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関ヶ原の家康は圧倒的に不利だった…山と西軍8万に囲まれた状態から勝利を掴んだ作戦の全貌

  • 2023.11.5
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石田三成がまとめた西軍8万対徳川家康率いる東軍7万。まさに戦国時代の総決算となった関ヶ原の戦い。歴史学者の呉座勇一さんは「この合戦では家康の権謀術数がいかんなく発揮され、計算通りに戦局が推移したと語られてきた。たしかに、開戦前の調略において、家康は既に多くの味方を引き入れていたようだ」という――。

※本稿は、呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

関ヶ原の戦場史跡
岐阜県の関ヶ原古戦場(※写真はイメージです)
関ヶ原合戦は家康の見事な政治的勝利と考えられていた

関ヶ原の戦いは、日本史上最も有名な戦いの一つであろう。徳川家康による覇権を確立させた天下分け目の戦いだからである。この戦いの勝者である家康の采配に対しては、江戸時代は言うに及ばず、近代においても惜しみない賛辞が寄せられてきた。

たとえば徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代中巻』(1923年)で次のように語っている。「関原役に至りては、家康の辣腕らつわんのもっとも辣なるものであった。その始中終しちゅうじゅうは、既刊の関原役の一冊〔上巻〕において叙述している。平心にこれを一読したる諸君は、いかに家康が腹黒き大策士であり、しかしてまた用心深き政治家であり、しかしてさらに堅実無比の大将であるかを知るにおいて、余りあるであろう」と。

関ヶ原合戦においては徳川家康の権謀術数がいかんなく発揮され、家康の計算通りに戦局が推移したかのように語られてきた。そうしたイメージを決定づけたのは、司馬遼太郎の名作歴史小説『関ケ原』であろう。

近年の研究では「家康神話」が覆りつつある

だが近年、白峰旬氏らが新説を提唱、「家康神話」を否定し、関ヶ原合戦像を大きく塗り替えた。そのインパクトは絶大であり、最近では、新説を批判し通説を再評価する見解も提出され、論争が続いている。ここでは通説を再確認しつつ、研究史を振り返り、関ヶ原合戦研究の最前線を紹介する。

まずは、通説が語る関ヶ原合戦の経緯を確認しておこう。慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が没した。後継者の豊臣秀頼はまだ幼少だったので、秀吉の遺命により、五大老・五奉行による集団指導体制によって豊臣政権は運営されることになった。けれども、五大老筆頭の徳川家康は秀吉の死を好機と見て、諸大名を取り込み、豊臣政権の簒奪さんだつを企む。このため、家康の野心を警戒した大老の毛利輝元や奉行の石田三成らも派閥を形成して、家康に対抗した。

ところが翌4年閏3月3日、大坂城で秀頼を守っていた大老の前田利家が病没すると、家康派と反家康派の力の均衡が崩れる。家康の実力が他を圧し、その専制を抑止することが困難になったのである。

五大老の前田利家が死に、家康を止める人はいなくなった

利家が没した日の夜、いわゆる七将襲撃事件が起き、石田三成が失脚する。続いて同年9月、家康暗殺計画が取り沙汰され、家康は五大老の一人である前田利長(利家の嫡男)らに嫌疑をかけた。翌5年5月、利長は母の芳春院を人質として江戸に送り、家康に屈服した。

続いて家康は、五大老の一人である上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、5月末、家康は会津征伐を決定した。6月15日、家康は豊臣秀頼から軍資金を獲得し、会津征伐を豊臣政権の公戦と位置づけることに成功した。同月18日、家康は伏見を発し関東に下った。7月7日、家康は諸将を江戸城で饗応し、同月21日を出陣の期日とした。ところが、家康が上方からいなくなった隙をついて、石田三成・毛利輝元らが挙兵し、大坂城を占拠、豊臣秀頼を確保した。家康は上方での異変を把握していたが、予定通り江戸城を発ち、24日、下野小山(栃木県小山市)に到着した。

翌25日、家康は小山に集めた諸将と善後策を協議し、会津征伐中止と反転西上を決定した。いわゆる「小山評定」である。なお近年、白峰旬氏が小山評定虚構説を唱え、本多隆成・笠谷和比古・藤井讓治の各氏が反論し、改めて実在説を唱えたが、ここでは論争の評価には立ち入らない。

「徳川家康肖像画」
「徳川家康肖像画」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
家康が豊臣家臣を味方につけた小山評定には虚構説もある

翌7月26日から東軍諸将が西上した後も家康は小山に逗留し8月5日に江戸に帰還している。そして家康は、江戸に1カ月近く留まる。西軍は豊臣秀頼を擁しており、豊臣恩顧の大名である福島正則らが東軍から離反しない保証はなかったからである。西軍の重要拠点である岐阜城(現在の岐阜市)を正則らが攻略したとの報を受けた家康は9月1日、ようやく重い腰を上げ、東海道を西に進んだ。

家康は9月14日には美濃国の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に到着し東軍諸将と合流、同地の岡山に本陣を置いた。美濃の大垣城の西軍諸将は家康の突然の出現に動揺した。そこで石田三成の家老である島左近が手勢を率いて杭瀬川を越えて、赤坂の東軍を挑発、追撃してきた敵を伏兵で討ち取った(杭瀬川の戦い)。いわば前哨戦であり、この勝利によって西軍は落ち着きを取り戻した。

徳川家康は9月14日の夜、諸将を集めて軍議を開いた。正徳3年(1713)に成立した宮川忍斎の『関原軍記大成』によれば、池田輝政・井伊直政は大垣城攻略を主張したが、福島正則・本多忠勝はこのまま西上し、大坂城にたてこもる西軍総大将の毛利輝元と一戦交えるべきだと説いた。

【図表1】関ヶ原合戦・東軍西軍布陣図
出典=『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
いよいよ西軍に対する家康の陽動作戦が始まる

家康は大垣城攻めをすれば時間を費やすこと、西軍の小早川秀秋や吉川広家が内応を約束していることなどを考慮して、大垣城を素通りしてただちに西進し、三成の居城である近江佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を落とし、さらに大坂まで進撃することにした。

これは西軍の本拠を一気に衝く策だが、旧日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』(1893年)以来、家康はあえて作戦を秘匿せず、東軍が上方に向かうという情報を流した、と考えられてきた。家康の真の目的は、西軍を大垣城外に誘い出し、家康得意の野戦に持ち込むことにあったというのだ。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代上巻』(1923年)で「そはこの野戦において、西軍の主脳に大打撃を加え、彼らをして一敗地に塗れしむるは、東軍として、最も得策であるからだ。すなわち家康としては、西軍が城を出ずれば、もっとも妙、しからざればこれに頓着なく、前進すべく、いわば両途かけたのだ」と解説している。

西軍8万対東軍7万、包囲された東軍が不利と思われたが……

はたして西軍は動いた。美濃と近江の国境に全軍を進め、近江への街道を封鎖することで東軍を阻止する作戦に出たのである。大垣城には福原長堯ながたからを残し、西軍の諸隊は石田隊を先頭に、夜陰の中を行軍し、南宮山の南を迂回うかいして関ヶ原に全軍を展開した。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

最初に到着した石田三成は、北国街道を押さえる笹尾山に陣を敷いた。ついで島津義弘がその南で北国街道沿いの小池村辺りに、小西行長がその南の北天満山、宇喜多秀家がさらに南の南天満山に布陣した。もう一つの近江に至る街道である後の中山道を扼やくする山中村辺りは、北国攻めから戻ってきた大谷吉継らの部隊が既に占拠していた。さらに南の松尾山には、小早川秀秋の部隊が入っていた。南宮山には毛利勢が従前より布陣していた。『日本戦史関原役』によれば、西軍の総兵力は7万9000人であったという。

西軍が大垣城を出たことを知ると、家康は進軍を開始した。15日寅の刻(午前3時頃)のことである。東軍の諸隊も相次いで関ヶ原へと向かった。明け方、東軍は関ヶ原に到着し、西軍に対して東方に布陣した。その数は7万人ほどとされる。兵力はほぼ互角であるが、後方の東を大垣城の西軍に、前方の西を西軍主力に、南を南宮山の毛利勢に、北を山に包囲された東軍は、傍目はためには圧倒的に不利だった。

しかし実際には松尾山の小早川秀秋や南宮山の吉川広家(毛利勢の先鋒)が東軍に通じており、包囲網は穴だらけだった。西軍は東軍の先回りをして万全の布陣を整えたつもりだったが、既に家康の術中にはまっていたのである。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教
国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。

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