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「酷い目ばかりに遭った。それでも...」冷戦下、ソ連からラジオ放送を続けた日本人たち

  • 2023.11.30
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東西冷戦時代、ソ連のモスクワ放送には「日本課」があった。かつてそこにいた日本人たちは、何を思いながら日本語のラジオで"ソ連"を伝え続けていたのだろうか。

毎日新聞記者・青島顕さんが当時を知る人たちを追った、第21回開高健ノンフィクション賞受賞作『MOCT(モスト) 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社)が、2023年11月24日に発売された。タイトルの「MOCT」は、ロシア語で「橋」「架け橋」を意味する。

青島さんが初めてモスクワ放送を聴いたのは1983年のこと。9月にソ連領空で、ニューヨーク発ソウル行きの旅客機がソ連軍のミサイルに撃ち落され、日本人を含む乗客・乗員269人全員が死亡するという事件が起きた、しばらく後のことだった。ダイヤルを回していて偶然見つけたそのニュースでは、韓国を「南朝鮮」、撃墜を「妨害」という表現で説明していたという。

ソ連の日本語放送が開始されたのは1942年。ソ連崩壊後にロシア国営へ、そして2014年にはインターネット放送へと引き継がれ、2017年まで存在した。

青島さんは、当時「日本課」を支えた人やゆかりのある人を訪ねて、謎多き放送局がどのような場所だったのかを取材した。「東側ではご法度のビートルズを流した元民放アルバイトの男」「戦時中、雪の樺太国境を恋人と越境した名女優」「『とにかく酷い目にばかり遭った。それでもロシアを信じたい』と語るアナウンサー」などさまざまな人物が登場する。

彼らが志したのは報道かプロパガンダ(政治的宣伝)か、ソ連と日本にMOCT(架け橋)を築くことだったのか。ソ連という国と真正面から向き合った人々の物語。

体制が違うその国に行けば、自分らしく生きられる。もしかしたら、日本をよりよく変えることができるかもしれない。かつて、そんな夢や希望を抱いた日本人がいたことを知った。実際にそこで生きていくことは容易なことではなかった。一度や二度でなく、「こんなはずではなかった」と思ったに違いない。それでも、心の奥には「志」があった。
(「プロローグ」より)

【目次】
プロローグ
モスクワ放送を支えた人々
第1章「つまらない放送」への挑戦
第2章 30年の夢探しの旅
第3章 偽名と亡命と
第4章 「日本人」のままで
第5章 迷いの中を
第6章 望郷と、ねがいと
第7章 伝説の学校「M」
第8章 その後の2人
番外 ラジオが孤独から救ってくれた
エピローグ
主要参考文献
モスクワ放送日本語放送の歴史
「1983年4月の番組表」

■青島顕さんプロフィール
あおしま・けん/1966年静岡市生まれ。小学生時代に東京都へ。91年に早稲田大学法学部を卒業し、毎日新聞社に入社。西部本社整理部、佐賀、福岡、八王子、東京社会部、水戸、内部監査室委員、社会部編集委員、立川などでの勤務を経て、現在東京社会部記者。共著書に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』。本書が初の単著となる。

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