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天下人の息子・徳川秀忠と豊臣秀頼の運命を分けたもの…"いい子ちゃん"の秀忠が二代目として成功した理由

  • 2023.11.26

関ヶ原の遅延エピソードなどで、評価があまり高くない家康の息子・秀忠。作家の濱田浩一郎さんは「『徳川実紀』には秀忠が家康の言うことをよく聞く孝行者で、情け深く慎重だと記されている。父・秀吉に早く死なれた秀頼とちがって、家康が江戸幕府の基盤を作ってくれたこともあり、二代将軍としては適性があったのではないか」という――。

秀吉・家康というふたりの天下人の後継者問題

大河ドラマ「どうする家康」においては、徳川家康の後継者・秀忠を俳優の森崎ウィンさんが演じています。秀忠は、徳川幕府の二代将軍ではありますが、父の家康と、子の家光(三代将軍)に挟まれて、歴史教科書などでは、影が薄い感があります。

一方、豊臣秀頼は、天下人であった父・豊臣秀吉の亡き後、豊臣家を継ぎますが、最終的には、徳川氏と対立することになり、大坂の陣を経て、滅亡してしまいます。徳川家と豊臣家の「二代目」は、どのような人物だったのでしょうか。先ず、徳川秀忠は、家康の三男として、天正7年(1579)に生を受けます。母は、家康の側室・西郷局。「どうする家康」では、女優の広瀬アリスさんが演じていました。

前述のように、秀忠は家康の三男。本来ならば、徳川家を継ぐ立場ではありませんでした。しかし、家康の嫡男・松平信康(母は、家康正室の築山殿)は、謀反の疑いありとして、家康により、切腹に追い込まれていました(1579年)。そして、家康の次男・秀康は、秀吉の養子や結城家の養子となるなどして、徳川家から出されていました。よって、信康が生きていたならば、信康が二代将軍となった可能性が高いでしょうが、以上のような経緯から、秀忠が家康の後継者となったのです。

「徳川秀忠像」
「徳川秀忠像」(画像=松平西福寺所蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons)
二代将軍・秀忠は家康の言うことを聞く「いい子ちゃん」か

『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)は、信康や結城秀康、そして松平忠吉(秀忠の同母弟)を「何れも、父君(家康)の神武(神のように優れた武徳)の性質を持っており、武功・雄略、雄々しく、世に著しい」と絶賛しています。ところが、秀忠については「幼少の頃より、思いやりがあり、情け深く、孝行で、慎み深い」と記されているのです。他の兄弟のように、武辺ではないとしているのです。そればかりか、家康の教えを「畏み、守らせられ」、家康の言うことに些かも反抗しなかったと書かれています。今風に言えば「いい子ちゃん」といったところでしょうか。

天正18年(1590)、秀忠は人質として、豊臣秀吉に差し出されます。秀忠の幼名は「長丸」でしたが、元服の際に、秀忠と改名します。秀忠の「秀」は秀吉の「秀」を与えられたのです(偏諱を賜う)。このとき、秀吉は「大納言(家康)は良い子をもたれた。年の程よりは、とても大人しい」と言ったとされます(『徳川実紀』)。秀吉も秀忠を大人しい性質と見做していたことになります。

三成が挙兵したとき、兄弟の中で秀忠だけが状況を憂えた

慶長5年(1600)は関ヶ原合戦が勃発した年ですが、石田三成方(西軍)挙兵の報が、下野国(栃木県)小山にもたらされた時、結城秀康は「喜悦」し、松平忠吉は「勇み逸」ったとされます。ところが、秀忠は何となく「憂悶」(心配し、悩み苦しむこと)の表情を浮かべていたとのこと。これを見た人々は、秀忠が父・家康から廃嫡されることをこの時、心配していたのではないかと囁ささやき合ったとされます。

しかし、『徳川実紀』は「全くそうではない」と反論しています。この時、徳川軍は、上杉景勝征伐のため出陣していましたが、景勝を討滅していた訳ではありません。そのような状況のなかで「上方の逆徒」が蜂起。両方の敵に挟まれて、徳川家はどうなってしまうのか。秀忠は廃嫡云々ではなく、徳川家の行く末を案じていたから「憂悶」の表情があったと同書は主張するのでした。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ケ原町歴史民俗学習館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
秀忠には「治世安民の徳」があると記した『徳川実紀』

同書は「三郎君(家康の嫡男・信康)のように、武勇にのみ誇りて、治世安民(世を治め、人心を安定させる)の徳がないのは如何なものか」と書いています。つまり、秀忠には「治世安民の徳」があると、弁護しているのです(『徳川実紀』は、秀忠の武将としての評価を低く記載していますが、それにも増して、徳があることを高評価しているのでした)。

秀忠と言えば、関ヶ原合戦直前の上田城(真田昌幸が籠る)攻めに手間取り、また悪天候もあり、関ヶ原合戦に間に合わず、家康の怒りをかったことで有名です。急いで進軍してきた秀忠に家康はすぐに対面しなかったことから、秀忠やその将兵は恐怖したと『徳川実紀』にはあります。ところが、徳川四天王の1人・榊原康政が家康を諌いさめたことから、無事に父子対面は成りました。この様を見て「君臣」は大いに喜んだといいます。

亡き父・秀吉に溺愛された秀頼は母・淀殿の下で成長

さて、では豊臣秀頼はどのような人物だったのでしょうか。秀頼の母は、豊臣秀吉の妻・淀殿です。文禄2年(1593)8月に生まれています。父は秀吉と断定したいところですが、秀吉に子種はなく、秀頼は秀吉の子ではないとする説も当時からあるのです(豊臣家の家臣・大野治長が秀頼の父ではないかという異説あり)。秀頼の幼名は「拾ひろい」ですが、秀吉は幼い拾を溺愛しました。秀吉は幼少の秀頼に手紙を書くことがありましたが、その中には「やがて、やがて参って、口を吸い申すべく候」との文言があります(「口を取り申すべく候」との表現もあり)。

また、秀頼の生母・淀殿には「秀頼様が冷えないように、よく注意してくれ」との書状を秀吉は書いています。秀吉が秀頼をとてもかわいがっている様がわかるかと思います。しかし、秀吉は秀頼が5歳のときに病死。秀頼の行く末を心配し、家康のほか「豊臣重臣」に「秀頼のことを頼む」と懇願しての死でした。

伝・花野光明作「豊臣秀頼像」
伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(画像=江戸時代、東京藝術大学所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
まれにみる巨漢で「賢き人」だったという秀頼の実像

秀頼の実像については不明なことも多いのですが、長じてからは、身長六尺五寸(197センチ)、体重四十三貫(161キログラム)の巨漢だったと言われています(江戸時代中期成立の逸話集『明良洪範』)。また、『長澤聞書』(後藤又兵衛の小姓を務めた長澤九郎兵衛の体験を書き留めたもの)にも「秀頼公、(大坂)冬陣には御歳二十三。世になき御ふとり(太り)也」と記載されています。秀頼というと、母の淀殿の尻に敷かれた「マザコン」のようなイメージがあるかもしれませんが、あくまで『明良洪範』には「賢き人なり、中々、人の下知など請べき様子にあらず」(とても賢い人なので、他人の臣下となって、その下知に従うような様子にない)と書かれています。

秀頼の立ち居振る舞いがある程度分かるのは、慶長16年(1611)3月の京都・二条城における家康との会見ではないでしょうか。門外で下乗(乗り物から降りた)した秀頼を大御所・家康は玄関前まで出迎えます(『徳川実紀』)。これに、秀頼は丁寧な礼を述べたといわれます。家康が先ず、御殿に入り、秀頼を庭から御殿に上げました。ここで、家康は秀頼を先に「御成之間」に入れ、対等の立場で挨拶(礼)をしようと提案しますが、秀頼はそれを固辞します。秀頼が家康に上席を譲ることになるのです。

成長した秀頼と家康の対面は友好的に終わったが…

この二条城の会見により、秀頼は家康に臣従したとの説もあります。秀頼は家康の孫・千姫と結婚していましたし、家康の方が年齢もかなり上。「長幼の序」(年長者と年少者の間で当然守るべき道徳的な秩序)を守ったとも言えるでしょうが、同じ立場になれば、多くの人が、秀頼と同様の行動をするのではないでしょうか。

現在の二条城、唐門前
現在の二条城、唐門前(※写真はイメージです)

大坂の陣において、豊臣家は滅亡し、秀頼は自刃して果てることになります。その前に、徳川方は、大坂城に参集した浪人の追放や、秀頼の国替(大坂城の退去)を求めていました。秀頼がこれを受け入れていれば、豊臣家は滅亡しなかった可能性が高いと筆者は推測します。が、血気盛んな浪人たちが群れ集まっているのを解散させるのは、容易なことではないでしょう。秀頼は引き返すことができないところにまで、足を踏み入れていたのです。これが秀吉ならば、上手くこの危機を乗り切った可能性もありますが、そこはやはり温室育ちの2代目の限界があったと言えましょうか。

家康が長生きしたから秀忠も二代目として軌道に乗れた

秀忠も同じ2代目ではありますが、秀頼とは違い、偉大な父(徳川家康)が生きていました。強力な後ろ盾が生きていたことも、秀忠に有利に働いたと思います。『徳川実紀』が記すように、秀忠には武将としての才はなかったと言えますが、温厚で、父の路線を忠実に守るという「美徳」が備わっていました。「守成は創業より難し」との言葉がありますが、秀忠は守成にはうってつけの指導者だったと言えましょう。乱世向きの指導者ではなく、平時に向いた指導者ということです。

さて、関ヶ原合戦が家康率いる東軍の勝利で決着し、慶長6年(1601)1月、家康と秀忠は大坂城の西の丸にいましたが、3月3日には、豊臣秀頼と家康父子は西の丸で対面しています。その場では猿楽が演じられたそうです。このとき、秀忠と秀頼は、どのような言葉を交わしたのでしょうか。残念ながら『徳川実紀』には、その言葉までは記されていません。

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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