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家康は「早く裏切れ」と小早川秀秋に催促したわけではない…関ヶ原合戦の「家康神話」が崩壊する衝撃的新説

  • 2023.11.12
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慶長5年(1600)、関ヶ原で起こった徳川家康率いる東軍と豊臣方・西軍の戦い。歴史学者の呉座勇一さんは「家康の見事な勝利とされ、勝因のひとつが西軍の小早川秀秋の陣に向けて鉄砲を撃ち、裏切りを催促した『問鉄砲』(といでっぽう)だと言われてきたが、近年の研究で問鉄砲はなかったことがわかってきている」という――。

※本稿は、呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

朝8時、徳川四天王の井伊直政が先陣を切って合戦が始まった

9月15日の午前8時頃、まだ霧が立ち込める中、合戦は始まった。東軍先鋒の福島正則隊の横をすりぬけて、徳川家重臣の井伊直政が娘婿で家康四男の松平忠吉と共に最前線に出て、西軍の宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ちかけて合戦の火ぶたを切ったという。これは、徳川軍主力を率いる家康嫡男の秀忠が関ヶ原に間に合わないという誤算が生じたため、徳川家の威信を示すべく家康が抜け駆けを命じたとされる。

両軍は一進一退の攻防を繰り広げた。西軍宇喜多隊と東軍福島隊との戦い、西軍石田隊と東軍諸隊との戦闘は特に激しかった。石田三成は松尾山の小早川隊と、南宮山の毛利諸隊に参戦を促したが、両者ともに動かなかった。

焦ったのは西軍の石田三成だけではない。東軍の徳川家康も同様であった。裏切りを約束した小早川秀秋がいつまでも動かないのを見た家康は右手の指をしきりに噛んで「せがれめにはかられた」とつぶやいたという。小早川隊が形勢を観望しているため、関ヶ原の西端において展開されている戦闘は膠着こうちゃく状態に陥ってしまった。

【図表1】関ヶ原合戦・東軍西軍布陣図
出典=『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
内通した小早川秀秋が動かず、家康も西軍の三成も焦った

家康は黒田長政を介して吉川広家と密約を結んでいたが、南宮山毛利勢の総大将である毛利秀元は内通には関与していなかった。南宮山の麓に陣取る先鋒の広家が動かず、後方の毛利諸隊の通行を禁じているため毛利勢は進撃できていないが、秀元はいずれ広家の内通を看破し、南宮山の毛利勢が一斉に下山して攻撃に移るであろう。そうなれば関ヶ原東端において大規模な戦闘が開始され、東軍は東西から挟撃されることになる。動揺した東軍内部から裏切りが発生する最悪の事態をも想定しなければならない。

業を煮やした家康は、正午過ぎ、小早川隊に向けて、旗幟きし鮮明を求める挑発の鉄砲を撃ちかけた。いわゆる「問鉄砲といでっぽう」である。逆上した小早川隊が東軍に襲いかかってくる可能性もあったから、危険な賭けである。だが、この冒険策は図に当たった。若く戦場経験の浅い秀秋は恐慌をきたし、西軍攻撃を指示した。かくて1万人を超える大軍が松尾山を下り、西軍最右翼の大谷吉継隊めがけて突入した。

しかしながら吉継は、秀秋の異心を見抜いていたため、かねてから備えていた600の精兵をもって防ぎ、西軍の平塚為広・戸田重政隊も小早川隊の側面を突いた。小早川隊は思わぬ反撃に二度三度と松尾山に押し戻された。

大谷吉継は小早川勢を防いだがさらなる離反者に倒された

ところが、東軍藤堂高虎の合図に従って、事前に内応を約束していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四隊が一斉に離反して西軍に攻めかかった。さしもの大谷隊らもこれには支えきれず壊滅、吉継は自害した。

小早川隊の参戦を見た家康は、全軍に総攻撃を命じた。小早川隊の裏切りと東軍総攻撃によって、西軍は総崩れとなった。大谷隊の壊滅でまず小西隊が崩れ、宇喜多隊も潰えた。小西行長・宇喜多秀家は戦場から離脱した。石田隊は最後まで抗戦したものの、ついに崩され、三成は伊吹山方面へと逃走した。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)。左下に松尾山に陣を敷いた小早川軍(違い鎌の旗印)が描かれている(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

かくして天下分け目の戦いは、東軍の圧勝という形で幕を閉じたのである。

家康が小早川軍を徴発した「問鉄砲」は本当にあったのか

関ヶ原合戦の通説的叙述は、『日本戦史関原役』『近世日本国民史家康時代上巻』などに拠った。これらの文献が主な典拠としたのは、『関原軍記大成』に代表される江戸時代の関ヶ原軍記である。

ところが近年、白峰旬氏が従来の関ヶ原合戦像を根底から覆す新説を発表した。白峰氏は精力的に関ヶ原関係の論文・書籍を発表しているが、氏の関ヶ原論で最も重要なものは、「問鉄砲」の否定であろう。

白峰氏は史料を博捜はくそうし、関ヶ原合戦直後の史料や江戸時代前期に成立した編纂へんさん物には「問鉄砲」の記述がないことを明らかにした。白峰氏によれば、「問鉄砲」の初出は元禄元年(1688)成立の『黒田家譜』だという。白峰氏の新説提唱後、学界で研究が進展し、現在確認されている「問鉄砲」の初出史料は植木悦が著した軍記物『慶長軍記』である。同書は寛文3年(1663)に成立しているので、『黒田家譜』よりは20年以上早いが、それでも関ヶ原合戦から半世紀以上を経ている。一連の研究により、「問鉄砲」が後世の創作であることはほぼ確定したと言える。

従来、「問鉄砲」という家康の無謀と紙一重の大胆な策が勝因と考えられてきた。たとえば歴史学者の笠谷和比古氏は「東軍優勢という当面の戦局に即してのみ見るならば、小早川に挑発鉄砲を撃ちかけるというのは、常軌を逸した行為と言わざるをえないだろう。すなわち家康が、そのようなリスクを犯してもなお小早川隊に向けて挑発の鉄砲射撃を敢行したということは、それを実行しなければ、それ以上のリスクが到来するという状況認識を抜きにしては理解できないということである」と論じている(『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』)。

家康がリスクを取って勝利したという「神話」は崩壊?

だが「問鉄砲」が史実でないとすると、神がかり的な家康の軍事的判断によって、当日午前中の一進一退の攻防から一変して東軍の劇的な勝利に終わったという関ヶ原合戦像はその前提を失い、「家康神話」は崩壊する。白峰説が歴史学界にもたらした衝撃の大きさは容易に理解されよう。

では「問鉄砲」が原因でないとしたら、小早川秀秋はなぜ西軍を裏切ったのか。白峰氏は、そもそも小早川秀秋は裏切りを逡巡しておらず、開戦直後に寝返ったと主張している。白峰氏は主張の根拠となる一次史料として、(慶長5年)9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(「堀文書」)を挙げる。

松平家乗は家康の家臣で(一門衆)、関ケ原合戦当時は三河国の吉田城の守備を担当していた。石川康通・彦坂元正は、これまた家康の家臣で、17日時点で佐和山城を守っていた。要するに、前線に近い石川と彦坂が関ケ原合戦の結果を後方の松平家乗に伝達したのである。

関ヶ原の合戦が行われたエリア
関ヶ原の合戦が行われたエリア(※写真はイメージです)
「開戦と同時に小早川らは裏切った」と記した当時の書状

同史料には、「十五日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子の四人が(家康に)御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した」という記述がある。これに従えば、開戦まもなく小早川秀秋らは裏切ったことになる。

その後、白峰氏は根拠となる史料を追加して、主張を補強している。(慶長5年9月17日)吉川広家自筆書状案(『大日本古文書吉川家文書之ニ』922号)には「(東軍が西軍を)即時に乗り崩され、悉く討ち果たされ候」「内府様(家康)直に山中へは押し寄せられ合戦に及ばれ、即時に討ち果たされ候」とあり、このことから、やはり開戦直後に東軍の勝利が決まったと説く。「山中」とは、従来戦場と考えられていた平坦な「関ヶ原」の西に位置する山地である。

天下分け目の合戦はあっけなく家康の勝利で終わった

白峰氏は「山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて『即時』に敗北したのが事実であった。従来の通説では、合戦当日(9月15日)の午前中は一進一退の攻防であり石田方の諸将は善戦したとされてきたが、このように石田方の主力諸将は関ヶ原に打って出て家康方の軍勢と華々しく戦ったわけではなかった」と論じている(『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

加えて、(慶長5年)9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状(「陽明文庫」)でも、前久は関ヶ原合戦について、東軍が「即時」に切り立てて「大利(大勝利)」を得たと伝えている。東軍関係者以外の同時代人が伝える戦況情報という点で軽視できない。同書状では小早川秀秋の裏切りにも言及しているが、秀秋の裏切りによって大谷吉継が討たれたとのみ記しており、秀秋の逡巡や「問鉄砲」、吉継の善戦については語っていない。通説が語る関ケ原合戦の展開は後世の創作である、と白峰氏は結論づけている。

白峰説はおおむね首肯できるが、小早川秀秋が開戦前から不審な動きをしていたため石田三成らが大垣城から関ヶ原に移動したという推定に関しては、根拠としている吉川広家の証言などの信用性から疑問が残る。

総じて白峰氏は、「問鉄砲」による劇的な勝利を否定しようとするあまり、開戦前に東軍の圧倒的優位が確立していたことを強調しすぎているように感じられる。先入観に囚われず通説を根本から問い直すことは重要だが、インパクトの強い新説を提示することじたいが目的になってしまったら本末転倒である。白峰氏の「問鉄砲」否定論の功績を多としつつ、白峰説を批判的に継承していくことが今後の関ヶ原合戦研究では求められよう。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教
国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。

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