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「女性が自分より上の結婚相手を求めるのは本能だから仕方ない」と考える女性が完全に見落としていること

  • 2023.11.7

どうすれば女性も男性も生きやすい世の中になるのか。雇用ジャーナリストの海老原嗣生さんは「女性の中でも都合のよいジェンダー論を振りかざしている人がいる。次世代に嗤われないようにアンコンシャス・バイアスと向き合っていく必要がある」という――。

独身者も次世代社会の継続について考える義務がある

この連載は、少子化対策を主テーマとするものではありません。女性(そして男性も)が、窮屈な思いをせず生きていくためには、どうしたら良いかを考えています。

「私は一生独身で通し、そのための貯蓄も万全だ」
「将来、老後は施設に入って過ごす。なんの心配もない」

もちろん、そんな主義・信条も認めるべきでしょう。

ただ一方で、社会には適性数の「人間」が必要であり、それが不足すると、自分たちの生活が損なわれるということも忘れないでください。

私が尊敬する研究者の一人、慶應大学の権丈善一先生(商学部教授)から教えていただいたのですが、年金の世界には「Output is central」という言葉があるそうです。意訳するなら、「生産活動は何より大切だ」となるでしょうか。

よく、年金問題について訳知りな人が「現状の賦課方式がいけない、積み立て方式に変えるべきだ」という話をします。賦課方式というのは、現役世代のお金で、高齢者を扶養するということで、これだと、少子化により若年者が減ると、現役世代の一人当たり負担が増えてしまいます。一方、積み立て方式であれば、各自が現役時に積み立てた年金額を、各自がそれぞれ高齢期に使うというものなので、少子化でも負担は増えません。一見、積み立て方式のほうが合理的と思われがちですが、実際は多々問題が生じます。たとえば、積み立てたお金がインフレや経済騒擾そうじょうなどで価値低減してしまうこと。実際、戦中に積み立て方式で始まった厚生年金制度は、戦後のハイパーインフレを乗り越えられず、以後、賦課方式へと移っていきました。予想以上に寿命が延びて、想定額では足りなくなってしまうこともあります。現行年金は制度設計時にここまでの寿命の延びを想定していなかったので、積み立て方式であれば、人生の晩年が無年金となっていたはずです。

介護者と高齢者の手
※写真はイメージです
高齢期に必要なサービスを提供してくれるのは誰か

そして何よりも忘れてはならないのが、「Output is central」=生産活動は何より大切、なのです。

もし、各自は各自の貯蓄で生きていくとしても、高齢期にあなたが入所する施設では誰が働くのでしょう? 施設に入らない場合でも、買い物や飲食や配送などは利用するでしょう。そうしたサービスは、誰が提供してくれるのでしょう?

少子化が進んだ社会では、生産活動を行う人材が不足します。そこで人の採用競争が激化し、人件費が急上昇する。結果、モノを買うのも、サービスを受けるのも、想定以上に出費がかさむようになるでしょう。それで、貯蓄不足に陥り、生活レベルは下がっていく……。「何よりも生産活動が大切」と気づいていただけたのではないでしょうか。

つまり、「私は独身で自由に生きたい」という人たちも、その分、次世代社会の継続については、真摯しんしに考えてほしいと思っています。

検索すると大量に見つかる残酷な写真

もう一つ、この連載で伝えたかったことは、見えない差別と常識、というもの。それがとても危ないものであり、私たちは常々気を付けるべきだということ。

少し遠い話をしながら、この連載で書きたかったことを、確かめてみたいと思います。

気分を悪くする内容が含まれていますが、お許しください。

こんな写真がネットをググると大量に見つかることを、皆さんはご存じですか?

着飾った女性たち。時代を表すのか、ペチコートを履いたAタイプの花柄ドレスを身にまとい、こちらに向かって笑顔でほほ笑む淑女のわきには、屈強な白人男性が立っています。

周り中、こうしたカップルや子連れ家族が溢れています。

中には、ピクニックシートを広げて、お弁当を食べる人たちもいます。

風景や服装から察するに、アーリーアメリカン、1940~50年代の米国の地方都市でしょう。

日本で言えば、さながら、花見にでも来たようなスナップに他なりません。

さて、写真の上のほうを見ると、この日のメイン・イベントがくっきりと映っています。

それが何だかわかりますか?

リンチされて吊るし首になった黒人です。

死体の袂では、まるでサンドバッグのようにファイティングポーズをとる勇者もいます。

こんな写真が、ひっきりなしに出てくるのです。

パソコン
※写真はイメージです

中には、年端も行かない少女がVサインをしていたり、うら若き美女が死体を見つめて笑っているものもあります。生きながら焼かれた奴隷が、炎でその轡が焼けほどけたため、身体の自由を取り戻し、熱さを逃れようと、吊るされた樹の上方へと必死に上る姿を映したものさえあります。悲しいことに、彼の両手の指はすでにもぎとられていたので、上るに上れず、焼けただれて死んでいく写真。それが、当時は絵葉書になって発売されていたそうです。

後世から「ありえない」と思われる蛮行

こうして吊るされた黒人の多くが、レイプなどの疑惑をかけられていました。そこで、死体からは(時には生きたまま)、彼らの性器がもぎり取られます。このイニシエーションに、紳士淑女たちは喝采を送っていたというのです。

世界的に見れば、ナチスドイツが行ったユダヤ人やロマへの虐待・虐殺が糾弾されていた「開明的な」時代において、自由の国アメリカで、この蛮行がなされていたというパラドックス。

このスナップ写真に写った紳士・淑女は、皆、当時のアメリカ地方都市で「常識的」に生きていた人たちです。彼らと同じ街に住む彼らの末裔まつえいたちは、この写真を見たら、「ありえない」と悲嘆にくれるでしょう。

でも、黒人迫害時代の先祖より、現代の子孫たちが人として優れているわけではありません。どちらも、「同時代の常識」に感化されてできたクライテリアに従って、物事を判断しているにすぎないでしょう。

黒人も白人も同じ人間であり、命の尊さは変わらない。ユダヤ人への迫害が許されない中で、黒人へのリンチが許されるはずもない! そんな現代人の常識を当時叫んでも、時空を超えたこの正論は、「珍奇な非常識」と嗤われただけでしょう。

常識が社会を包み込み、大多数の人はそれに抗えないということが分かっていただけたでしょうか。

「やってはいけない行為」を積み重ねてきた

「アメリカはひどい国だなあ」と、我関せずには、ならないでほしいところです。

たとえば我が国でもほんのつい最近まで、男性同士の恋愛は「気持ち悪いもの」だとされて、厄介者扱いされていたのを覚えていませんか。

実名を出して恐縮ですが、好感度No1芸人と言われるサンドウィッチマンさんの「エステ」というコントでは、お客役の伊達さんに、店員役の富澤さんがおもむろにキスをしようとするシーンがあります。そこで伊達さんは、「お前、あっちなのか、きっもち悪ぃ」と言う。会場は大爆笑。これは2014年の初演になります。直近、同じネタを見たときには、この部分はカットされていました。

もう少し時をさかのぼり、平成序盤では、ゲイのことを差別的に「ホモ」と呼び、彼らは、同性への色欲に狂っていると揶揄されることが普通でした。「お前、ホモに狙われるぞ」などと何気なく口にしたものです。そうした世の「常識」をとんねるずさんは、「保毛尾田保毛男(ホモオダホモオ)」というキャラクターに仕立て、まさに笑いの的にしていたこと、覚えている人も少なくないでしょう。

保毛尾田保毛男が2017年に「とんねるずのみなさんのおかげでした30周年記念SP」で一晩だけ復活した時、世間からは猛バッシングを受けたのも記憶に新しいところです。

2017年大晦日には、浜ちゃん(浜田雅功)が扮したエディ・マーフィも物議をかもしました。真っ黒い肌、分厚い唇といった人種的特徴を揶揄するその行為に対して批判が湧いたのです。ただ、当時のアンケート調査だと、大多数の視聴者はこの演技に疑問を抱いていません。

それらは、「過去の常識」と「今の常識」の邂逅点で起きたトラブルであり、それ以前の日本では、先ほどのアメリカと同様に、「やってはいけない行為」が積み重ねられてきました。

テレビ
※写真はイメージです
時代時代の常識が女性を苦しめてきた

私たちは、常に、同時代の常識に左右されて、人倫に悖る行動をしてきた(いや、している)と大いに反省すべきでしょう。

この連載では、時代時代の常識が、どれだけ女性を苦しめてきたか、を書きました。少子化はその結果生じた歪みであり、おおもとのアンコンシャス・バイアスを取り除かない限り、それは快復に向かわないでしょう。

小手先の「異次元対策」などは、焼け石に水のはずです。

差別される側が平気で差別をする問題

2020年に黒人男性ジョージ・フロイド氏が、警察の不適切な拘束行動により絶命しました。そこから、全米中にブラック・ライヴズ・マター運動が広がり、それがトランプ政権を倒す一つのきっかけにもなりました。ただ、同時期にコロナ禍のアメリカで、アジア人が多数、暴行を受け、「国に帰れ」と罵られるヘイト活動も頻繁に起きています。あれだけ、差別の辛さを訴えた人が、一方では平気で差別をしている……。その大多数が黒人によるものでもありました。

そう、「差別される側は常に正しい」などということは決してないのです。

少しレベルの低い話をすると、女性差別撤廃を謳う人たちが、「男らしさ」には鈍感であったり、ルッキズム批判をしたその一方で、イケメンと口にしていたりもする。本年初夏、ある女性団体のパーティに出席した時、その会の会長女性が、登壇した女性代議士(常日頃ジェンダー差別撤廃を謳う)相手に「お若いですねぇ」と連発していた時も鼻白む思いをしました。

同様に、キャリアカウンセリングを生業にする女性団体で、「最近の学生は◎◎だ」というレッテル貼りを口にするのを聞いたときも閉口したものです。「女は◎◎だ」という話と同じでしょう。たとえそういう傾向があったとしても、「平均値の論理」「100:0の悪用」を思い出してほしいところです。

「女性は生物学的に良き遺伝子を求める」というトンデモ発言

私は、かつてジェンダー問題と少子化を憂うセミナーを開催したことがあります。その講演内容は、本連載に書いてあることとほぼ同じ。当然一節で、「女の人は、結婚相手の男性に、自分より年収・社会的地位が上の人を望む傾向がある」という話をしました。もちろん、それは、過去に労働社会への参加が許されなかった女性が、安定を求めるため結婚を選ぶ。その弊害なのだとも、本連載の通りに説明しています。社会全体として、こうしたアンコンシャス・バイアスを取り除いていかなければならない。そのためには、意識だけでなく、労働や賃金なども現代風に変えねば、というのが私の主旨でした。

結婚式
※写真はイメージです

会場には、男女差別撤廃を主張する女性参加者が圧倒的多数を占めています。

そして聴衆女性の一人から、最後の質問時間にこんな意見が述べられました。

「先生は、女性が自分より上の男性を求めることに違和感を抱きますが、私はそれが当然のことと思っています。女性は生物的に男と違います。女性のDNAには、『良き子孫を残したい』という思いが刻み込まれています。それは本能であり、どうしようもない話です」

この話に、なんと会場からは、けっこうな拍手が湧いたのです!

私は天を仰ぎたくなる気持ちになりました。

こんな話にはいくらでも反証を挙げられます。

「もし、お説ごもっともだとして、ならば、『優秀な男は何人も奥さんを貰ってもいい』と一夫多妻制が謳われたらどうしますか? それも動物社会の掟だ、と諦めますか?」

「子育ては生物学的に女性がするもの、などという駄論が長らく高らかと謳われていました。それにも違和感はないですか?」

「逆に、男・雄には、自分のDNAをたくさんの女性にばらまくという本能があります。そこからかつて、『不倫は文化だ』とおっしゃったトレンディ俳優がいましたが、これはどう思いますか」……。

結局、今、「女性は差別されている」と訴える人たちも、現代の「常識」を使って、都合の良い部分だけジェンダー論を振りかざしているだけではないか、と暗澹たる気分になりました。

男女同権が近づく中で、今度は女性にバトンが渡される

今の世の中は、男女で考えれば、まだまだ女性が不利なことが多いのは確かです。だから、連載ではあえて、「男の悪い部分」を中心に書きました。そのため、男性からは不評を買うことになったと思っています。

ただ、今回は連載本文では書きませんでしたが、女性が全く間違っていないなどということもあり得ません。ここに記したように、女性の側からも、ジェンダー絡みの問題発言が上がることは多く、それが今は、見過ごされがちです。そうした点にも襟を正してほしいところです。

彼・彼女らは数十年後の子孫からは、嗤われるのではないでしょうか。

私たちは、自分の足元を常に見つめ、その行動はだれかを傷つけているのではないか、と気を遣い続けることが大事だと思っています。

海老原 嗣生(えびはら・つぐお)
雇用ジャーナリスト
1964年生まれ。大手メーカーを経て、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。広告制作、新規事業企画、人事制度設計などに携わった後、リクルートワークス研究所へ出向、「Works」編集長に。専門は、人材マネジメント、経営マネジメント論など。2008年に、HRコンサルティング会社、ニッチモを立ち上げ、 代表取締役に就任。リクルートエージェント社フェローとして、同社発行の人事・経営誌「HRmics」の編集長を務める。週刊「モーニング」(講談社)に連載され、ドラマ化もされた(テレビ朝日系)漫画、『エンゼルバンク』の“カリスマ転職代理人、海老沢康生”のモデル。著書に『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』(ともにプレジデント社)、『学歴の耐えられない軽さ』『課長になったらクビにはならない』(ともに朝日新聞出版)、『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書)などがある。

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