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96歳の現役保育士が流した汗と涙…東京女子大を中退し嫁ぎ先の"命令"で資格取った女性の「働き続ける理由」

  • 2023.10.28
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東京女子大の数学科にいた20歳の頃、突然舞い込んだ縁談。嫁ぎ先は栃木県足利市の名家だった。保育園を始めるという義母の方針に従い、産まれたばかりの次男を背負いながら保育士の資格を取った。連載「Over80 50年働いてきました」第11回は、96歳の主任保育士・大川繁子さん――。

3000坪を超える敷地が園児たちの遊び場

栃木県足利市の西部、JR両毛線小俣駅から北へ徒歩15分ほどのところに、「奇跡の保育園」と呼ばれる園がある。その名も、「小俣幼児生活団」。かつての名主屋敷が丸ごと保育園となっている、里山に抱かれた保育園だ。ここでは今も、96歳の保育士が現役で働いている。

園庭を走る小俣幼児生活団の子供たち。近くに自転車に乗れる広いグラウンドもある。
園庭を走る小俣幼児生活団の子どもたち。近くに自転車に乗れる広いグラウンドもある。

木造の門をくぐれば、総二階建ての重厚な造りの古民家に目が釘付けとなる。母屋だった建物で、ペリー来航の2年前の嘉永4年に建てられたものだという。母屋を中心にいくつもの蔵や納屋などがあり、これら江戸期や明治期の建物が園舎として今も使われている。

3000坪を超える敷地には、小高い山や森や梅林や池があり、全て園児たちの遊び場になっている。ここは「子どもたちの、昼間の大きな家」なのだ。

東京女子大の数学科を中退して結婚へ

大川繁子さんは今から78年前、母親と一緒に、この門をくぐった。東京に住んでいた2人は戦時中、大切な荷物を遠い親戚にあたる大川家に「疎開」させており、戦後、そのお礼に伺ったのだ。

東京に戻ってすぐ、大川家から使いがきた。「あの娘を、息子の嫁にもらいたい」

当主きっての願いだった。

小俣幼児生活団 主任保育士 大川繁子さん
小俣幼児生活団 主任保育士 大川繁子さん

繁子さんは1927(昭和2)年、東京に生まれた。1945年4月に東京女子大学数学科に入学、戦争末期ゆえ、女子大生も軍需工場での労働に追われたものの、戦後は本来の大学生活が待っているはずだった。なのに、繁子さんは大学を中退して結婚するのだ。

連載「Over80 50年働いてきました」はこちら
連載「Over80 50年働いてきました」はこちら

なんともったいない話ではないかと、首を傾げるこちらに、繁子さんはお茶目に笑う。華奢な身体つき、時折補助はいるものの自分でしっかり歩き、エレガントなブラウスに指には華のあるリング。センスある装いと朗らかな笑顔に、96歳への思い込みが吹き飛んでいく。

「私、あまり家事をしないから、嫁の貰い手がないだろうと思っていたから、請われたところに行くほうがいいかなって。請われた時に行かないと、一生、行けないなと思ったの」

この屋敷には私の涙と汗が染み付いている

当時の女性にとって、結婚しないという選択はあり得なかった。父を早くに亡くした繁子さんは祖母と母という、“働く女”の下で暮らしていた。祖母は東京で助産婦や看護師の派遣会社を営み、家には常時、助産婦や看護師の“卵”である住み込みの女性が大勢いて、家事は全て、その女性たちが担うため、繁子さんは何不自由ない暮らしを送る、気楽な女子大生でもあった。

嫁いだ後は広い屋敷の掃除、川での洗濯、子育てにあけくれた
嫁いだ後は広い屋敷の掃除、川での洗濯、子育てにあけくれた

それが一転、山深い土地にある旧家の“嫁”になったのだ。しかもこの大川家、名主であるばかりか、近隣の農家に機織り機を貸与して機織りを依頼、製品に仕上げて呉服問屋に送るという、足利一帯に栄えた織物業の「元機屋」として、地域経済の中核として栄えた由緒ある家柄。

「結婚すると言っても、相手がどんな人か全く知らなくて嫁いできて。あとは、ただ、ひたすら嫁です。この屋敷には、私の涙と汗が染み付いているんです」

義母の言うことは全部聞いた

一家の権力を握っていたのは、義母だった。産婦人科医の婿養子を取り、一家の大黒柱として君臨した。

「家付きの娘だから、お婿さんを取ったの。だから家の中でも一番、威張っていた。綺麗な人で、姿もいいし。その頃は、お姑さんの言うことは、全部聞かないといけない時代」

嫁として一日中、広い屋敷の掃除に明け暮れ、川で洗濯をして、夜は毎晩、うどんを打つ。

「この辺では毎晩、粉からうどんを打たないといけない。何一つ、家事なんてしたこともないし、お米の研ぎ方もわからなかった。それを、一から教えてもらって。その家の決まりがあるから、後から来た嫁さんは従わなきゃならないの」

裕福な家の、気楽な娘として過ごしてきた繁子さんが、よくこんな嫁の不文律に耐えたものだと思う。しかも義父は産婦人科医だったため、その手伝いも嫁の仕事だった。

「赤ちゃんが産まれるのは夜が多くて、夜中に門をどんどんと叩きに来る。私は母屋の2階で寝ていて、起きて門に行って、『何ですか?』と聞くと、『お産が始まったんだけど、なかなか、出てこないので、先生に来てほしい』と。おじいちゃんを起こしに行くと、スッといい機嫌で起きてくれて、それはとても助かりました。それから、門の崖下に住んでいる車夫を起こしに行くんです。月が煌々と照っている時はなんか、怖かったですね。それから、おじいちゃんが帰ってくるまで、ずっと起きて待っているんです」

次男を背負いながら勉強し、保育士の資格を取得

義母は、当時の最先端の教養を身に付けた人でもあった。名家に生まれ、東京の女子高等学校へ進学した。北白川宮家の執事が遠縁に当たり、下宿先は何と北白川宮家。

繁子さんの横で見守っている、次男の眞さん(73歳)は「小俣幼児生活団」の園長だ。眞さんは、祖母についてこう語る。

「ナミばあさんは東京にいた時、当時、できたばかりの幼稚園を見聞して、非常に感銘を受けたらしいです。それは、女性が主体となって事業をやっていることにあったようです」

東京で外交官の妻となり、自分も活躍したいという夢を持っていたが、長女が駆け落ちしたため、家を継ぐこととなり、足利に戻ってきた(大川家には代々、長女が駆け落ちする“悲恋物語”の伝説があるらしい)。

繁子さんは70年以上前、姑が保育園を開園するタイミングで保育士の資格を取った
繁子さんは70年以上前、姑が保育園を開園するタイミングで保育士の資格を取った

繁子さんは結婚して2年後、長男を出産した。孫が生まれたことで、開明的な義母の関心が幼児教育に向かう。繁子さんはこの経緯をよく覚えている。

「姑が役所に、『幼稚園を作りたい』と相談に行ったら、『これから保育園というものができるから、それにしたらどうか』と言われ、保育園を作るには保母が必要で、それで私に、保母の資格を取れとなったわけです」

姑の言うことに、逆らえるわけがない。繁子さんは当時生まれたばかりの眞さんを背負って勉強をし、宇都宮まで試験を受けに行った。

「みんな、実技で落ちちゃうって。でも私がピアノの実技をやったら、別のグループの子どもたちも私のピアノのそばにやってくる。ピアノを弾いて汽車ごっこをするとか、動かしたりすると、子どもが面白がって……」

ここに、繁子さんが今でも大好きな「リトミック」へと繋がる流れを見える。保育士資格は、ここで無事に取得した。

主任保育士となって60年

1949年に保育園創設に当たり、「小俣幼児生活団」という名は義母がつけた。「自由学園」の影響を受けており、大正時代からの自由教育の流れを汲むという意味を込めたのだ。

繁子さんは3人の息子が中学生になったのを機に、本格的に保育士の仕事を始める。35歳の時だった。眞さんが、こう話す。

「うちで開催した保育研究会の仕切りを、ナミばあちゃんは母に任せたんです。それで、ナミばあちゃんから『保育の責任者は、あなただ』と言われて、そこから母は主任保育士として60年働き、今に至っています」

園長より現場のほうが、ずっといい

義母が亡くなったお葬式の場で、園の理事会はこう言い渡した。

「主任保母は、引き続き繁子さんに。園長は、眞さんに任せる」

眞さんは当時、25歳。大学卒業後にデザイン学校で学んで、卒業したばかり。

「なんで、おれが? って、信じられませんでした。母親でいいだろうと」

繁子さんはお茶目に笑って、一言。

「私だって園長なんか、やりたくないもの。園長なんか、バカらしくて。現場のほうがずっといい」

しかし、このおかげで「小俣幼児生活団」には、画期的な新風が吹き込まれることとなった。眞さんは自身が求める幼児教育を探す中、モンテッソーリ教育に行き着いた。そして数年かけて、保育士をモンテッソーリ教師養成コースに送り込み、園長も繁子さんも、保育士も全員、同じ思いで、モンテッソーリの自由保育を柱にした、子どもの育ちの場に「小俣幼児生活団」を作り上げることとした。

96歳の力強いピアノで5歳が元気よく踊る

築170年の古民家、玄関を入ってすぐの板張りの広間に、小さなピアノが置かれている。繁子さんが眞さんに手を引かれ、スッと椅子に座る。その姿勢は、ピンと美しい。細くて長い指が鍵盤に置かれるや、力強く、歯切れの良いピアノの音が室内に響き渡る。

今は週に2、3回出勤する。リトミックの時間は繁子さんが担当
今は週に2、3回出勤する。リトミックの時間は繁子さんが担当

ピアノの音を聞くや、外で遊んでいた子どもたちが次々と広間にやってきて、リズムに合わせて身体を動かす。弾んだり、ジャンプしたり、スキップしたり、揺れたり、捻ったり、音を身体で捉え、リズムや音の強弱、高低に合わせて自由自在に動いていく。どの子からも、楽しくてたまらないという笑顔が溢れている。友達と一緒に動くことが、とてもうれしそう。繁子さんが奏でるのは、即興のリズムとメロディー。楽譜通りに弾くのが、嫌いなのだと言う。

繁子さんのピアノにのって子どもたちが思い思いに体を動かす
繁子さんのピアノにのって子どもたちが思い思いに体を動かす

これが96歳になった今でも担当する、繁子さんが大好きでたまらない「リトミック」だ。何と力強く、変幻自在なピアノなのだろう。子どもたちと繁子さんが一体となって織りなす、自由闊達かったつな活劇を見ているよう。

子どもたちが待っていてくれるから

「子どもはリトミックが好きで、私がピアノを弾くのを待っていてくれる。私もリトミックが好きで楽しいから、いくつになってもやりたいんです。読み聞かせも大好きで、リトミックと語りは今も、私の担当です」

最初は、“ヨメ”からのスタートだった。命令されて取った保育士資格ではあったが、一生の仕事として保育士として身を立て、その仕事を今も全うする。繁子さんにとって働き続けることは、どういうことなのだろう。

「嫁の時は私を認めてくれる人なんて、誰もいませんでした。やっぱり、そういうことだと思うんです。認められるということ。今も子どもたちは、私のピアノを待っていてくれますから」

昔話に出てくるような大きな古民家には、今日も力強いピアノの音と、野生児のようなたくましい子どもたちの笑顔が溢れている。

繁子さんと年長の子どもたち
繁子さんと年長の子どもたち

黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。

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