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何歳になっても嫉妬心が。内なる情熱と欲望を描く、小池真理子の短編集

  • 2023.12.25

「過ぎてみれば、全部、どうってことなかった――」

小池真理子さんの『日暮れのあと』(文藝春秋)は、生と死、そして性を描いた短編集。読んで目に浮かんだのは、ほの暗く、静かな情景だった。同時に、人間の内なる情熱と欲望をまざまざと感じた。

2018年春、夫で作家の藤田宜永(ふじた・よしなが)さんにがんが見つかり、闘病の末、2020年1月に亡くなった。本書は、2015年から2022年にかけて執筆された7作を収録。小池さんが、最愛の夫の闘病生活を支え、やがて死別する、という経験をした前後の作品ということになる。

■収録作品(抜粋)
「ミソサザイ」
武夫は小学生の頃、おばに密かな欲情を抱いていた。年月を経て、今は亡きおばを回想する。
「喪中の客」
もう鳴らないはずの古い玄関ブザーが鳴った。私はおそるおそる、「どなた?」と声をかける。
「アネモネ」
夜桜見物に行こうと話していた郁代と将太。郁代の特殊な嗜好が原因で、数時間後に事件が起こる。
「夜の庭」
25年前、急死した村井。遺体発見者は家政婦の美津子だった。村井が死に至った真相は闇に葬られ......。
「微笑み」
私は40歳の頃、美大生と交際していた。世間的には不可解な関係でも、私には特別な男だった。

亡き夫のことが知りたくて

小池さんが藤田さんの闘病と死別をつづった『月夜の森の梟(ふくろう)』(朝日新聞出版)に、「不思議なこと」というエッセイがある。自身が過去に書いた小説のワンシーンや物語の一部と、まったく同じことが現実に起こる、という不思議な経験を時折するそうだ。

本書で言うと、夫に先立たれた妻を描いた「白い月」(2015年)がそれに近いのかもしれない。多美(たみ)の夫は57歳で急死した。物静かで、さびしそうに微笑み、穏やかなふるまいと物言いをする人だった。22年間の結婚生活は円満なものだった。しかし......

「その実、本当は何を想い、何を見つめ、何を考えて生きていたのか、わからない男だった。急にいなくなってしまった彼は、その、ふいの消滅の仕方もふくめ、多美の中で謎めいた存在になっていた。」

時間だけが流れ、多美は世界から取り残されたようだった。夫は私のことをどう思っていたのだろうかと考えるうちに、彼から少しだけ聞いたことのある、大学時代の恋愛話を思い出す。30年以上も前のことで、嫉妬も邪推も無意味だが、引っかかるものがあった。

「夫の不在が身にしみた。身にしみるあまり、多美は夫のことが知りたくてたまらなくなった。」

その人の死後、生前は知らなかった一面を知ることがある。多美は夫の部屋からあるものを見つけ、彼の人生の隠れた物語を知ることになる。

日暮れのあとも

表題作「日暮れのあと」は、12月の末、田舎町に暮らす72歳の雪代のもとに、植木屋の青年がやってくるところからはじまる。

ひょんなことから青年の恋人の話になり、雪代が微笑ましく思って聞いていると、結婚はどう考えたって難しい、と青年は言った。なんでも、恋人は64歳の現役の風俗嬢なのだという。

「ふいに雪代の中で、小さな焔(ほのお)が立ち上がった。聞きたいこと、知りたいことが野火のように燃え拡がっていった。」

雪代は日々老いを感じ、死を見つめて生きている。一方で、「老婆、老嬢、高齢者という、聞き飽きてうんざりするような単純な括りの中だけで語ってほしくない。」とも思っている。一人の女として、雪代の中に、好奇心と嫉妬心が生まれた。

「正面きって身体を張り、性を売り続けてきた、老いの入り口にさしかかっている女が、思いがけず若い男の純愛を獲得した。そのことに自分は嫉妬しているのだ、そうに違いない、と雪代は哀しい気持ちで思った。」

一冊を通して過去を回想する場面が多く、照明を落としたような、薄いカーテンを引いたような、全体的に抑えたトーンに感じられた。そこに、雪代のような内に熱いものを秘めた男女が出てくるので、彼らの内面が強く印象に残った。

生、死、性、年の差恋愛、秘密......。「過ぎてみれば、全部、どうってことなかった」といつか思うかもしれない事柄の最中にいる、男女の人間らしい姿が描かれていた。

一生を一日に例えることがある。「日暮れのあと」は、老いを感じはじめ、老いと向き合うようになる年齢を表しているのかもしれない。本書の登場人物の多くが「中高年」。日暮れのあとも、一日は続いていく。「中高年」などと一括りにできない個々のドラマが、その先に待っている気がした。

■小池真理子さんプロフィール
こいけ・まりこ/1952年、東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。89年、「妻の女友達」で日本推理作家協会賞(短編部門)受賞。以後、96年『恋』で直木賞、98年『欲望』で島清恋愛文学賞、2006年『虹の彼方』で柴田錬三郎賞、12年『無花果の森』で芸術選奨文部科学大臣賞、13年『沈黙のひと』で吉川英治文学賞、21年、日本ミステリー文学大賞を受賞。近著に『神よ憐れみたまえ』『アナベル・リイ』など。夫で作家の藤田宜永氏の闘病と死別をつづったエッセイ『月夜の森の梟』も大きな反響を呼んだ。

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