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太平洋戦争を終戦に持ち込んだ男 鈴木貫太郎

  • 2023.11.27

近衛文麿→東条英機とくれば、ここはやはり、鈴木貫太郎でしょう! ということで、今回の星読みエッセイは、鈴木貫太郎です。ご本人と、奥様のたかさんホロスコープを別々に載せ、二二六事件とポツダム宣言受諾前後に触れました。

鈴木貫太郎ネイタルデーター

1868年1月18日 現・大阪府堺市中区伏見。出生時間不明

☀星座 ♑ 27°21

☽星座 ♏ 13°54 (月のふり幅 00:00 ♏7°37~23:59♏20°07)

第1室 本人の部屋 ♑ ♂・☿・☀

第2室 金銭所有の部屋 ♒ ♀

第3室 幼年期の部屋 ♓ ♃

第4室 家庭の部屋 ♈ ♆

第5室 嗜好の部屋 ♉ ♇

第6室 健康勤務の部屋 ♊

第7室 契約の部屋 ♋ ♅R

第8室 授受の部屋 ♌

第9室 精神の部屋 ♍ ☊

第10室 社会の部屋 ♎

第11室 友人希望の部屋 ♏ ☽

第12室 障害溶解の部屋 ♐ ♄R

ステリウムとなっている♑。☀星座でもあります。常識的な人でありつつ、断崖絶壁を、トツトツと駆け上る山羊の如くな、チャレンジャー。誰が見ても無理と思うような状況を、実務能力と忍耐力で克服してゆく性質。社会に与える影響が大きな人なのでしょう。

♓♃と♋♅R。♏の☽は、水のトリンを形成。☽は、振り幅こそあれ、終日♏。トリンも組んだまま。♃は、対岸精神の部屋にある☊と、オポジション。☽と第5室♉♇も、オポジション。公共的なことに携わり、いささか特異な才と人生を歩みそうです。

第2室♒の♀は、質が良く、人やものとのめぐり合わせがユニークで、芸術や美的な趣味が、収入に結び付く傾向もありそうです。

ブレーキ役の♄Rは、第12室♐にあり、人の引き立てがある半面、トラブルに巻き込まれる可能性も含んでいます。

鈴木貫太郎略年表

(ウィキ・その他資料参照)

1868年1月18日(慶応3年12月24日)和泉国大鳥郡伏尾新田(現・大阪府堺市中区伏見)関宿藩士代官鈴木由哲・きよ夫妻の長男として生まれる。関宿藩は下総の国(現・千葉県野田市)にあり、父が藩の飛び地に勤務。

1871年(明治4年)本籍地である千葉県東葛郡関宿町(現・野田市)に転居。

1884年(明治17年)攻玉社(現・攻玉社高校)卒業・海軍兵学校へ入学(14期生)。

1887年(明治20年)海軍兵学校卒業。

1888年(明治21年)旧会津藩士大沼親誠の娘、とよと結婚。

1892年(明治25年)12月21日海軍大尉。

1895年(明治28年)日清戦争へ従軍。

1897年(明治30年)海軍大学校に入学。砲術学生・海軍少佐。

1901年(明治34年)7月29日ドイツ駐在。

1903年(明治36年)9月海軍中佐。12月30日ドイツから帰国。

1904年(明治37年)日露戦争。駆逐艦指令として従軍。翌年迄。

1912年(明治45/大正元年)妻とよ死去(病死)享年33歳。

1913年(大正2年)5月海軍少将昇進、8月第二艦隊司令官、12月海軍省人事局長。

1914年(大正3年)海軍次官・シーメンス事件の事後処理を担当。

1915年(大正4年)菊池大麓の推薦で、足立たかと再婚。

1917年(大正6年)海軍中将昇進・練習艦隊司令官。

1923年(大正12年)8月3日海軍大将昇進。

1929年(昭和4年)1月予備役編入。侍従長就任。2月枢密顧問官を兼任。

1936年(昭和11年)2月26日二・二六事件で襲撃を受け、重傷を負う。

1940年(昭和15年)6月枢密院副議長就任。

1945年(昭和21年)4月7日 内閣総理大臣就任。8月14日ポツダム宣言受諾を御前会議で決定。宮城事件に遭う。8月15日玉音放送の後、内閣総辞職。

1946年(昭和21年)6月枢密院議長を辞職。

1948年(昭和23年)4月17日 本籍地の千葉県東葛飾郡関宿町で死去。満80歳。

鈴木貫太郎惑星history ☽年齢域 0~7歳 1868年~1875年(慶応3年~明治8年)

1868年1月18日。(慶応3年12月24日)鈴木貫太郎は 和泉国大鳥郡伏尾新田(現・大阪府堺市中区伏見)で、譜代大名関宿藩家老鈴木由哲・きよ夫妻の長男として、生まれます。 兄弟数は8人。(本編では、フルネームもしくは、貫太郎で表記いたします)

関宿藩(現・千葉県野田市)は、利根川と江戸川の分岐点に当たる下総の国で、徳川幕府重要拠点の一つでした。1688年(元禄元年)。徳川綱吉の側用人、牧野成貞が城主とる際に、常陸国内・和泉国を、とび地として吸収。以降、行政は関宿藩の藩士が担います。

このような事情の下、先宿藩家老を務める鈴木由哲は、和泉国に勤務。赴任中に貫太郎の誕生となったのでした。由哲は鈴木家の養子で、旧姓は倉持家。代々徳川家に仕えた重臣の家柄です。

大政奉還→龍馬暗殺→王政復古の大号令と、幕末真っ只中な慶応3年に生まれた貫太郎。10日後には、鳥羽伏見の戦いが始まり、父は、関宿藩の砲術指南として、旧幕府軍に従軍しました。

0~7歳までの☽年齢域は、人生初段階の意識構築期ですが、貫太郎、3才の頃、馬に蹴られて大けがを負ったそうです。奇蹟的な生還の後、藩士であった父は、下級官吏と身分が変わり、1871年(明治4年)本籍地である千葉県東葛飾郡関宿に帰りました。

☿年齢域 7~15歳 1875年~1883年(明治8年~明治16年)

貫太郎の☿年齢域は、文明開化著しい明治初頭と重なります。8歳の時、川でおぼれて再度死にかけますが、生還。その後は、グングン成長していきました。

1877年(明治10年)西南戦争で世の中はざわつきますが、鈴木家は、父の仕事の関係で、群馬県前橋市に転居。10歳になった貫太郎は、第一番小学厩橋小学校に通い、その後は前橋中学校へと通います。その後は、☿年齢域が終わる1883年(明治16年)。当時は海軍の予備校と言われていた攻玉社(現・攻玉社中学校・高等学校。品川区)へ進学します。

♀年齢域 15~24歳 1883年~1892年(明治16年~明治25年)

幕府側に就いた者と、その家族が、出世街道を進むのが難しい明治時代。貫太郎少年は、海外に惹かれる気持ちから、1884年(明治17年)海軍兵学校に入学しました。(第14期生)

1885年(明治18年)6月には、少尉に任命され、軍艦高尾の乗組員となります。高尾の艦長は、後に海軍大臣・総理大臣となる薩摩閥の山本権兵衛(当時少佐)。

亡き西郷隆盛を師と仰ぐ、山本に、貫太郎は多くの事を学びました。その後、幾つかの軍艦の乗組員を経験しますが、陸の長州・海の薩摩と言われるほど、「薩長出身者」が要職についている日本軍。薩摩閥に配慮する生き方も求められますが、♀年齢期が、♒な鈴木貫太郎。気遣いも学びながら、フレンドリーに過ごしたかもしれません。

1887年(明治20年)に、46人中13番の成績で、海軍兵学校を卒業。 1888年(明治21年)には、旧会津士大沼親誠の次女とよと結婚します。とよの姉は、出羽重人(戊辰戦争の時、白虎隊として戦った経歴のある日本海軍軍人)の妻となっているので、海軍繋がりの婚姻だったのでしょう。

☀年齢域 24~34歳 1892年~1902年(明治25年~明治35年)

太陽年齢域が始まる1892年(明治25年)。12月には大尉に昇進します。社会的には、日本と清国の関係が、冷え込こんで行き、2年後の1894年(明治27年)7月25日。朝鮮半島の仁川近く、豊島沖で始まった海戦をきっかけに、日清戦争が起きたのです。(日露戦争への経緯等は、山本権兵衛や東郷平八郎等で、紹介しています。ご参照ください)

第三水雷艇隊に所属していた鈴木貫太郎は、1895年(明治28年)1月20日。威海衛の戦に、第五型水雷艇第6号艇艇長として参加しました。ここで、鈴木貫太郎、世界最大の戦艦鎮遠を前に、海軍史上初、夜襲を決行します。

極寒のため、魚雷こそ不発に終わりますが、湾岸を塞ぐ堅牢な防材の破壊や、偵察等で功績を残し、金鵄勲章が与えられました。

日清戦争後は、台湾平定のため、海門の航海長として乗船。その後は比叡、金剛といった船に乗り継ぎ、1897年(明治30年)海軍幹部を育成する海軍大学へ入学し、砲術を学びます。甲種学生として、1年後に卒業。薩摩閥ではないものの、順風な出世コースに乗ることができました。これそこ、♑☀年齢域。しかも☿を伴う☀なので、ステージやグレードを上げてゆくのがわかります。

1889年(明治32年)。海軍務局(中央勤務)に勤務。この当時ロシアとの戦争を想定した海軍は、山本権兵衛海軍大臣と、斎藤実海軍次官を軸に、海軍改革を断行します。六六艦隊計画を進める一方で、魚雷は速度を落とし航続距離を伸ばした「マカロフ式魚雷」を開発。海軍司令部は、魚雷の総入れ替えを検討します。

これを知った貫太郎は、「速度が遅ければ、敵艦の回避が容易になる」と、日清戦争の実戦経験から、猛反対。そのおかげで、従来型魚雷が、半分ほど残ることになりました。

1901年(明治34年)7月。太陽年齢域を飾るように、ドイツへの駐在が決まると、貫太郎は、ロシアとの開戦を見据え、ロシア視察も行います。衰退著しい、ロシア王朝の現状、街の様子を観ている間も、六六艦隊計画は進みました。

♂年齢域 34~45歳 1902年~1913年(明治35年~大正2年)

1904年(明治37年)イタリアに発注した装甲巡洋艦「春日」に、回航委員長として、鈴木貫太郎は乗船します。日本に近づく同年2月8日。旅順口攻撃が起き、日露戦争が勃発しました。日本に到着した貫太郎は、「春日」の副長に任命され、8月10日大日本帝国海軍連合艦隊と、ロシアの旅順艦隊による黄海戦に参戦します。

第一艦隊兼連合艦隊司令長官、東郷平八郎の指揮の下、ロシアの旅順艦隊に痛手を負わせた日本海軍。これによって、ロシアはバルト海を抑えるバルチック艦隊を、極東のウラジオストクに派遣を決定したのでした。

1905年(明治38年)1月第四駆逐艦隊司令に転じた貫太郎は、バルチック艦隊が日本近海に迫った際、魚雷を命中させるため、持論の高速近距離射の実現に向けて、部下たちを猛特訓。その練習量がすさまじかったことから、「鬼の貫太郎」「鬼の艦長」「鬼貫」と呼ばれました。5月27日対馬沖で、日本の連合艦隊と、バルチック艦隊が対峙。いざ本番を迎えた貫太郎と部下たちは、敵の旗艦クニャージ・スボーロフを沈めた他、夜襲を仕掛け、魚雷で敵艦ナヴァリンと他戦艦を撃破。軍令部が全入れ替えを考えたマカロフ式魚雷よりも、鈴木貫太郎考案の高速近距離射法が、効果を発揮。日露戦争に貢献しました。

連合艦隊参謀長の秋山真之中佐から、「君の所だけ二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」と、事後相談。これを快諾する辺りは、人柄の良さですね。(日露戦争からポーツマス条約までは、東郷平八郎その他の回で、触れています。ご参照ください)

日本とロシアは、アメリカの仲裁により、「ポーツマス条約」を締結し、戦争の幕は閉じました。陸戦・海戦ともロシア帝国に、勝利した日本は、世界から賞賛されます。しかし、勝ち戦なのに、ポーツマス条約には、敗戦国からの賠償金は、含まれていませんでした。賠償金が取れると思ったからこそ、人も物も出し、重税にも耐えた日本国民は、国への憎悪を募らせ、日比谷焼き討ち事件を引き起こし、国内は荒れてゆきます。

日本政府は南満州鉄道株式会社の経営権を巡って、アメリカと意思の疎通を図ることができず、関係を冷やしていきました。

この冷却によって、新たな仮想敵国を、アメリカに定めるに至った日本海軍は、1907年(明治40年)戦艦8隻と、巡洋戦艦8隻を中核とした「八八艦隊計画」が浮上。 これまでの「六六艦隊計画」より、予算も上がり、当時の日本の歳出15億円に対して、軍艦の維持だけで6億の費用を要することになります。

同年9月鈴木貫太郎は、大佐に昇進。海軍大学の教官を務め、1910年(明治43年)7月には、海軍水雷学校長に就任して、水雷術の発展にも貢献。金鵄勲章を賜りました。 人生の充実期とも言えますが、明治時代の終わりと共に、♂年齢域の結果を迎える1912年(大正元年)9月。妻のとよが、幼い子たちを残して、33歳という若さで病死するという、悲しい出来事にも見舞われたのです。

♃年齢域 45~57歳 1913年~1925年(大正2年~大正14年)

貫太郎の♃年齢域は、護憲運動とモダンが息づく大正時代と共に進みます。

1913年(大正2年)2月。山本権兵衛海軍大将が、総理大臣となり、斎藤実大将が、海軍大臣を務める内閣が発足。同年11月には、斎藤の推薦で、鈴木貫太郎は、海軍省人事局長に就任。海軍の人事を司る立場を与えられました。が、1914年(大正3年)ドイツのシーメンス商会と、日本海軍高官の贈賄が発覚。この汚職と、山本は無関係でしたが、デモクラシーがみなぎる時代。メディアと国民の風当りは強く、「シーメンス事件」によって、4月に内閣を総辞職したのです。この状況で、八八艦隊の追加予算分を、増税で補うとなれば、さらなる国民の大反発を食らったでしょう。

山本内閣総辞職の後釜は、第二次大隈重信内閣。後任の海軍大臣は、八代六郎大将(非薩摩閥)が就任しました。海軍の信頼を取り戻すため、新たな体制作りを目指す八代は、鈴木貫太郎を海軍次官。秋山真之を軍務局長に就任させました。が、山本や斎藤といった人材を、予備役にした為、海軍内から、猛反発を招きます。 八代は改革を断行。同年7月。第一次世界大戦が勃発すると、軍令部へ相談をしないまま、ドイツに宣戦布告することを決めてしまいました。

八代に対して、思うところありな貫太郎でしたが、任務は別物。責務は果たすという日々が続きます。むしろこの頃は、世界各地を飛び回る立場のため、母を亡くした子供たちに、さみしい思いをさせてしまうことを、憂いていたのかもしれません。

そんな姿を見かねたのか、再婚を進められた貫太郎。 1915年(大正5年)6月に結婚します。お相手は「足立たか」さん。

1883年(明治16年)7月4日。北海道札幌市生まれの32歳。父は札幌バンドのクリスチャンであり、ご本人もクエーカー派クリスチャンです。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業後、母校の幼稚園の教諭となりますが、東京帝大教授の菊池大麓による推薦で、1905年以降、10年程、皇孫御用掛として、幼少期の迪宮(後の昭和天皇)・淳宮(秩父宮)・光宮(高松宮)の教育係を務めたという、経歴の持ち主。貫太郎と彼女を取り持ったのも、菊池大麓教授でした。夫は再婚、妻初婚の夫婦ですが、この二人の出会いと婚姻が、後に大きな悲劇から起死回生の基となります。

鈴木たか ネイタルデーター

1883年7月4日 札幌市生まれ 出生時間不明

☀星座 ♋

☽星座 ♋ 月のふり幅 00:00♊28°17~23:59♋12°11

第1室 本人の部屋 ♋ ☽・☀・♃

第2室 金銭所有の部屋 ♌

第3室 幼年期の部屋 ♍ ♅

第4室 家庭の部屋 ♎

第5室 嗜好の部屋 ♏ ☊R

第6室 健康勤務の部屋 ♐

第7室 契約の部屋 ♑

第8室 授受の部屋 ♒

第9室 精神の部屋 ♓

第10室 社会の部屋 ♈

第11室 友人希望の部屋 ♉ ♆・♂

第12室 障害溶解の部屋 ♊ ♇・♄・☿・♀

夫は♍に☊Rを持ち、そこには妻の♅。 妻は♏に☊Rを持ち、そこには夫の☽。さらに夫の♅が♋にあり妻の☀と♃とヒット。

鈴木貫太郎の☀星座は♑で、たかの契約の部屋となるのなんとも面白い。 ♋には、☽と☀だけでなく、♃もあり、マリッジな組み合わせ。

☽のふり幅で、0時から4時くらいの生まれなら、☽は♊。朝以降は♋。いずれにしても、新月生まれな女性。幼稚園教諭や、皇孫御用掛という職に携わるのもわかる気がします。さらに、夫は星の広がりのあるホロスコープで、妻は第3室と第5室に星があるものの、第11室~第1室に9星が固まるホロスコープ。夫が宿す第12室♐の♄Rと、妻の宿す第12室。ここには♀もあるので、年の差婚。再出発的な要素があるのかもしれません。

先妻との間に、一人の男の子と、二人の女の子を持つ、貫太郎は、これで安心して仕事にまい進できたのです。

同年8月。海軍改革を頑張る八代が、海軍大臣を辞任。後任は、山本の後継者と言える加藤友三郎大将が、海軍大臣となりました。貫太郎は海軍次官を留任し、八八艦隊実現に向けて、二人で予算とのすり合わせを行った結果、八四艦隊計画案を立案。

これを1917年(大正6年)6月の議会にかけ、通過させました。同時に、中将に昇進した貫太郎。かねてより出していた移動願い通り、9月に練習艦隊司令官に就任し、事務方の海軍中央勤務から、引いたのです。

1918年(大正7年)夏。練習艦隊の司令官として、アメリカのサンフランシスコを訪れると、日本とアメリカの政府間が冷え込んでいるにも関わらず、現地では大歓迎を受けました。友好的なアメリカ人の態度に、感嘆した貫太郎は、歓迎会の演説の場で、 「日本人は世界中最も平和を愛する国民」「太平洋は名の如く、平和の洋にして、日米公益の為に、天が与えた恩恵である。もし、これを軍隊搬送の為に用いるが如き事あらば、必ずや、両国共に天罰を受くべし」と、述べ、割れんばかりの拍手に包まれたのでした。

この年の11月。第一次世界大戦は終結。世界の志向は、「軍縮」に向かい始めます。

1921年(大正10年)11月に、ワシントン会議が開催され、米英日伊仏の五か国は、アメリカの意向で、ワシントン海軍軍縮条約を締結。主力艦隊の保有数の割合を、米英10割。日本は6割に定められました。これを聞いた日本側は、英米10割、日本7割を主張すべきという声が上がります。

主席全権大使として、出席した加藤友三郎海軍大臣は、アメリカと言い争うのは愚かと判断。7割の声と、八八艦隊計画を諦め、6割で条約に調印したのでした。

この当時鈴木貫太郎は、海軍兵学校長などの要職に就きます。1923年(大正12年)8月海軍大将に昇進。同年9月1日死者10万人を超す、関東大震災が発生。日本は大正時代中ごろから続く、経済苦境に追い打ちがかかります。

♃年齢域が終わろうとする1924年(大正13年)。海軍の花形「第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長」に就任した貫太郎。♃年齢域と♄年齢域が交差する1925年(大正14年)4月には、海軍全体の作戦指揮を統括する軍令部長となりました。

♄年齢域 57~70歳 1925年~1938年(大正14年~昭和13年)

大正時代も終わり、時代は昭和へ入ります。1927年(昭和2年)3月。第一次若槻内閣の、大蔵大臣による失言がきっかけで、日本全国各地の銀行で、取り付け騒ぎが起きました。これが昭和恐慌を、引き起こします。翌月、若槻内閣が総辞職した後、立憲政友会の総裁だった田中儀一が、内閣を組閣。大正時代以上に、昭和初期の庶民の暮らしは、経済不安が大きかったのです。が、高橋是清を、大蔵大臣に据えることで、難をしのぎました。

鈴木貫太郎は、なんと60歳も過ぎた1929年(昭和4年)1月。内大臣牧野伸顕の意向で、「侍従長」就任を打診されます。侍従長とは、文字通り、天皇陛下に側近奉仕する侍従たちの長。さらに各大臣や軍部首脳が、陛下に拝謁を求めた際の、取り次ぎも担う宮中の要でした。ここに天皇陛下に諮問応じる役割と、枢密顧問官の兼任も加わったのです。

牧野が鈴木貫太郎を、侍従長に選んだ理由は、人格に信頼を寄せていた事に尽きますが、昭和天皇と貞明皇后も、たかの夫である鈴木貫太郎が、侍従長となることを望みました。 但し、この役は、軍人との兼任はできません。鈴木貫太郎は、軍令部長。宮中席次でみると、侍従長は、軍令部長より格下だったのです。

軍令部長を退任することに、疑問の声もある中、鈴木貫太郎は、快諾。予備役となり、軍服を脱いで、宮中へ向かいました。

「格下になるのが嫌で、名誉職を断った」と、みなされるのが嫌で、侍従長の就任を決めたという通説。真意はわかりませんが、天皇陛下が望まれる名誉職を断ったとなるのは、失礼すぎて、貫太郎も望まなかったのでしょう。

自分が畑違いの人間と、認識していた鈴木貫太郎は、宮中内の主だったことは経験豊富な侍従たちに任せました。いざという時の差配と、昭和天皇の話し相手に撤する姿勢に、いつしか周囲から「大侍従長」と呼ばれます。

拡張の時期で広げ切ったものを修正し、不要なものを手放す♄年齢域。鈴木貫太郎のN♄は、♐にあり、ノーアス(アスペクトなし)。ところが、T♄は♏を進み、これが貫太郎のN☽と♇のオポジションにヒット。♇Rではありますが、昭和天皇は☀♉。その支えとして侍従長として入るなら、意味ありというところでしょうか。

1月に浮上した話なら、♑に太陽を持つ貫太郎の運気が上がっていてもおかしくはないし、しかもこの年、T♃は♑を進みます。そのT♃、貫太郎の誕生日戦後は、T☿・♀も近くにあり、対極の♋にあるN♅とオポジション。さらにN♅が、T♇とコンジャンクション。これは強い組み合わせと言えるでしょう。これでミラクルが起きないわけはなく、この人事、人の目で見れば、内大臣牧野の見立てですが、運勢的にステージが変わることは、星が語っています。

1年前の1928年(昭和3年)6月4日に起きた張作霖爆殺事件に関する最終報告のため、1929年(昭和4年)6月27日。田中儀一田中は宮中を訪れました。

事件当時の田中は、「帝国の国際的な信用を保つためにも、容疑者を軍法会議で厳罰に処すべき」と主張し、天皇陛下にも、その旨を奏上していたのです。ところが、陸軍の猛反発を食らい、1年後に提出した内容は『関東軍には張作霖爆殺とは無縁であった』

かつて田中が言っていたことと、真逆な奏上に、驚いた昭和天皇。陛下から詰問を受けた末、再度の奏上を拒絶された田中。貫太郎は両者の思いを、それぞれに伝えました。 その後、人一倍天皇への忠誠心が強い田中は、奏上を辞退し、総理大臣を辞任した後、同年9月28日に急死します。

自分の言動が、内閣を倒閣させた上、田中を死に追いやった。そう心を強く痛めた昭和天皇は、今後は政府の方針に口を挟まないことを決意します。

8月。軍事に関する奏上の伝達を行う侍従武官に、阿南惟幾陸軍大佐が就任。阿南は、侍従長鈴木貫太郎の、懐深い性格に触れ、尊敬の念を抱いたのです。

世界恐慌が起き、世界経済が混迷する中、1930年(昭和5年)1月。補助艦の保有数を決めるロンドン海軍軍縮会議が行われました。補助艦の割合が欧米10割に対して、全権たちの交渉力で、日本は6.975割に納めた、あの会議です。

7割にこだわった軍令部(貫太郎の古巣)は、軍令部長の加藤寛治が、条約締結に反対する上奏を、昭和天皇へ求めますが、鈴木貫太郎は、これを説得。上奏は未遂に終わり、同年10月27日。濱口雄幸内閣は、ロンドン海軍軍縮条約の批准に成功しました。

こうして日本海軍は、艦隊派と条約派に別れ、国家主義者や、昭和維新を叫ぶ若き将校たちは、軍令部長を止めた鈴木貫太郎の言動に、強い反発を覚えたのです。

1931年(昭和6年)満洲に駐留する日本陸軍の石原莞爾らを中心に、満州事変が勃発しました。濱口内閣を追い込むために、野党が議会に持ち込んだ「統帥権干犯問題」これによって、次の若槻内閣は、軍を抑えることが不能に陥り、辞職に追い込まれます。

翌年1932年(昭和7年)5月15日。ロンドン海軍軍縮条約の結果に不満を抱く、海軍将校たちが、休日の総理官邸を襲撃し、犬養毅総理大臣を殺害する五・一五事件を起こしました。 『武人が政治に関わってはいけない』常々そう思っていた貫太郎は、この事件に対し、強い憤りを覚えつつ、日本の行く末を心から案じる昭和天皇を支えたのです。

1933年(昭和8年)安藤輝三と名乗る青年将校が、日本青年協会の富永半次郎、青木常盤と共に、麹町にある鈴木邸を訪れました。安藤は、英語教師であった父親の影響と、民衆のために蜂起した大塩平八郎を慕い、「身を殺し、以て仁を為す」という大塩の教えを、自らの信条とする人物です。

1924年(大正13年)に18歳で予科を卒業した後、士官候補生として、隊付勤務となり、歩兵第三連隊第6中隊に配属。指導者は昭和天皇の弟君・秩父宮雍人親王中尉でした。 秩父宮は、優しく穏やかな安藤に目をかけます。

1926年(大正15年)38期生として、士官学校を卒業します。が、第一次世界大戦後の軍縮ブームで、海軍の戦艦保有数だけでなく、陸軍も師団を減らすような時期だったのです。さらにこの年は、大正天皇の崩御。昭和天皇が即位なされる替えの年。世相は不況と震災の後で、穏やかとは言えない状況でした。

1929年(昭和4年)歩兵中尉として、第3大連隊第11中隊附に配属となります。陸大へ進まない青年将校は、徴兵される兵卒の指導が主な任務でした。

鈴木家を訪問する2年ほど前に、家庭を持った安藤ですが、東北地方出身の兵卒たちから、経済恐慌と、米価の下落等に大打撃を受けての、姉妹の身売りや、実家の困窮の話を聞いて心痛めていました。家庭を持った安藤ですが、実家の困窮に泣く兵卒たちに、自身の給料の大半を与え、自らは赤貧暮らしだったのです。

世の中を憂う将校はたくさんいました。が、陸軍は、超学歴社会。陸軍大学の先輩後輩の繋がりも非常に強く、卒業しないと、参謀本部や陸軍省への配属は叶わず、軍政や軍令の改革に関わることは、できません。

受験失敗を含め、様々な事情で陸大に入れなかった将校たちは、「天皇と国民が一体化した民主主義国家」の樹立を謳う、思想家の北一輝の「日本改造法案大綱」(後に発禁)に傾倒します。彼らは、天皇陛下を誑かす、財閥や官僚。特権階級の者たちがいるから、世の中がよくならないのだと、政治腐敗を憎み、「昭和維新」「尊皇討奸」を合言葉に、やがて天皇陛下の直接政治実現を求める「皇道派」となってゆきました。

一方、陸大出身のエリート層たちは、永田鉄山を中心に「統制派」として、まとまっていきます。

その「皇道派」である安藤暉三の訪問を、鈴木貫太郎は歓迎。純粋な若者の問いに、 「軍備は国家を防衛するためのもので、みだりに政治利用してはならない」と、親しみを込めて、語り諭すのでした。貫太郎に感銘した安藤は感銘を受け、 「噂とは全く違う。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で、懐の深い大人物だ」 そう評したのです。貫太郎もまじめな安藤に好感を抱いたのでしょう。座右の銘にしたいと願う安藤に答えて、一筆書いたものを後に贈っています。

「統制派」と「皇道派」の思想と行動の対立は激化し、1935年8月12日軍務局長になった永田鉄山は、皇道派の相沢三郎陸軍歩兵中佐に、軍務局内で、白昼堂々惨殺されてしまいました。激怒した「統制派」は、過激な「皇道派」の将校たちを封じようと、彼らを満洲へ送ることを決めます。 1936年(昭和11年)2月26日午前5時。「皇道派」の青年将校たちは、満洲行きとなる前に、1486名の兵を伴いて、二・二六事件起こしました。

昭和天皇の最も身近にいる人々、岡田啓介内閣総理大臣・侍従長鈴木貫太郎・斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣・松尾伝蔵内閣総理大臣秘書官事務取締役・渡辺錠太郎教育総監・牧野伸顕等を、「君側にいる奸」として襲撃。その後、首相官邸、警視庁、内務大臣邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣邸。東京朝日新聞社を占拠したのです。

鈴木邸を襲撃した班は、安藤暉三大尉が率いていました。決起にずっと反対していた安藤ですが、最終的に同志を見殺しにはできないと、直前に参加を決断したのです。 「暗殺するなら、せめて自分の手で」と、150名を率いて鈴木邸に向いました。そういいつつも、貫太郎を殺すのではなく、押し入れにかくまい、やり過ごそうと考えていた安藤ですが、襲撃の際、最初に鈴木貫太郎を発見したのは、別の下士官でした。

下士官に発砲を命じられた兵士たちは、貫太郎の左足付け根、左胸、左頭部に銃弾を撃ち込んだのです。遅れた安藤が、襲撃部屋に着くと、血の海となった8畳間で、倒れている瀕死の貫太郎を守るたか夫人。それを取り囲む兵士たちの姿がありました。

とどめを刺すよう、下士官から軍刀を渡された安藤を前に、 「老人ですから、とどめは止めてください。どうしても必要というなら、私がいたします」と、言い張るたか夫人。夫人の覚悟を前に、軍刀を収めた安藤は 「鈴木侍従長閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令、たか夫人の前に進み出て 「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は閣下に対しては、何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ず、こうした行動をとったのであります」 丁寧に伝えたそうです。夫人に名前を尋ねられると「安藤輝三」とのみ応え、部下たちを伴い、その場を去ったのでした。

「もう賊は逃げたかい」彼らが去った後、そういいながら、貫太郎は起き上がり、たかに尋ねたそうです。隣の官舎から、宮内大臣湯浅倉平が駆けつけると、「私は大丈夫です。ご安心くださるよう、お上に申し上げてください」と言った貫太郎。

皇道派の将校たちが引き起こしたクーデター未遂事件は、斎藤実・高橋是清・松尾伝蔵・渡辺錠太郎の4人の命を奪いました。貫太郎も出血量は多く、一時意識を失い、心臓も止まってしまったのです。非常に危険な容体が続く中、昭和維新を掲げて決起した青年将校たちは、昭和天皇の大激怒を買い、2月29日逮捕されました。

二・二六事件、鈴木邸を襲撃した時間でホロスコープを見ると、

☀♓6°03・☽♈19°01・☿♒9°12・♀♒4°28・♂♈2°48・♃♐21°27・ ♄♓11°58・♅♉2°26・♆♍15°29R・♇♋25°30 node♑11°09R

朝の5時という時間設定なら、ASC♒0°08と、MC♏26°34も加えるべきでしょうか。

貫太郎にとって、♄年齢期に起きた凶事ですが、♄は、運勢的視点で、その人に必要なものは、必ず残します。T☀と♄コンビが、N♀と♃に差し掛かり。N☀・♂・☿に、T♇があるのが、目を引きます。重傷を負った貫太郎。妻のたかと、安藤によって九死に一生を得ましたが、運勢的に見ると、強い星が保護に入ったとみていいでしょう。

その後、安藤たちは銃殺刑となりました。鈴木貫太郎は、彼を恨みはせず、 「安藤がとどめをあえて刺さなかったから、自分は生き延びることができた。彼は私の命の恩人だ」「首魁のような立場にいたから、やむを得ずああいった事になってしまったのだろう。思想という点では、実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」 むしろ、その死を惜しんだのです。

侍従長を退任し、枢密顧問官となった鈴木貫太郎は、1937年(昭和12年)1月。 たか夫人を伴い、誕生した地域の神社、大阪堺市の多治速比売神社を訪れました。危篤の際、「多治速比売命が枕元にお立ちになり、命を救われた。そのお礼にお参りに来ました」という言葉を残しています。そしてこの年、日中戦争が始まりました。

♅年齢域 70~80歳 1938年~1948年(昭和13年~昭和23年)

♅年齢域に入った鈴木貫太郎。二・二六事件で命を拾われた意味が、ここで現れます。 1939年(昭和14年)ドイツによるポーランド侵攻がきっかけとなり、第二次世界大戦が起こりました。近衛内閣が終わるきっかけを潰した日中戦争は、泥沼化の一途。 そこに日米関係の冷え込みも増したのです。

1941年(昭和16年)12月1日。近衛内閣に代わった東条英機内閣は、対米開戦を「12月8日」と決めました。昭和天皇が望まなかった日中戦争。さらに同時侵攻で、アメリカ・イギリスをはじめとする連合軍と戦うのです。(この辺りの経緯は、近衛文麿と東條英機の回で、触れていますので、今回は割愛します)

開戦当初は、幸先よく連勝した日本ですが、1942年(昭和17年)6月。ミッドウェー海戦の大敗を境に、旗色が変わりました。元々、イギリス首相とアメリカ大統領が、それぞれ自国の利益を守るため。さらに、その外枠に、ソ連の世界赤化の野望の網が、張り巡らされている中で、それに気づくことなく、日本は参戦した戦いでした。開戦当初は、船籍の良いにお本でしたが、時間が経過するにつれて、連合軍に押されてゆきます。

1944年(昭和19年)7月22日。進退窮まった近衛文麿が投げ出した後、太平洋戦争開戦時から、総理大臣を務めていた東條英機陸軍大将ですが、サイパン陥落の責任を取って、内閣総辞職しました。小磯國昭陸軍大将が、次の総理となりますが、絶対国防圏が破られたため、米軍による日本国内への空爆は激化してゆきます。

1945年(昭和20年)1月。敢然に旗色が悪くなった状況で、大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大網」を策定。本土決戦への準備を進めたのです。2月19日から始まった硫黄島の戦いは、アメリカ軍が勝利。3月26日から始まった沖縄戦も劣戦。小磯は4月5日辞職を決めます。

早急に後継を決める為、重臣会議が開かれました。内大臣木戸幸一・。外交官広田弘毅に、若槻禮次郎・近衛文麿・岡田啓介・平沼騏一郎といった総理大臣経験者が揃い、鈴木貫太郎は、枢密院議長として出席します。

近衛文麿に担がれて総理になり、降ろされた東條英機は、日本陸軍が本土防衛の主体であることを理由に、元帥陸軍大将の畑俊六を、後継に推薦。そんなことをさせてはたまらんと、近衛と木戸をはじめ、他の総理経験者は、戦争を終結させたい和平派でした。

本土決戦を求める東條に異を唱え、論争で黙らせた和平派が、総理に押した人物は、鈴木貫太郎です。本人は仰天。要請を拒否しますが、近衛は、かつて東條を総理の椅子から卸した時と同様、昭和天皇の信任厚い鈴木を押す事を、既に根回し済みでした。

会議の終了後、昭和天皇に呼ばれた貫太郎は、 「軍人は政治に関与せざるべし」を旨とする事を述べ、頑なに辞退します。

「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重要な時に至って、もう他に人はなし。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と、述べられた昭和天皇。(この時のやり取りは、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言があります。) 天皇陛下の御心に触れた鈴木貫太郎は、腹を決め、大命を受けました。

77歳を越えての総理就任。天皇陛下に「頼む」と言われて就任したのは、歴代総理の中で、鈴木貫太郎だけです。

しかし、ここで難問が立ちはだかりました。陸軍大臣現役武官制の復活により、陸軍大臣は、現役の中将か大将しか就任ができず、陸軍大臣が不服を唱え辞任した場合は、陸軍から、新たな陸軍大臣が選出されない限り、無条件で内閣は総辞職せざるを得なかったのです。多くの陸海軍の軍人は、徹底抗戦派でした。

和平派が押した鈴木内閣の陸軍大臣になる人物がいるのか。大きな壁でしたが、鈴木貫太郎、早速前任の陸軍大臣杉山元大将の元を訪れると、阿南惟幾大将の陸軍大臣就任を要請します。杉山は阿南を陸軍大臣に入閣させる条件として、下記の3つを挙げます。

1.東亜戦争の完遂

2.陸海軍一体化の実現を期し得る内閣の組織

3.内閣は本土決戦のため、陸軍の企図する政策を、具体的に躊躇なく行う。

これは徹底抗戦を、新内閣に示唆したようなものですが、貫太郎、これを躊躇なく、あっさり同意しました。あまりの速さに、条件を提示した杉山が動揺し、阿南の陸軍大臣就任を、容認せざるを得なくなったのです。

鈴木貫太郎を敬愛する阿南は、陸軍大臣就任を快諾しました。 この辺りは、人生経験豊富で、しかも覚悟を決めた鈴木貫太郎の、腹芸の一つだったのでしょう。

海軍大臣は、小磯内閣からの留任であり、和平派の米内光政。外務大臣には、過去東條英機と対立して、内閣を退いた東郷茂徳。内閣書記官長に、切れ者の迫水久常。秘書には血盟団事件で逮捕歴がある四元義隆が任命されます。これだけで一癖も二癖もある内閣ですが、4月7日夜半。終戦の意を秘めて、表向きは、徹底抗戦の鈴木貫太郎内閣が、誕生しました。

1945年4月5日~7日の間、T☽は、♑から♒へ移行。貫太郎のN☀・♂・☿を刺激していました。さらにT♂はN♃とコンジャンクション。T♄は♋を進み、貫太郎のN♃と調和。N♅に歩幅を詰めていきます。T♅は、♊を進み、貫太郎のN♄とオポジション。

本人にとっては、予想外ですが、大役を引き受ける立場に立ったこと。

T☿は♈で逆行中。♉に入ったばかりの♀も逆行というのも、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎が、助かった歴史的意味を語っているかもしれません。 星の逆行とは、人生の時間調整でもありますから。

就任から数日後の4月12日。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが死去します。

枢軸国のドイツは、大統領の死を即座に罵倒しますが、鈴木貫太郎は、同盟通信社の短波放送を通じて、アメリカ国人に、哀悼の意を示しました。たとえ敵でも死を悼む姿勢は、 敵国であるアメリカに好印象をもたらします。

この頃は内閣も昭和天皇も、沖縄戦で連合国軍に手痛い一撃を加えた後、和平に持ち込む「一撃講和論」を主に考えていました。4月26日鈴木貫太郎は、沖縄戦に挑む第32軍の兵士や、県民たちを鼓舞するラジオ放送を行っています。 ところが、5月4日。第32軍の総攻撃は失敗。一撃講和論は不可能となり、さらにその数日後、ドイツが無条件降伏を行いました。これで連合国と闘う枢軸国は、日本だけになったのです。

5月11日最高戦争指導会議構成員会合の席で、東郷外務大臣は、ソ連を仲介とする和平交渉案を提示。日本とソ連は、1941年(昭和16年)4月13日に、5年縛りの日ソ中立条約を締結していました。独ソ戦で、ソ連が勝利している状況を踏まえ、日本に侵攻してくる危険性を下げる気配もあったのです。ここはあえてソ連を仲介役にして、花を持たせれば、対日参戦の危険性が下がるのではないか。という議論の下、内閣は動いてしまいます。

遡る事同年2月。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル。ソ連のスターリンは、ヤルタ会談を行い、ドイツ降伏後の3か月後、ソ連は対日参戦する事を既に決めていたのです。もちろん、イギリス・アメリカも承諾。彼らの頭の中では、既に日本は独立国ではなく、統治される対象だったのです。

ルーズベルト大統領とチャーチル首相にとっては、煽り、追い詰めることで日本が参戦を選択することは、当初から理に適う目的でした。またスターリンにとっては、世界赤化が、最終目的です。国と国同士が争う事、国内で政府と国民とが争うことは、その国の国力を落とすことに繋がり、横から奪いやすくなるのです。スターリンは、その絶妙なタイミングを待っていました。

鈴木内閣がヤルタ会談の内容や、ソ連という国を、よくを知ったら、仲介にすることは、選択しなかったでしょう。知らない、考えが及ばなかった結果、仲介役をソ連に打診しました。ハナからその気がないソ連は、ほくそえみながら返事を渋ります。

その間、5月24日、25日東京大空襲が敢行されたのでした。首相官邸は焼失。皇居の大部分も焼失する中、天皇皇后両陛下に、郊外への避難を即しますが、お二人は東京から、逃げることは致しませんでした。

1945年6月8日。空襲が続く中開かれた御前会議で、「皇土保衛」「国体護持」とする「戦争指導大網」が決まります。対米戦開戦時は、「アジアの解放」を開戦理由としていましたが、戦争の長期化と厳しい劣勢が、大義名分は大きく変わったのです。

連合国に「皇土保衛」「国体護持」さえ受け入れてもらえるならば、日本が戦争を続ける必要はない。鈴木貫太郎は、気づいていましたが、あえてストレートに出すことはありませんでした。 東條英機をはじめとする抗戦派の重臣や軍部が、大暴走してしまう可能性が高かったからです。鈴木総理は、彼らを欺くために、あえて「徹底抗戦で利かないのであれば、死あるのみ!」と叫び、強硬な姿勢を崩しませんでした。その水面下で、内大臣木戸たちと、ソ連を仲介とした和平交渉を進めたのです。

幕末維新以降、シャワーの如く降り注いだ西洋の学問の中に、フランス革命よろしく、問題解決のためには、既存の権力を打倒するという、社会主義や共産主義思想の考え方も含んでいました。近衛も木戸といったエリート層の若者は、学生の頃から、純粋に共産主義に憧れ、ソ連を素晴らしい国と、疑ってはいなかったのです。

6月9日。帝国議会で徹底抗戦の決意表明をする中で、鈴木は、かつて練習艦隊司令官として、サンフランシスコを訪れた際に、スピーチした内容に触れました。

>「日本人は世界中最も平和を愛する国民」「太平洋は名の如く、平和の洋にして、日米公益の為に、天が与えた恩恵である。もし、これを軍隊搬送の為に用いるが如き事あらば、必ずや、両国共に天罰を受くべし」<

「日本人は世界中最も平和を愛する国民」というのを強調し、終戦の方向へ舵を切るつもりだったのですが、衆議院議員の小山亮から、指摘があったのです。 「国民は天祐を信じて戦争に臨んでいるのに、天罰が落ちる等というのは慎むべきだ」と。

日本が終戦を迎えるのか、軍部の強硬で徹底抗戦の末、一億玉砕となるのか、その瀬戸際に、日々、言葉狩りに紛糾する議会。これを見て失望した海軍大臣米内は、大臣職の辞任を申し出ました。徹底抗戦派の阿南陸軍大臣の説得で、思いとどまります。 議会が紛糾する中で、はるか南で展開した沖縄戦の日本敗北が確定。

6月22日。御前会議の席で、昭和天皇は「和平」に言及する発言をしました。翌日には、沖縄戦を指揮した第32軍の司令官牛島満中将が自決します。

昭和天皇の「和平」言及には、ソ連を仲介にした和平交渉が始動される。鈴木内閣には。一つの希望があったのでした。しかし、ソ連は日本の仲介役になる気は一切なく、南侵のため準備を始めるのです。時間が過ぎる一方だった7月26日。 米英中三国から、降伏勧告である「ポツダム宣言」の提示がなされました。東郷外相は、

「この内容を拒否すれば、重要な結果を及ぼす恐れがある。しばらくの間は、明確な意見表示は見送ろう」と言い、阿南陸相を中心とする抗戦派は、宣言の公式な非難声明を、政府に強く求めました。和平派だった米内さえも、政府がポツダム宣言を無視する声明を出すことを、言いだします。この辺りの進みの悪さは、まだソ連の仲介を待ってしまった事が、背景にありました。

軍部の突き上げが増す中、7月28日鈴木貫太郎は記者会見で 「共同宣言(ポツダム宣言)は、カイロ会談の焼き直しと思う。政府は重大な価値あるものと認めず黙殺し、断固戦争完遂にまい進する」と述べます。

これはポツダム宣言に対して、特に意見を言わない。というスタンスだったのですが、翌日、新聞各社は「黙殺する」という単語を、見出しに使ったのです。これによって、読み手に鈴木内閣は、ポツダム宣言を黙殺するというイメージを与えました。

大人びたクールな対応で、しばらくの間賛否は問わないという意味で、鈴木貫太郎は「黙殺」という言葉を使ったのですが、その意図を組むメディアはなかったのです。 さらに海外メディアも、貫太郎の「黙殺」を、彼の意図する「no comment」とは取らず、「reject」=拒否として報じました。

国内外のメディアの取り上げ方が、鈴木内閣にとっては、大きな誤算となったのです。

8月6日は、広島に原爆が投下された日ですが、このポツダム宣言受諾の拒否をもって、アメリカは新大統領トルーマンの意思の下、広島に原子爆弾を投下したという説があります。これは後付けの屁理屈です。 トルーマンは、自身の日記に、7月25日から8月10日までの間に、日本の軍事基地に落とす旨、記載しています。広島の原爆投下は、鈴木貫太郎の記者会見より前、既に既定路線でした。トルーマンは、記者会見をうまく利用したとも言えます。

8月9日未明、ソ連が対日参戦に動きました。午前11時、最高戦争指導会議が開催されますが、長崎への原爆投下を知ることとなりました。 もう「ポツダム宣言」を受諾するしか、道がない状況に追い込まれた日本。

今度は「国体保持」のみに絞るべしとする意見と、「国体保持」「保証占領」「日本自身による武装解除」「日本自身による戦争犯罪の処分」を求める阿南を中心とした陸相閥等の間で、ポツダム宣言の受諾方法が割れました。 議論に議論を重ね、決断が出ないまま7時間が経過。鈴木貫太郎は、会議を解散し、昭和天皇が臨席なさる御前会議を設定します。(これは会議の堂々巡りを最初から予見した、貫太郎と迫水による事前手配がありました)

8月10日午前0時3分に、昭和天皇ご臨席の御前会議が開かれますが、議論は堂々巡りのまま、深夜2時を回りました。ほぼ、意見が出尽くしたと思われた時、鈴木貫太郎は 「私が陛下の思し召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定としたいと思います」と、述べたのです。反対する者はいませんでした。

「私の意見は、外務大臣と同じである」

涙を流しながら聖断を下す昭和天皇のお言葉を受け、ようやく、「国体保持」のみを条件に、ポツダム宣言受諾が決まったのです。それでも、最高戦争指導会議は、すんなりと進まず、議論紛糾の末、8月14日もう一度、ご聖断が行われました。

会議終了後、鈴木内閣僚達が終戦の詔書に署名。この時、阿南は、強硬な意見を述べたことを、鈴木総理に謝罪します。阿南陸軍大臣が、本気で徹底抗戦を望むのなら、大臣を辞任することも、クーデターを起こし、内閣を打倒することも可能でした。しかし、阿南は、そんなそぶりは見せず、強硬論を唱え続けたのです。

阿南は軍の抗戦派を抑える、欺くため、徹底抗戦を主張したのかもしれません。真相はわかりませんが、深々と非礼を詫びる阿南に、貫太郎は、丁寧な労いの言葉をかけています。

8月14日午後9時。翌日の8月15日正午に「玉音報道」(昭和天皇によるお言葉)が、流れることが決まり、日本中に伝わりました。佐々木武雄陸軍大尉を中心とする、国粋主義者たちは、玉音放送を阻止するため、総理官邸や鈴木の私邸(小石川)を襲撃「宮城事件」を起こします。間一髪、秘書の四元が組織した鈴木貫太郎親衛隊が、彼を守り抜きました。人生、二度目の暗殺です。家族も難を逃れましたが、家財と住まいは失いました。

8月14日の星回りは、♊以降、♏以内に星が集中。貫太郎の♅を、T☊♀。♄が。刺激。

☀と♇は♌にあり、T♀を刺激。☿Rと♃が♍。♎に♆。☽は♏に入りたて、しかもASCも♏。鈴木貫太郎のN ☽なのが、意味深いです。

8月15日正午。日本中に、玉音放送が流れ、国民が日本の敗戦を知りました。 この日の未明、阿南惟幾陸軍大臣が自決。彼の死の告示は、陸軍により強い敗戦の衝撃を与え、徹底抗戦派の主張はトーンダウンしたのです。

後任の東久邇宮内閣が発足する8月17日まで、執務は執行しますが、日本の一番長い日と言われる8月15日。鈴木郎内閣は、総辞職しています。 「ご聖断を仰ぐに至った責任を取る」といのが、その理由でした。

御前会議の場で、聖断を下す。昭和天皇と鈴木貫太郎は、既に決めていたのです。

「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ」

昭和天皇は、後年、当時の事をそう述べておられますが、宣言受諾を閣議で決めたら、それがわずかな票差でも、不採択側は禍根が残り、徹底抗戦にこだわる軍部は、発起する恐れは十二分にありました。終戦どころか、日本は殲滅の危機を迎えます。

これを止めるには、敢えて天皇陛下のご聖断にゆだねる以外ない。鈴木貫太郎は、そう考えたのです。

家を焼かれたことから、しばらくの間、友人、知人の家を転々とした鈴木夫妻は、貫太郎の故郷関宿へ戻ります。その間、連合国が予想もしなかった整然とした停戦が進んでいきました。 1945年12月15日枢密院副議長平沼騏一郎が、GHQにより逮捕されたことで、悠々自適な暮らしを…と思っていた貫太郎を、吉田茂が、麻布から関宿へ迎えに来たのです。

1946年(昭和21年)1月。戦犯容疑がかかっていない鈴木貫太郎は、再び、国の中枢に戻り、枢密院副議長を務めました。同年6月3日に公職追放となるまで、敗戦以降の日本を支える屋台骨を作る、憲法改正に関わってゆきます。 昭和天皇から、御紋付木杯に酒肴料を下賜され、特旨で宮中丈の携帯を許された鈴木ですが、公務から離れると、再度千葉県の関宿(現野田市)に戻りました。

地元が少しでも潤うように、農大にいる親族を呼び寄せ、酪農が根づくように、地域住民の相談に乗ったそうです。 1948年(昭和23年)4月16日。鈴木貫太郎は、集まった親類縁者に見守られる中、深夜「永遠の平和」とハッキリ2回繰り返し、この世を去りました。享年80歳。命日は翌4月17日。

酪農事業は、たか夫人が引き継ぎ、親族や地元の人たちと、集乳所を新設するまでの事業に成長させました。その後は、明治乳業の集乳所を誘致するまでになります。

幕藩体制が終わる年に生まれ、太平洋戦争のエンドマークをつけた鈴木貫太郎。 二・二六事件で、貫太郎にとどめを刺すことなく、部隊を引き上げた安藤暉三。後半に出てくる阿南陸軍大臣や、迫水久常等も絶妙キャスト。

在任中、アメリカとの仲介役をソ連へ頼むとか、非常に残念な面もありますが、当時、ほとんどの人が、ソ連の本性に気付きませんでした。アメリカ大統領とイギリス首相が、日本に戦争誘発を仕掛けたのが、太平洋戦争の裏にあるとは、思いもしなかったのです。

これらは今の視点・時点だから言えることで、様々な意見が飛び交う中、日本を玉砕させるか、敗戦を受け入れるかの瀬戸際で、国内に動乱を起こさせることなく、ほぼ無血で敗戦をまとめた功績は、非常に大きかったと思います。

「もともと陛下としては、この戦争を始めるのは本意ではなかった。 それが今は、敗戦につぐ敗戦を以てし、祖宗にうけた日本が累卵の危機に瀕している。鈴木は陛下の御心をよく知っているはずである。どうか、親代わりになって、陛下の胸中の苦悩を払底してほしい。また多数の国民を塗炭の苦しみから救ってほしい」(大日本帝国最後の四か月より引用)

これは組閣直後、鈴木貫太郎は、大宮御所をお訪ねした際、貞明皇后にかけられたお言葉ですが、(大正天皇のお后。昭和天皇の母宮さまです)政治的発言は控えるはずの皇族女性としては、かなり異例。時代的にも危険な部分のある発言ですが、 昭和天皇の懇願だけでなく、貞明皇后のこの言葉がけが、75歳を超えていた鈴木を動かした原動力なのかもしれません。

断崖絶壁を、トツトツと駆け上る山羊の如くな、チャレンジャー。誰が見ても無理と思うような状況を、実務能力と忍耐力で克服してゆく性質。社会に与える影響が大きな人なのでしょう。>これは彼のホロスコープを観ながら、書いた一文ですが、実現不可能と思うくらいに追い詰めた日本を、見事に守り、高みを目指した♑ともいえます。

お話/緑川連理先生

太平洋戦争を終戦に持ち込んだ男 鈴木貫太郎
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