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「ブギウギ」笠置シヅ子の波乱万丈人生。

  • 2023.10.6

10月(2023年)から始まったNHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」が、好スタートを切った。主人公のモデル・笠置シヅ子の人生を、実際のエピソードと自身の言葉、写真でたどった1冊が、本書『笠置シヅ子 その言葉と人生』(宝島社)である。

笠置シヅ子は、昭和23年(1948)に「東京ブギウギ」が大ヒット。「ブギの女王」と呼ばれ一世を風靡した昭和の大スターだ。彼女の曲は今日に至るまでたびたびカバーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けている。

本書では、関係者のインタビュー取材のほか、笠置シヅ子の一人娘・亀井ヱイ子さん監修のもと、親族しか持ち得ない貴重な私的写真を収めている。

「私の半生には幾つもの因縁がついてまわっております」

ドラマでは冒頭、生まれたばかりの娘を劇場の楽屋まで連れ、ステージに立つ気丈な主人公の姿に圧倒された。

だが、実際の笠置シヅ子はさまざまな陰影に彩られた人物だったようだ。本人が書いた自伝『歌う自画像 私のブギウギ伝説』(昭和23年刊、北斗出版社)もこのたび宝島社から新装復刻された。同書からの引用も多いので、併せて紹介しよう。

シヅ子本人は自らについて、以下のように書いている。

「私の半生には幾つもの因縁がついてまわっております。誠にわれながら宿命の子だと思います。この自伝をひもどくにつれて、そのひとつひとつが、はっきして来ますが、その因縁の一つは、私も、私のたったひとりのヱイ子も陽かげの子なのです。生まれながらにして父を知らぬ不幸なめぐり合わせは、奇しくも母子二代にまたがっているわけです」(『歌う自画像』)

大正3年(1914)、笠置シヅ子(本名・亀井静子)は、香川県の現東かがわ市で産まれた。父母の結婚は認められず、母が育てることになった。そんな時、出産のために隣の町に里帰りしていた亀井うめという女性と出会った。うめは次男を出産した。

乳の出が悪い生母に代わり、うめがシヅ子に乳を与えた。よくなついていたので、亀井家の養子となって大阪へ出た。生後6か月ごろのことで、シヅ子がその事実を知るのはずっと後になってからだという。ドラマでは、そんな事情を知らない天真爛漫な娘として描かれている。

芸事が好きなシヅ子は宝塚少女歌劇団を受験するも、身長が足りずに不合格となり、松竹楽劇部に目標を切り替えた。募集は終わっていたが、熱意が認められた。先輩スターの部屋子となり、雑用をこなしながら歌や踊りの稽古に打ち込んだ。

大阪松竹座で初舞台に立ち、「三笠静子」という芸名で知られるようになった。そんな中、昭和10年(1935)、大正天皇の第4皇子である澄宮崇仁さまが成年に達し、三笠宮家を創設されることになり、「三笠」を名乗るのは畏れ多いという配慮から「笠置シズ子」と名乗ることになった。

昭和12年(1937)、松竹は松竹歌劇団(SKD)の新たな拠点として東京に浅草国際劇場をオープン。こけら落とし公演に大阪からシヅ子も出演。熱演が認められ、創設されたばかりの松竹楽劇団(SGD)にスカウトされた。

服部良一の指揮棒が奏でるオーケストラに乗り、歌い踊った。評論家の双葉十三郎は「天性のスウィング娘」と賞賛したという。

才能が高く評価され、東宝への移籍話、戦時統制が強まる中での松竹楽劇団の解散、そして「笠置シズ子とその楽団」としての独立と、目まぐるしい時期を過ごした。

最愛の人との別れ、出産

日中戦争が始まると、ジャズを歌う敵性歌手として何度も警視庁に呼び出され、舞台にも妨害が入るようになった。そんな中、出会ったのが吉本興業の創業者吉本せいの次男で、早稲田大学の学生だった吉本穎右(えいすけ)である。

2人は恋に落ちる。その後、穎右は大阪、シヅ子は東京と離ればなれになるが、妊娠が発覚する。穎右は出産前に他界。シヅ子は自分ひとりで育てることを決意する。

再起を図るシヅ子は服部に曲を依頼。昭和22年(1947)、「東京ブギウギ」のレコーディングが行われた。翌年の日劇公演「東京ブギウギ」で爆発的ヒットとなった。服部はシヅ子にこう指示したという。

「とにかくブギは、からだを揺らせてジグザグに動いて踊りながら歌うんだ。踊るんだ。踊りながら歌うんだ」

「東京ブギウギ」は敗戦から立ち直ろうとする日本の活力の象徴として受け入れられた。映画の喜劇女優としても活躍。昭和23年度(1948)の著名人の高額納税者ランキングでも作家の吉川英治に次いで2位となった。

誤解された美空ひばりとの関係についても触れている。昭和23年、横浜国際劇場に出演したシヅ子は自分の持ち歌を見事に歌うひばりを面白がったという。一緒に撮った写真も載っている。

ところが、昭和25年(1950)、シヅ子の米国公演の一足前にひばりが渡米することが判明。服部は音楽著作権協会を通じて、渡米中のみ作品の使用を禁じる旨を通告。ひばり側は許可が得られないまま渡米した。翌年、NHKのラジオ番組で共演し、和解が報じられたが、不仲伝説はそのまま残ったのだ。

その後、40代になり歌手を廃業して女優業に専念。芸名を笠置シヅ子と改め、テレビドラマ、歌謡番組の審査員などで活躍。昭和60年(1985)、70歳で亡くなった。

身長150センチ程度、体重40キロに満たない小柄な身体ながら、ステージではダイナミックに歌い踊ったシヅ子。ほとんどアドリブだったという振付やカラフルなステージ衣装の写真も収められ、ビジュアルにその魅力を知ることができる。名前しか知らなかった「ブギの女王」が、身近に感じられるようになった。

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