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あの「国家安康」の銘で家康の名が入ったのは偶然ではない…大坂冬の陣の契機となった方広寺鐘銘事件の真相

  • 2023.12.3

大坂冬の陣が勃発した1614年、徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲り73歳になっていた。国際日本文化研究センターの呉座勇一さんは「発端は豊臣家が京都に建立した方広寺大仏殿の鐘に『国家安康君臣豊楽』と家康の諱を分割した銘文を刻んだこと。淀殿や秀頼は否定したが、徳川側が指摘したとおり、呪詛の意味はあったと考えられている」という――。

※本稿は、呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

方広寺3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘
方広寺3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘(写真=明治時代、ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵/Images from LACMA uploaded by Fæ/Wikimedia Commons)
「国家安康君臣豊楽」という方広寺大仏殿の鐘銘が問題に

大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件については、近年見直しが進んでいる。一般的なイメージとしては、長大な銘文の中からわざわざ「家」「康」「豊臣」を拾い出してきて、意図的に邪推、曲解したというものだろう。ところが、これらの文字は偶然入ったわけではない。銘文を考えた東福寺僧の清韓せいかんは弁明書で「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也。分けて申す事は昔も今も縁語に引きて申し候事多く御座候」と、「家康」の名を意図的に織り込んだことを告白している。

諮問を受けた五山僧たちも「銘の中に大御所様の諱いみな(実名)書かるるの儀いかがわしく存じ候……(中略)……五山に於いて、その人の儀を書き申し候に、諱相除け、書き申さず候法度御座候」など、全員が諱を書くこと、あるいは諱を分割することを批判している。

この五山僧たちの批判については、「第一に家康の意を迎え、第二に清韓長老に対する嫉妬からしても、もとより注文通りの批判を与うべきは、言うまでもない」(徳富蘇峰)など、家康に忖度そんたくしたと古くから考えられてきた。

けれども、当時の社会において諱は当人と密接不可分という考え方があった。拙著『応仁の乱』でも紹介したように、現実に相手の諱を利用して呪詛する「名字を籠める」という作法も存在した。目下の者が目上の者を(たとえば「家康様」などと)諱で呼ぶことが禁じられていたのは、このためである。

家康お抱えの儒学者・林羅山の見解はさすがに“こじつけ”

確かに、家康お抱えの儒学者である林羅山の見解は、荒唐無稽でこじつけ以外の何物でもない。羅山は「右僕射うぼくや源朝臣みなもとのあそん(右僕射は右大臣の唐名。前右大臣の徳川家康を指す)」の句は、源朝臣(家康)を射るという呪詛だと主張した。さすがにこれは強引で、徳富蘇峰が「曲学世に阿る」と非難したのも無理はない。だが、逆に言えば、五山僧たちは呪詛・調伏の意味があると決めつけた羅山とは一線を画しており、諱を分割すべきでないという常識的見解を表明したにすぎないのである。

歴史学者の笠谷和比古氏は「慶祝の意に出たものであるならば、あらかじめ家康の諱を織り込むことについて何がしか事前に断っておくか、幕府側に草案の披閲ひえつ(文書を開いて見ること)を受けておくべき筋合いのものである」と指摘している。徳川方が鐘銘の問題を必要以上に騒ぎ立て政治的に利用したことは否定できないが、豊臣方に落ち度があったことは事実だ。徳川方のこじつけ、難癖とは言えない。

家康が鐘事件を利用して豊臣を追い詰めたとされてきたが…

拙著『戦国武将、虚像と実像』で指摘したように、江戸時代に徳川家の側から同事件を叙述した歴史書などが、片桐且元を取り込むなど豊臣家の分断を図った家康の権謀術数を称賛したため(江戸時代の価値観では大坂の陣は家康による謀反鎮圧であり、正当な軍事行動である)、近代以降、主家の豊臣家を陰謀で追いつめた徳川方の横暴として実際以上に印象づけられることになった。

後世の史料の脚色を排して、『駿府記』など良質の史料に基づく限り、家康の同事件への対応はことさらに豊臣家を挑発したものとは言えず、常識的な政治交渉の範疇に収まると評価できよう。

通説では大坂冬の陣において、真田信繁・後藤基次らは宇治・勢多進出作戦を提案したが、豊臣家首脳部の反対により籠城策に決した、とされる。けれども、大坂冬の陣での宇治・勢多進出作戦の初出史料は、現在確認されている範囲では実録『難波戦記』である。史実とはみなしがたい。

徳川家康のブレーンである金地院崇伝が細川忠興ただおきに送った書状には「大坂城中には有楽(織田有楽斎うらくさい)・大野修理(治長)・津田左門(織田頼長よりなが、有楽斎の子)、かようの衆取持にて、牢人衆引き籠もり、籠城の用意と相聞え候」(『本光国師ほんこうこくし日記』慶長19年10月19日条)とある。大坂方は最初から籠城の準備を進めている、というのが徳川家の認識だった。

現在の大阪城天守閣
現在の大阪城天守閣
豊臣には籠城策しかなく、真田信繁も一武将にすぎなかった

真田信繁が九度山を出たのは10月9日であり(「蓮華定院れんげじょういん覚書」など)、大坂入城は10日頃と考えられる。徳川家康は10月6日には本多忠政ら近畿の大名に出陣を命じており、忠政らは16日頃には伏見に着陣している(「譜牒餘録」など)。

慶長5年(1600)七月、挙兵した石田三成ら西軍数万は、徳川家康の家臣である鳥居元忠ら2000人が籠もる伏見城を攻撃したが、10日以上かけてようやく攻略している。大坂冬の陣当時、伏見には家康が置いた城代(松平定勝)がおり、本多忠政らの着陣前に真田信繁らが伏見城を落とすだけでも至難の業だろう。宇治・勢多進出案は時間的余裕を考えると現実的ではなく、豊臣家としては大坂城の防備強化に専念するしかなかったというのが実情ではないだろうか。

この挿話は、真田幸村を軍師と位置づけるために生み出されたものと思われる。現実の真田信繁は現場指揮官の一人にすぎなかった。幸村を軍師にするには、大坂方の戦略・作戦を立案する場面を作る必要があったのである。

冬の陣後の和睦は大坂城を裸城にするのが目的だったか

徳富蘇峰が「和睦のための和睦でなく、戦争のための和睦」と評したように、徳川家康が大坂冬の陣で講和したのは大坂城を裸城にして攻めやすくするのが目的だった、と古くから考えられてきた。しかし、和睦交渉を細かく見ていくと、必ずしも謀略とは言えない。

慶長19年12月8日、大坂方の織田有楽斎・大野治長が徳川家康に対し書状を送り、大坂城の牢人に寛大な処置を願うと共に、秀頼の国替えについて、どの国を想定しているのか内意を尋ねた(『駿府記』)。ここから、家康が和睦交渉において、当初、牢人の処罰・秀頼の国替えを条件として提示していたことが分かる。

家康は有楽斎らの問い合わせに対し、牢人を処罰しないことを約束すると共に、秀頼を大和国へ転封させるつもりだと伝えたという(『大坂御陣覚書』)。その後、家康は豊臣方に和睦条件として、淀殿を江戸に人質として差し出すか大坂城の堀埋め立てを要求した(『大坂冬陣記』)。

大坂方は「淀殿を人質として出す代わりに加増を」と強気だった

徳川家康は大坂城の堅牢さを十分承知していたため、大きな犠牲を伴う力攻めには当初から否定的だった。家康は主戦論の秀忠を抑えつつ、大坂方と講和交渉を進めていた。しかし、真田丸の戦いの勝利で勢いづいた大坂方が「淀殿が人質となって江戸に下るかわりに、籠城している牢人衆に知行を与えるため加増してほしい」と強気の要求をつきつけて家康が反発したため(『駿府記』)、交渉はいったん暗礁に乗り上げた。

ところが、数日後には、一転して和睦の気運が高まった。家康は「石火矢いしびや」と呼ばれる大砲をオランダ・イギリスから購入し、本丸や天守を砲撃した。大砲の弾が淀殿の御座所に直撃したため、徹底抗戦を説いていた淀殿は和睦に傾いた(『難波戦記』『天元実記』)。12月18日・19日の両日、関東方と大坂方の和平会談が行われた。大坂城の二の丸・三の丸を破却すれば、淀殿が人質として江戸に下る必要はない、との結論に至った。

淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

淀殿が人質になる代わりに、豊臣家首脳部の織田有楽斎・大野治長がそれぞれ息子を人質として提出することになった。加えて、大坂方の将兵については、豊臣譜代衆・新参牢人衆を問わず、お咎めなし、と決した(以上、家康側近の林羅山が記したとされる『大坂冬陣記』による)。20日から22日にかけて、大坂方・関東方の間で使者が行き来し、豊臣秀頼と徳川家康・秀忠が誓詞(起請文)を交換し、和睦が正式に成立した(「土佐山内家文書」)。

和睦が成立した翌日の12月23日、徳川家康は堀の埋め立て工事を命じた。関東方は数日のうちに惣堀(惣構の堀、外堀)を埋め立てた。それに留まらず、関東方は二の丸・三の丸の破却に取り掛かった。

家康は正当な交渉で秀頼に大坂城を明け渡すよう要求した

以上の経緯から分かるように、家康は甘言によって大坂方を騙だますようなことはしていない。家康は徳川家の面子が保てる形の和睦を望んでいた。後で反故にするつもりなら大幅に譲歩して妥結すれば良いのにそうしなかったのは、和睦が成立したときには遵守する意思を持っていたからだろう。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

20日に家康が秀頼に与えた誓詞では、牢人の罪は問わない、秀頼の身の安全と知行を保証する、淀殿を人質として江戸に差し出す必要はない、大坂城を秀頼が明け渡すならば望み次第の国を与える、といった条項が定められている(『大坂冬陣記』)。一方、秀頼も22日に家康に誓詞を提出し、今後は家康・秀忠に謀反の心を持たないこと、噂に惑わされず不審なことがあれば家康に直接問い合わせることを誓っている(『大坂冬陣記』)。

この誓詞の内容だけを見ると、豊臣家にかなり有利な和睦と言えるが、土佐藩山内家に残る覚書では、大坂城惣堀を埋めること、牢人を召し放つことも秀頼側が約束したという。徳川家から見れば、豊臣家の今回の挙兵は「謀反」に他ならず、豊臣家が何も失わずに現状維持ということになれば、天下を治める徳川家の威信に関わる。

実際、『大坂御陣覚書』によれば、和平会談で家康側は「大御所様(家康)自ら出馬して、何も得ずに和睦しては、武門の名誉に傷がつく」と主張している。また、反乱の再発防止のためにも、大坂城の無力化と牢人衆の追放は必須だった。

豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、滅ぼす必要はなかった

これらを踏まえると、和睦内容のうち、直ちに履行すべき事項は、徳川家による秀頼の地位確認と牢人の赦免、関東方・大坂方双方による大坂城の堀の埋め立てであったと言えよう。秀頼の転封や秀頼あるいは淀殿の江戸在住を家康が強制しなかったのは、豊臣家の面目への配慮であり、最終的には豊臣家に受け入れさせようと考えていたと推測される。

豊臣家の武力では、牢人衆の追放という条項を履行するのは困難である。となると、代わりに秀頼の転封、もしくは秀頼・淀殿いずれかの在江戸を受け入れるほかなくなる。この条件が実現すれば、豊臣家が家康に臣従したことが明確になる。片桐且元の三箇条の提案からもうかがえるように、大坂の陣は、豊臣家を臣従させるために家康が起こした戦争である。逆に言えば、豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、豊臣家を無理に滅ぼす必要は家康にはなかったのである。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教
国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。

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