注目される。和歌山には家康の十男徳川頼宣よりのぶを駿府から移し、和泉岸和田の小出こいで氏を但馬出石いずしに、そのあとに準家門かもんの松平康重やすしげを、摂津高槻には松平家信を入れる。さらに大坂の陣後大坂城主であった松平忠明を大和郡山に移し、大坂を幕府の直轄地とする。

経済力のある大坂城の周囲を徳川一門で掌握した
藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)
藤井讓治『シリーズ 日本近世史1 戦国乱世から太平の世へ』(岩波新書)

この結果、大坂城の南には和歌山の徳川氏と岸和田の松平氏、北東には高槻の松平氏、西には尼崎の戸田氏があり、大坂城を核として親藩・一門・譜代による軍事配置が完成し、畿内だけでなく西国における幕府最大の軍事拠点が形成される(図表1)。また、この大坂の直轄化は、大坂のもつ経済力を幕府が直接掌握し、それをもって西国諸大名を統制下に置こうとした点も見落とすことはできない。

9月、大坂城を訪れた秀忠は、大坂城大改造の普請役を西国大名に課し、城の堀の深さと石垣の高さとを旧の2倍とするよう指示する。イギリス平戸商館長リチャード・コックスが本国へ送った書翰しょかんのなかで秀吉の大坂城より3倍も大きく再建されることになったと報じたように、この大拡張は、豊臣氏より遥かに強大な徳川氏の力をみせることを意図したものであったろう。

現在の大阪城天守閣
現在の大阪城天守閣

藤井 讓治(ふじい・じょうじ)
京都大学名誉教授
日本史研究者。1947年、福井県生まれ。1975年、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。京都大学名誉教授。石川県立歴史博物館長。主な編著書に『江戸幕府老中制形成過程の研究』(校倉書房、1990年)、『幕藩領主の権力構造』(岩波書店、2002年)、『徳川将軍家領地宛行制の研究』(思文閣出版、2008年)、『近世初期政治史研究』(岩波書店、2022年)がある。

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