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『春画先生』内野聖陽インタビュー

  • 2023.10.10
『春画先生』内野聖陽インタビュー

(笑)なんじゃ、これは!という感じでした

いにしえから人間の性愛を描いてきた春画。特に江戸時代の浮世絵師たちが描いた作品は大胆な着想で「笑い絵」の異名もとる芸術だ。そんな春画に魅せられた変わり者の研究者と、しっかり者の弟子の師弟コンビの風変わりな冒険を描いた塩田明彦監督作品『春画先生』。

タイトルロールでもある春画の研究者、芳賀一郎を演じるのは内野聖陽だ。尋常ではない春画愛を炸裂させ、老練なのにどこか初々しくもある芳賀が弟子の弓子と2人で春画の世界にのめり込んでいく様を真剣に、滑稽でチャーミングに見せる。

春画というテーマについて、撮影や共演者について語る内野本人は穏やかな口調で、紡がれる言葉1つ1つも気取らず、それでいて深い。演技者としての自身を語るとき、「内野」と俯瞰、あるいは客観視するように自称するその理由も、話を聞くうちにわかってくる。人気シリーズ『きのう何食べた?』などで、さらに演技の幅を広げ続ける彼に話を聞いた。

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──春画がテーマと聞いて、実はちょっと身構えて拝見したのですが、思った以上に楽しく、そして衝撃的なところもたくさんありました。
内野:僕も台本を読んだ瞬間、衝撃でしたね。(笑)。なんじゃ、これは!という感じでした。
──性愛の描写について、扱い方や撮影環境など、これまで以上に細心の注意を払うようになりつつある今、春画という題材はリスキーとも言えそうです。
内野:なるほど、確かにそうかもしれません。法令遵守とかハラスメントとか、性犯罪の事件も多いし、性に関する話題はある意味、ピリピリモードですよね。
──そこに敢えて臨んで、艶っぽくて笑えるお話にした塩田監督はさすがだと思いました。
内野:すごいですよね。
──そして、その中心に春画先生として存在している内野さんが素晴らしいです。

内野:素晴らしいかどうかは分からないですけども(笑)。今の文脈で考えるなら、この教授の春画に対する哲学は「生の肯定」「生きとし生けるもの全てを肯定すること」だと思います。生命の謳歌というか。 “大らかに笑い飛ばしていいんだ”と解放してくれるものがありますね。
──私自身、春画に抱いていたイメージが変わりました。
内野:僕は今回出演するまで、春画がこんなに大らかなメッセージを持つものということを知りませんでした。もっと淫靡なもので、人知れずひそやかにムフムフ(笑)と楽しむものというイメージの方が強かった。そんなジメジメしたものではなく、もっとカラッと笑ってしまっていい芸術だというのを、出演して初めて知りましたね。
──出演したいと思われた理由も、その辺りにあるのでしょうか。
内野:僕は役者として、なんというか……健康的なものとかホームドラマとか、実はあんまり得意じゃないんですよね。得意じゃないというか、役者として表現者としてはもう少し毒のあるもの、影のあるものとか、人が目を背けたくなりそうなものの方が味わいや深さ、面白みがあると思ってしまうところがある役者なんです。だから、『春画先生』というタイトルだけでも引き寄せられた感は確かに最初ありましたね。“何? 春画先生? エッチな講義をするんですか?”みたいな(笑)。普通にそういう好奇心をかきたてられました。

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相手役・北香那の「萌え~」な瞬間とは?

──春画というモチーフにためらいなどがあったのではと予想したのですが……
内野:むしろ逆です。ためらいどころか「お! 来たか!」と(笑)。僕にはどんなパブリックイメージがあるのか知りませんが、僕自身の中では面白そうなお話が来たというのが一番大きな原動力です。
──春画のこともあまりご存知なかったそうですが、演じるにあたってどんな準備をされましたか?
内野:まずは春画鑑賞、というところから始まりました。実際コレクターの方にお会いして、実物を見せていただいたりもしましたね。
春画の歴史=浮世絵の歴史でもあります。浮世絵史の裏バージョンみたいなところがあるので、江戸時代まで遡った春画の流れを学びました。明治の文明開化で日本の性風俗に対する見方がどんどん変わっていった流れとか、春画にまつわる歴史を知ることで、春画に対する感じ方も変わりました。
キャラクターについては、芳賀は弓子を理想の女性に近づけようとしていくようにも捉えられるシナリオでしたが、塩田監督からは「その場の冒険を楽しんでいるような感じで見せてほしい」ということだったので、その冒険の中で生まれるアクシデントを楽しんで、偶発的に転がっていく物語になるように演じ方には気を付けるようにしていましたね。

──確かに、思いもよらぬ展開に巻き込まれていく芳賀先生と、先生と一緒に春画の魅力にはまっていく弓子の様子を楽しみました。
内野:弓子に『野菊の墓』のヒロインみたいな和服を着せたり、元妻のドレスを着せたりしますが、その前に彼女の反応を想像してドキドキしている。そういう内面の興奮は全て裏にしまって、表出している物は淡々としている。でも、心の裏では弓子の装いを見て、(拳を作って)「よっしゃッ!」と言っている感じ(笑)。そこを一番要求されたので、なるべくそぎ落として淡々とした演技を心がけるようにしました。
──先生の中で色々な感情が渦巻くのが、そこはかとなく伝わってきました。
内野:よかった(笑)。それが狙いだったので、ちょっと可愛くそれが出るといいなと思っていました。いろいろ突飛な行動もしますが、本人は至って真剣です。それが生っぽく出るといいなと思いながら演じました。
──先生も弓子も本当に大真面目で、その真剣さが空回りするおかしさも微笑ましかったです。弓子を演じた北香那さんとの共演はいかがでしたか?
内野:彼女はまさに体当たりでしたね。この作品と塩田監督、僕と一緒に仕事をするのも楽しんでくださって、期待してくださっていたし、全身全霊で現場に立ち向かってくる感じが素晴らしく素敵でした。それはとりもなおさず芳賀先生が期待している女性像とすごく重なりましたね。弓子が直情的にカッとなった時の表情とか、先生としては「萌え~」な瞬間だったろうし、内野個人としても素敵だなと思った瞬間がたくさんありました。

安達祐実さんはリハーサルから全身全霊で来てくれた

──北さんとは以前に『罪の余白』(2015年)という作品でも、一瞬だけ共演されていましたね。
内野:そうなんですよ。こんなご縁もあるんだなと思いました。ただ、僕は今回が初共演だと思っていたんです。そしたら、彼女がある日「実は内野さんと共演したことあるんです」と言ってきて、「え? ないよ。ないない!」なんて僕は答えて(笑)。すると『罪の余白』でのあるシーンを説明してくれて、「あの時の君か! じゃあ初共演じゃないじゃん」となったんです。
──そういうエピソードがあると、役者同士の関係性は変わったりしますか?
内野:そうですね。少し楽になれます。それに前回はほんの一瞬だけでしたが、今回はしっかり彼女の女優魂を見せてもらいました。
──芳賀の亡妻とその姉の2役を演じる安達祐実さんとの共演も強烈でした。

内野:安達さんはリハーサルから全身全霊で来てくださいました。非常にインスピレーションをいただけて、僕としては脚本を読んだだけでは分からなかった部分について、なるほどね、と感じさせてもらったことがたくさんありましたね。
──撮影で特に印象に残っているシーンはありますか?
内野:作品のポスターに登場している先生と弓子が並んで春画を見ているシーンですね。弓子が初めて先生のお家に訪ねてくるところで、弓子とガッツリ絡むシーンの撮影はこれが最初でした。芳賀一郎が他人とどんな距離感で接するのかを初期設定する段階だったので、何十テイクと重ねました。2人の関係性を出すためのシーンなので、「もうちょっと抑えて」とか、監督から細かく指示がありました。セリフに乗っかる内野のサービス精神みたいなものがあるのですが、それを極力排除してくれと言われまして(笑)。セリフの抑揚もなくして、ぶっきらぼうに聞こえるぐらいのところでやってみてくれと言われて、何度もやってようやくOKが出ました。

──さっきもおっしゃいましたが、本当にそぎ落とす作業だったのですね。
内野:そうですね。あまり色がつかない方がお客さんも想像するじゃないですか。一体この人、何を考えてるのか?と。印象的なシーンでしたね。
──芳賀一郎というキャラクターは、鑑賞するプロだと思います。一方で俳優というのは逆に、演じて見せるプロで、正反対の立場のように感じました。
内野:鑑賞者のプロ……。役者は演じるプロと仰いましたが、自分の演技に対する鑑賞者でもなくてはいけないというか。自分の生み出すものを鑑賞ではないけれど、生み出したものについて、ああでもないこうでもない、とダメ出しする側でもあるんですよ。

極論を言ったら内野聖陽という役者が作り出す演技にイチャモンつけるのも内野聖陽だったりする。マサアキ(本名)かもしれないけど。……微妙な話だな(笑)。
ウチノセイヨウという役者がやることに対して、普通の感覚で見るウチノマサアキが「それって面白くなくない?」とか「ダサくない?」とツッコミを入れる鑑賞者でもあるんですよね。どこかセルフプロデュースみたいに、「そっちの演技は違うでしょう」という自分もいるんで、表現者でありながらウチノの演技の鑑賞者でもあるみたいなところはどこかあるな、と今お話ししながら、ふと思いました。
──ご自分に厳しいですね。
内野:そうですか? こういう芝居ダメだろうって、そんなことばっかりですね。

『きのう何食べた?』乙女キャラのゲイ役で振り切れ、自由になれた

──ところで先ほどパブリックイメージという言葉が出ましたが、私のイメージする内野さんは骨太なキャラクターを演じてこられたという印象が強いです。
内野:そうですね。散々、オスっぽいキャラクターにこだわってましたね。
──それが、2019年に始まってドラマや映画化もされた『きのう何食べた?』で矢吹賢二役を演じたあたりから、いい意味での軽やかさが加わってきて、その新しい印象が春画先生にも活きていると思いました。何か心境の変化があったのでしょうか?
内野:これはいろいろなところで話していますが、乙女キャラのゲイの役をやることですごく振り切れて自由になれました。男性らしさというものは時代によって作り出されるものだと強く感じましたね。
昭和43年(1968年)生まれの僕が身につけた男性らしさというのは、昭和一桁生まれの父と少し年下の母に育てられた時代がベースにあります。昭和時代は長いから“昭和的”というのもザックリすぎるけど、“男は黙って”とか“男子厨房に入らず”とか、そんな薫陶を受けて育っている世代なわけですよ。知らず知らずにインプリンティングされた昭和的男性像みたいなのを背負って生きている部分はあったな、と賢二さんをやって初めて気づいたところもあります。
「なんだ、俺が今まで背負ってきたのは育った時代や環境がすごく影響していたのか」と。それが取り払われて、自由に演技できる自分を発見したんです。なんてことない日常のお話ですから、気張らなくていいという感覚が身についたような気はしていて。『きのう何食べた?』をやり始めて、あの役の出会いによって、もっと自由なはずだよね、と自分の中で何かがちょっと変わってきた感覚はありますね。

──最後に、この映画ではヒロインの弓子が春画との出会いで大きな転機を迎えましたが、内野さんご自身にとっての大きな転機をお聞きしたいです。
内野:人生の中で、ですよね。いろいろあるんでしょうけどね、忘れちゃったな(笑)。でも一番大きな転機と言ったら、やっぱりこういう仕事を選んじゃったっていうことでしょうね。人生という大きなスパンで考えると、引っ込み思案で人前に出ることが好きではない人間が、なんで大勢の人前に出る仕事を選んじゃったのかな、というのが不思議といえば不思議なんですよ。それこそが転機かもしれないですよね。僕は俳優に憧れて俳優になったタイプじゃないので、なぜに役者なんていう道に身を投じてしまったのかが自分でも不思議だし、転機といえば大きな転機ですね。
──どうして役者になろうと思われたのですか?
内野:たまたま大学時代に英語劇をやって、ものを表現するということが自分に必要だったのかもしれないと思うようになったんですね。僕は実家が寺で、将来が宿命的に決まっていたところに生まれたから、青春時代は非常に悶々と悩みました。内にあるものを外に表出させたい欲求が強かった。ものを表現するということの一つの現れが演技ということだったのかな、と今は思っています。

[動画]内野聖陽、北香那に偏愛する春画を吐息を漏らし手ほどき『春画先生』映像

(text:冨永由紀/photo:小川拓洋)

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