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「井伊の赤鬼」と恐れられた直政は実は名将ではなかった…関ヶ原の合戦後42歳で死んだ徳川四天王最年少の生涯

  • 2023.11.13

美男子で知られ、武将としても強かったとされる彦根藩主井伊家の祖・井伊直政。経営史学の視点から徳川家臣団について研究する菊地浩之さんは「直政は、家康にとって大事な合戦では意外なほど戦っていない。むしろ和睦の使者になるなど文官として働いており、“戦の申し子”というのは後世に創られたイメージではないか」という――。

※本稿は、菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)の一部を再編集したものです。

図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)
永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)(図版=国立国会図書館デジタルコレクション)
現在の浜松市にある井伊谷に生まれ、父は今川家に殺された

井伊兵部ひょうぶの少輔しょう直政(1561~1602)は、幼名を万千代、通称を兵部少輔といい、家康より19歳年下で、「徳川四天王」「三傑」の1人。

遠江国引佐郡井伊谷(浜松市北区引佐いなさ町井い伊谷いのや)を11世紀初頭から代々治める国人領主・井伊家に生まれた。徳川家よりも由緒ある名門家系で、父・井伊肥後守直親が家康に内通した疑いにより今川家に殺害されてしまい、幼少期を寺で過ごした。天正3(1575)年2月に浜松で鷹狩りをしていた家康に見出され、小姓に召し抱えられた。

天正年間に初陣をかざり、天正10(1582)年6月の本能寺の変の際には、堺見物から伊賀越えに至るまで、小姓として家康に付き従った。同年の甲斐侵攻に三陣。旧武田家臣の徳川家への帰属交渉に手腕を発揮し、小田原北条家との講和の使者となった。旧武田家臣を多く附けられ、同家中の「山県やまがた(昌景まさかげ)の赤備あかぞなえ」を継承して、全軍朱の甲冑をまとった「井伊の赤備え」をつくった。

天正12(1584)年の長久手の合戦で、三好秀次(のちの豊臣秀次)軍を急襲して赤備え軍団が鮮烈なデビューを飾り、直政は「赤鬼」と恐れられた。

天正18(1590)年の小田原合戦に参陣し、合戦後の関東入国で徳川家中筆頭の上野箕輪12万石に封ぜられた。

関ヶ原の合戦で先陣を切ったが島津軍を追って負傷

慶長5(1600)年9月の関ヶ原の合戦では、家康の四男・松平薩摩守忠吉(直政の娘婿)に附いて先陣を切ったが、島津軍の敗走を追って鉄砲疵きずを受けた。

合戦後に近江国佐和山18万石に転封された(のち彦根に移った)が、前述の鉄砲疵がもとで、2年後の慶長7(1602)年に死去した。享年42。

直政の死後、長男・井伊兵部少輔直勝(1590~1662)が跡を継ぎ、彦根城を築いたが、病弱ゆえに廃嫡され、元和元(1615)年に次男・井伊掃部頭かもんのかみ直孝(1590~1659)が家督を継いだ。直孝は幕閣で重きをなして30万石に加増され、幕府からの預かり分も含めて近江彦根藩35万石と称した。幕末の当主、大老・井伊掃部頭直弼は日米修好通商条約を締結して横浜を開港し、安政の大獄を起こしたことでも有名である。

井伊家は江戸開府以来、一度も転封を経験したことがない譜代大名としては珍しい家系である。それは、西国大名が蜂起して徳川将軍家に一大事が起こった場合に、譜代の筆頭として先鋒を承るからだといわれている。そのため、他家からの養子を迎えることがタブーとされ、現当主(井伊直岳氏・彦根城博物館館長)が井伊家400年の歴史で初めての婿養子だという。

幕末の大老・井伊直弼などを輩出し現在まで続く井伊家

また、三代・直澄なおずみ、四代・直該なおもり、六代・直恒なおつね、十代・直禔なおよしには正室がいない。これは直政が嫡男・直勝を廃嫡した反省から嫡出にこだわらず、優秀な男子を跡継ぎにするために正室を置かなかったと、まことしやかな伝説が伝えられている。

家紋は「橘」、旗紋に「井桁いげた」を使用する。「徳川十六将図」では衣服に家紋を付けていることが多いが、井伊直政は橘紋を付けられている。

永禄3(1560)年、桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、徳川家康が織田信長と組んで離反。家康に呼応して東三河の国衆が一斉いっせいに今川家から離反する「三州錯乱」が起き、その動きが遠江にも波及する「遠州忩劇そうげき」が起きた。

永禄5(1562)年、井伊家の当主、直政の父・井伊肥後守直親(1536~62)は家康に内通した疑いにより殺害されてしまう。直親内通の疑念は晴らされるものの、今川家はことあるごとに井伊家に疑念を抱き、井伊家はそれを払拭するため、直親の遺児・虎松(後の井伊直政)を出家させる。一方、虎松の母は、今川家臣で遠江の国衆・松下源太郎清景(松下之綱の従兄弟)に再縁して、虎松を清景の養子とした。

天正3(1575)年2月、浜松で鷹狩りをしていた家康は、15歳の虎松を見かけて召し抱えた。そして、虎松が名門・井伊家の遺児であることを知り、井伊万千代と改名させ、旧領を復して井伊谷を治めさせた。

徳川十六将の家紋
出典=『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)
猛将のイメージがある直政だが意外に合戦をしていない

井伊直政は譜代筆頭の猛将としてその名を知られているが、実際はそんなに合戦の数が多いわけではない。

『寛政重修諸家譜』等から「徳川四天王」が合戦に参陣した件数を数えてみると、本多忠勝が34件、榊原康政が24件、酒井忠次が20件である。これに対し、井伊直政はわずか9件しかない。特に遠江で徳川・武田軍が熾烈しれつな合戦を繰り広げていた頃、直政は合戦で高名を上げたという記載がなく、実際のところ、ほとんど参陣していなかった可能性が高い。

井伊直政の初陣は、天正4(1576)年2月7日、16歳で遠江芝原にて家康が武田勝頼軍と遭遇した時に敵を討ち取ったことだといわれている。状況の説明でわかる通り、これは合戦ではなく、護衛に近い。従って異説があり、天正6(1578)年3月、18歳の時、駿河田中城(静岡県藤枝市)攻めの参陣を初陣とする説もある。翌天正7年に天龍河原の陣に参陣したという説もあるが、いずれも不確定な情報らしい。

武将としてのデビューは22歳のとき和睦の使者として

「確実に言えることは、日常的には浜松に在住して浜松城主の家康に近侍しており、家康が出陣した折にはそれに御供し、配下の者を指示して敵と交戦する機会もあったが、基本的に本陣に配され、馬廻りとして主君を護衛する役割にあったという程度であろう」(野田浩子『井伊直政』)。

10代の直政は、参陣の経験はあるが、本格的な戦闘には及んでいなかったのではないか。

直政が名を上げるのは、天正10(1582)年8月の甲斐若神子わかみこ合戦である。しかし、この時も先陣を切ったとか、大将首をあげたとかではなく、22歳の若さで和睦の使者に派遣されただけだ。

また、家康の甲斐侵攻で、直政は武田旧臣を徳川家に帰属させる交渉を行い、奉行人として活躍している。武田旧臣の本領を安堵あんどする安堵状、もしくは宛行状あてがいじょうが200通以上確認されているが、直政は67通を発給し、トップの件数を誇っている。

われわれは、のちに井伊直政が「井伊の赤鬼」と呼ばれる猛将であることを知っている。そのため、本多忠勝のような、若年から「戦の申し子」であるように錯覚してはいまいか。ここまでの履歴を見る限り、直政は部将ではなく、文官として活用されていたのだろう。戦国時代の識字率は相当低かったと想定されるが、直政は寺で修行した経験があり、文官として有用だったのだ。

本能寺の変後の甲斐・信濃経略が成功し、徳川家は5カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)領有の大大名に躍進。旗本「一手役之衆」の中から鳥居元忠・平岩親吉を甲斐の抑えとして手薄になったため、直政を抜擢したのだ。

直政は若かりし頃かなり気が強かったらしい。家康が旗本「一手役之衆」に登用する必須条件である。家康は直政を旗本「一手役之衆」に登用するにあたり、自らの近臣3人を直政の直臣とし、武田旧臣および関東牢人ら117人を与力に附けた。さらに天正12(1584)年には井伊谷三人衆を与力とした。

井伊谷三人衆とは、もともと井伊家を支えていた有力者である。「家康が進出してくる直前頃の井伊氏では、一門・重臣・同心の『七人衆』が中核となって政務をみていたと推測できる」(野田浩子・前掲書)。そのうちの3人(井伊谷三人衆)が、永禄11(1568)年、家康に同心して井伊谷に招き入れ、家康の遠江経略に大きく貢献したのだ。

直政が率いる「井伊の赤備え」は武田旧臣が主力の混成部隊

『井伊直政』の著者・野田浩子氏は「井伊谷三人衆は、直政の召し出し当初は附属されず、家康の直臣として活躍している。彼らは軍事的能力に優れていたため、その能力を活かすには軍事的に重要な場所に配置するのが有効と考えられたのであろう」と述べている。当初、家康は直政を文官として登用するつもりだったから、すぐさま井伊谷三人衆を与力としなかったという見方もできよう。

直政が率いる部隊は武田旧臣が主力であり、異なる出自の者からなる混成部隊だったから、甲冑を朱色で統一することで一体感を醸成した。いわゆる「井伊の赤備え」である。旧武田軍では飫お富ぶ兵部少輔ひょうぶのしょう虎昌とらまさの部隊が赤備えをはじめ、虎昌の切腹後に実弟の山県三郎兵衛尉ひょうえのじょう昌景が赤備えを継承した。家康は武田信玄を信奉していたから、その最強軍団「山県の赤備え」にあやかって、直政の部隊を再編成したのだ。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)
「井」の旗印を掲げた赤備えの井伊直政軍が先陣を切る様子 狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ただし、当初、家康は「井伊の赤備え」の事実上の部隊長を直政ではなく、木俣きまた 守勝もりかつだと考えていたらしい。天正11(1583)年、信濃高遠口に「井伊の赤備え」を派遣した際、「直政自身は出陣しなかったが、木俣守勝が甲州の諸士を率いて高遠口へ向かったという」(野田浩子・前掲書)。たとえば、本多忠勝の部隊が忠勝抜きで行動したという話は聞いたことがない。

長久手の合戦の時点では直政の働きはイマイチだった

また、長久手の合戦で、先鋒の「井伊隊士は敵を目前にして隊列を乱してしまう。これを見た家康は『木俣めはなきか。腹切らせ候わん』と、木俣守勝が隊士にうまく指示を出せていないとして立腹したという」(野田浩子・前掲書)。家康は直政を一人前の部将とは思っておらず、副将の木俣こそが部隊の中核だと考えていたのだろう。

実際、長久手の合戦での直政の働きは、旗本「一手役之衆」としてイマイチだったらしい。「合戦が始まり、鉄砲隊の攻撃の後、騎馬武者による合戦になると、直政自身が敵の中に駆け入って敵の母衣ほろ武者と組み合った。家康家臣の安藤直次はこれを見て(中略)大将は戦闘の様子を見て隊の進退を指揮するのが役割であるとして、一武者のように敵と組み合う行為は大将がするものではないと忠告したという」(野田浩子・前掲書)。直次が老練な部将だったわけではない。当時31歳、直政より7歳年長なだけだ。

部下の武将たちが恐ろしく強かったから名声が高まった

しかしながら、長久手の合戦で池田恒興・森長一(長可ながよし)を討ち取った「井伊の赤備え」は、秀吉軍に大きなインパクトを与えた。

家康軍は遠江で何度となく「山県の赤備え」に苦汁を吞まされていたが、そもそも秀吉軍は「赤備え」軍団を見たことがなかっただろうから、「井伊の赤鬼」の評判が高まったのは不思議ではない。井伊直政は名将ではなかったが、「井伊の赤備え」が恐ろしく強かったから、そのトップに据えられた直政が猛将だと認識されたのだ。

直政の妻は松井松平周防守忠次(一般には康親)の娘である。松井忠次は東条松平家の家老で、のちに家康から松平姓を賜った。

弘治2(1556)年に日近ひぢか城の奥平貞友が今川家に叛そむいた時、家康が今川家の人質で、父・広忠は天文18(1549)年3月に急死していたため、家康の名代として東条松平家の松平忠茂が岡崎の兵を率いて日近城を攻めたが、討ち死にした。

忠茂の遺児・家忠が幼かったので、母方の伯父・松井忠次が家宰を代行した。ところが、この忠次が猛将だったので、家康から松平姓を賜り、常に武田・北条に対する最前線を任された。忠次は家忠の補佐役も兼ねていたから、家忠も最前線に配置された。

東条松平家系図
出典=『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)
家康の四男・忠吉の舅として関ヶ原で先陣を切る必要があった

家康としては、自分の人質時代に名代として自軍を率いてくれた忠茂の遺児であるから、東条松平家+松井家が徳川の先鋒としてふさわしいと考えていたに違いない。

菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)
菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)

松平甚太郎家忠が嗣子なきまま死去すると、家康は四男・松平薩摩守忠吉(初名・忠康)をその養子とした。そして、忠吉の妻に井伊直政の娘をあてた。かくして、東条松平家+松井家から井伊家を経由して忠吉に繋がる血縁ラインができあがったのだ。

ここで思いだされるのが、関ヶ原の合戦で、直政・忠吉が物見と称して、戦の先陣を切った故事である。家康のアタマの中では、徳川家の先鋒を務める忠次・家忠の後継者、直政・忠吉が関ヶ原の合戦の口火を切ることが必須だったのであろう。

そして、関ヶ原の合戦後、井伊直政は近江佐和山(のち彦根)、忠吉は尾張清須に置かれた。これは、西日本で有事の際に忠吉を本隊とする軍が先陣を務め、その先鋒に直政を配置するという構想であろう(ただし、忠吉もまた嗣子なきまま死去してしまい、その後継者として、家康の九男・徳川義直が尾張清須〈のち名古屋〉に配置された)。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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