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戦時中に9歳下の恋人と同棲し妊娠…笠置シヅ子が「わが生涯最良の日々」と書いた恋の悲劇的すぎる幕切れ

  • 2023.12.15

戦時中、笠置シヅ子が恋に落ちた相手は、吉本興業を一代で築いた吉本せいのひとり息子・頴右だった。笠置の評伝を書いた砂古口早苗さんは「息子を溺愛するせいは交際に反対したと伝わっている。笠置が頴右の子を身ごもってからは二人の仲は公認となったが、その後、頴右が結核で急逝し、笠置もせいも悲しみのどん底に突き落とされた」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)の一部を再編集したものです。

吉本の御曹司と出会った笠置は自分から汽車デートに誘った

笠置が吉本頴右えいすけ(1923~47)に初めて会ったのは1943年6月28日だったと、日付まで明確に覚えている。当時の笠置は地方巡業や意に染まぬ戦時増産激励などの工場慰問をしていた頃で、笠置にとって“地獄の日々”だった。そんな頃、名古屋の太陽館に出演することになり、ちょうど御園座で公演していた新国劇の辰巳柳太郎とは旧知のあいだだったので、笠置は辰巳の楽屋へ挨拶に行った。そこで笠置は、“眉目秀麗な青年”(自伝『歌う自画像』)に会う。

1943年(昭和18年)、第38回陸軍記念日の有楽町
1943年(昭和18年)、第38回陸軍記念日の有楽町。左の建物は笠置が「ジャズカルメン」に出演した日本劇場(写真=『昭和 二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』講談社、1990年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

そのときはお互い言葉を交わさなかったが、このあと笠置が太陽館に出演中、吉本興業の名古屋主任が笠置の楽屋に来て、笠置の大ファンだという“ぼんぼん”を紹介した。目をやると辰巳の楽屋で会った青年で、彼は笠置に一枚の名刺を差し出し、吉本頴右と名乗った。

ここで二人は初めて言葉を交わした。頴右は実家が大阪で明日帰るという。笠置はとっさに、「私も明日、名古屋を発って神戸の相生座へ行くから、いっしょに乗りまほか」と誘った。翌日、笠置が名古屋駅に着いて頴右を探していると、吉本興業の支配人が来て、「ぼんぼんはもう汽車に乗っています」という。

当時の写真を見ると、頴右は映画俳優のようなハンサム

笠置は荷物が多いので頴右を呼んできてほしいと頼んだ(だが理由はそれだけではなかったと私は思う。荷物を持って欲しいだけなら、ほかに誰かいただろう)。頴右はすぐにやって来て、笠置の荷物を持って一緒に列車に乗った。そして頴右は神戸まで笠置を見送り、それから大阪へ引き返した。頴右のことを、

「ひじょうに心のやさしい、フェミニストでした」

と笠置は自伝に記している。

私は笠置シヅ子の一人娘の亀井ヱイ子さん(1947~)から父・吉本頴右の写真を見せてもらったが、たしかに往年の映画俳優を思わせる実にハンサムな青年だった。SGD(松竹楽劇団)時代にほのかな恋心を抱いた益田貞信といい、この吉本穎右といい、笠置は知的でハンサムな男性が好みのタイプだったようだ。

吉本頴右は早稲田の学生で、当時20歳だった。笠置は自分を慕う9歳年下のこの青年に好感を持つ。やがて頴右が笠置の家へ遊びに来たり(当時は家に養父・音吉がいたが)、笠置が市ヶ谷にある吉本家の別宅へ遊びに行くという二人の付き合いが始まった。しばらくの間は笠置が頴右を弟扱いし、頴右も笠置に甘えるという姉弟的な仲だったが、二人が恋に落ちるのに、さほど時間はかからなかったようだ。もともと二人は互いに一目惚れだったのだ。

太平洋戦争激化の中、笠置と頴右は結ばれるが……

1944年7月、サイパン島が米軍攻撃で陥落してしまうと、国中で軍靴の足音が響き、時代は若者の未来や希望を奪っていった。この頃、頴右は結核に罹かかる。若者の命は自分たちのものではなく、国家のものだった。そして44年暮れ、二人は結ばれる。

「サイパンが落ちて、今にも本上の上空に大編隊が飛來(飛来)するとの恐怖の中で、私たちの情炎(編集部註:情念の間違いと思われる)は火と燃えさかりました」(『歌う自画像』)

頴右はこの年、喀血し、学徒動員も免除になっている。不遇な歌手と不治の病を背負った青年の恋、まるで神が引き合わせたかのような、運命的ともいえる恋だった。二人の逢瀬は切なく、そうであればあるほど恋は燃え上がっただろう。やがて二人は結婚を誓う。

この、44年暮れから46年までの二人の“愛情生活”(『歌う自画像』)は、日本人にとって最も不幸なときだったが、皮肉なことに笠置にとっては「わが生涯最良の日々」だった。歌手としては地獄の時代ではあったが、女性として生涯でたった一度の恋に落ちたのだ。笠置と頴右にとって、生きるためには必要な、必然的で運命的な恋愛だった。

頴右は結核が悪化し、母・吉本せいの元へ帰ってゆく

45年5月25日、東京大空襲。笠置は京都・花月で公演中だったので無事だったが、三軒茶屋の住まいを焼け出され、無一物となった。音吉は郷里、香川の引田に戻る。市ヶ谷の吉本邸も焼失。頴右の叔父の吉本興業常務で東京支社長・林弘高の世話で、笠置と頴右は林家の隣家のフランス人宅に年末まで仮住まいする。二人が同じ屋根の下に暮らしたのは、後にも先にもこの年の数カ月間だけだった。ここで8月15日を迎え、長い戦争が終わった。

47年1月、笠置は世田谷・松陰神社前に一軒家を借りて引っ越し、マネジャーの山内義富一家と住む。一方、恋人である吉本頴右の肺結核は次第に悪化していき、彼は西宮市の自宅へ戻って療養に専念することになる。1月14日、笠置は東京駅で彼を見送ったが、これが頴右との今生の別れとなった。

妊娠5カ月の笠置は服部良一を始め周囲をハラハラさせながら、1月29日、笠置主演の日劇「ジャズカルメン」初日の幕が開いた。当時の雑誌には、笠置の「ハラボテのカルメン」という記事もあって驚く。実はこの「ジャズカルメン」で、笠置は引退するつもりだった。結婚を誓った頴右との約束だったのだ。

妊娠5カ月で舞台に立った笠置、頴右は出産前に急逝する

やがて出産が近づき、当時の芝区葦手町にあった桜井病院に入院していた笠置の元へ、5月19日午前10時20分、吉本頴右が急逝したとの知らせが入る。当時は奔馬ほんば性結核と呼ばれていた“不治の病”が、24歳の命を奪った。彼の死は、二人の女性を悲しみと失意のどん底に突き落とした。来月早々に出産を控えた身重の婚約者と、最愛の一人息子に将来を託していた母、大阪の吉本興業社長・吉本せい(1889~1950)である。

吉本せい
吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

兵庫県明石生まれの林せいが、大阪上町の荒物問屋・吉本吉兵衛(本名・吉次郎、通称・泰三)に嫁いだのは1910(明治43)年。家業そっちのけで寄席道楽に明け暮れていたという吉兵衛が、北区天満にあった寄席「第二文藝館」を買収して妻のせいとともに寄席経営に乗り出したのが1912年4月1日(現在の吉本興業創業日)。二人は小寄席の端席を次々と買収し、「花と咲くか月と翳るかすべてを賭けて」との思いから「花月」と名づけ、大正末には大阪だけで二十余りの寄席を経営し、東京へも進出する。

吉本興業を一代で築き上げた吉本せいは息子の交際に反対

経営手腕は吉兵衛よりせいのほうが上手うわてだったようで、彼女は今日まで“伝説の女興行師”と語り継がれる。ちなみに1958年、山崎豊子が吉本せいをモデルに小説『花のれん』を書き、第39回直木賞を受賞している。翌年には東宝で映画化され、主演の淡島千影(吉兵衛役は森繁久弥)は大阪女のたくましさとせつなさを好演した。

砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)(潮文庫でも発売中)
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)(潮文庫でも発売中)

せい夫婦は2男6女をもうけたが、長男以下5人の子どもが次々と夭逝した上に、次男(頴右)が生まれた翌年の1924年、吉兵衛が37歳の男盛りに急逝してしまう。せいは34歳の若さで未亡人になったのである。やがて昭和に入り、関西発祥の松竹と東宝が二大勢力となって興行が発展する中にせいは堂々と割って入り、業績を伸ばしていく。華やかな舞台の裏では熾烈しれつな競争が繰り広げられるのだが、せいは女の細腕で大阪女の“ど根性”を発揮した。そんな彼女が一人息子の頴右をいかに溺愛し、自分の後継者として期待していたかは理解できないことではない。

1943年頃に出会った頴右と笠置シヅ子が、翌年には結婚を約束するまでの仲になったことはせいの耳にも入る。このとき、せいが二人の結婚に猛反対したという話はおそらく事実だろう。頴右はまだ学生で、おまけに笠置は9歳も年上である。OSSKやSGDで評判の歌姫だったとはいえ、笠置シヅ子もまた、かつてせいが日々面倒を見、育て、ときには札束で引き抜き合戦を繰り広げてきた同じ芸人であり、やり手興行師から見れば“商品”なのだ。

せいは息子を溺愛していたが、笠置が妊娠してからは軟化

また息子を溺愛する母親としてみれば嫁が誰であろうと、息子の勝手な恋愛結婚をすんなり許すとは思えない。このことは当時もマスコミの格好のネタになったようで、後々まで「ブギの女王と吉本興業御曹司の許されぬ結婚」と喧伝された。だが実際は、せいがかたくなに反対していたわけではなく、せいの心も徐々に軟化し、とくに笠置が頴右の子を身ごもってからは二人の仲は周囲も公認だった。

せいの実弟で吉本興業常務・東京支社長の林弘高が笠置のもとへ“姉の使者”となり、ことは円満な方向へ進んでいたようだ。せいにとっては孫の誕生である。服部良一も自伝で「事態は好転していた」と証言している。笠置自身も、出産後は頴右との家庭を持つことを夢見て芸能界から引退することを決めていた。日劇「ジャズカルメン」は笠置にとって最後の舞台、引退公演になるはずだった。だからもしも頴右が生きていれば、“ブギの女王・笠置シヅ子”は誕生しなかったことになる。

頴右の死が引退するつもりだった笠置を「ブギの女王」にした

しかし皮肉なことに、せいは孫の誕生の直前に突如、一人息子を失った。一代で吉本王国を築いた“女傑”“女太閤”も、この事実には打ちのめされた。一方、最愛の婚約者を失った笠置はいとし子が授かり、悲しみの中で再び舞台に立つことを決心する。

一躍スターとなった笠置は多忙なスケジュールに追われるが、幼いヱイ子をつれて大阪で入院中のせいのもとに病気見舞いに訪れている。笠置が初めて吉本せいに会ったのは、頴右が亡くなった4カ月後の9月、大阪の梅田劇場に出演したときだった。西宮の甲子園に近い吉本宅へまだ生まれたばかりのヱイ子をつれて、せいの病気見舞いに行った。翌年の頴右の一周忌にも訪れ、頴右の墓のある服部墓地にお参りしている。

だが1950年3月14日、吉本せいは回復することなく息子のもとへ逝った。享年60歳。吉本興業はせいの実弟・林正之助が社長になり、吉本家から林家に実権が移る。

砂古口 早苗(さこぐち・さなえ)
ノンフィクション作家
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など

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