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「豊臣軍は米がなくイモを掘って食べている」小田原征伐で秀吉軍7万人が深刻な兵糧不足に陥った当然の理由

  • 2023.10.1

徳川家康が豊臣政権に下り、天下統一を目指す秀吉にとって“最後の敵”となった戦国武将・北条氏政。戦国時代の合戦を研究する乃至政彦さんは「氏政は始め、秀吉と戦うつもりはなかったが、真田家とトラブルを起こしてしまい秀吉に軍を向けられた。しかし、遠方から移動してくる大軍を相手にして、氏政には起死回生の策があった」という――。

関東の覇者・北条氏政は信玄や謙信を撃退してきた

本能寺の変から8年、織田信長の家臣から一代で成り上がった豊臣秀吉は、今や天下の権を得ようとしていた。秀吉は、畿内から九州・四国までを制圧して、ついには徳川家康をも傘下に組み入れ、もはや天下統一まであと少しであった。秀吉の望みはもちろん、群雄割拠の戦国時代を終わらせ、確固たる統一政権を築くことにあった。

一方、戦国時代そのものを体現するような独立的な大勢力が関東の覇者として君臨していた。小田原城を拠点とする北条氏政である。

北条家は、北条早雲という後世の呼び名で知られる伊勢宗そう瑞ずい以来、五代に渡って勢力を広げており、特に氏政は、小田原城を攻めてきた上杉謙信や武田信玄を退けさせた実績を誇る。しかも既存の領主層を介さず、直接的に百姓を統治する民政ぶりには定評があり、自らの勢力を「国家」と自認するほどであった。

後・北条氏五代家系図
出典=神奈川県立歴史博物館サイトなどより編集部作成
『北条氏政の肖像』(写真=堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『北条氏政の肖像』(写真=堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

だが、関東には反北条派の領主が多く、彼らは秀吉に北条を非難する声を伝えていた。

これに困ったのは、何よりも秀吉だった。統一事業を進めてはいるが、なにも戦争が好きなわけではない。まずは関東・奥羽に私戦を停止させる「惣そう無ぶ 事じの令」を発し、氏政に上洛を要請した。

氏政は秀吉政権下に入るつもりだったが想定外の事態に

もちろん上洛は豊臣家に従属することを意味する。氏政は覚悟を決めていた。ところが上洛の期日を前にして、とんでもない事件が起こり、豊臣・北条両家の関係が破綻した。

発端は天正17年(1589)10月末に、北条氏邦(氏政の弟)家臣の猪いの俣また邦くに憲のりが、真田領の名な胡桃ぐるみ城を奪取したことにあった。

この「知恵分別もなき田舎侍」にしてやられた真田昌幸は、事件の経緯を秀吉に報告する(『北条記』)。氏政は秀吉にこの事件を小さな私的紛争と弁明を試みたが、氏政・氏邦(氏政の弟)の同意なく、一領主がこのような事件を独自に起こすことは考えにくい。

昌幸も「田舎者」の短慮にしてやられるほど甘くない。バックに北条家の思惑があったと見るのが適切だろう。秀吉は事件が起こったこと自体を問題視した。

そもそも秀吉が「大きな御家のことであるし、戦の世には行き違いなどよくあることだ、なにか理由があるのかもしれない。家中の侍がやったことなら、擁護するのも当たり前だ」などと耳を貸してやることはありえない。あってはならない。戦国時代の風習だからと布令に例外を認めていたら、統一政権など成り立たないからだ。

秀吉は北条攻めを決意し、東海道方面に進軍する

名胡桃城事件は、明確な惣無事令違反である。同年12月、秀吉は氏政を勅命に逆らう悪人だと糾弾した。

24日には、氏政の本拠地・相模小田原城を攻めるべく諸大名に動員令を発した。翌18年(1590)2月、豊臣軍は尾張・美濃・遠江へと進軍を開始する。

集まった人数は、約7万(毛利家文書によれば「六万七千八百人」)。同時に北関東からは前田利家や上杉景勝らも南下を開始して、小田原に刻々と迫っていく。
ここに創立したばかりの天下政権と、関東百年の北条政権が全面的な大戦争に突入することになった。

豊臣軍の東海道方面軍が進軍するにあたり、秀吉は東海道方面に極めて大量の兵糧を用意させ、最前線に送りつけた。
まず家臣の長束正家に、米20万石を船で駿河まで輸送して倉庫に集積するよう命じた。現地に到着した「総軍勢」に配らせるためである。

追加として、黄金1万枚(1枚1両として、2万貫相当。米にすると2万石)を手配すると、「伊勢・尾張・三州・遠州・駿州」の米を買い入れさせ、これも小田原近くまで送るよう命じた(『上州治乱記』、『太閤記』)。

最初の予定戦場は、伊豆にある山中城である。

山中城は、駿河から相模に向かう伊豆の箱根道を監視するための防衛拠点である。大軍が小田原城に迫るには、この城を制圧しなければならない。
氏政はここに歴戦の松田康長を配置して、縦横の堀を築かせ、山中城の防御性を高めていた。

氏政の家臣は落ちた敵を上から射貫く「障子堀」で対抗

現地を訪れた人なら、入念に仕掛けを施した堅城のひとつで、特にワッフルを想起させる「障子堀」の恐ろしさは、一度見たら忘れられないだろう。

大きな堀の上を狭い道が交差しており、攻め手が道を歩いたら格好の的、堀に落ちても這い上がるまで格好の的で、攻める側はどう足掻いても矢玉の餌食になるしかない作りなのだ。

山中城(障子掘)(Mocchy撮影、2009)(写真=PD-user/Wikimedia Commons)
山中城(障子掘)(Mocchy撮影、2009)(写真=PD-user/Wikimedia Commons)

長期戦間違いなしの完全なる要害である。

それゆえ秀吉は、それまでの日本史上で用意されたことがないほどの兵糧を準備させた。ここに前代未聞の大作戦が開始される。
秀吉は大量の兵糧を買い集め、前線に送らせた。にもかかわらず、現地では予期しない出来事が発生する。将兵が飢え始めたのだ。

豊臣軍が駿河を越えて伊豆に乱入する頃、山中城を預かる北条家臣の松田康長は敵情を探らせ、同年3月19日付の書状において、小田原にこんなことを伝えている。

圧倒的兵力の豊臣軍が兵糧不足に陥ったのはなぜか

(豊臣軍は)陣中の兵粮が少なくなり、野老(ヤマノイモ科の「ところ」)を掘って食べている。兵糧1升が鐚銭びたせん100文ずつで売られるほどになったが、これもすぐ売り切れてしまった。
(『戦国遺文 後北条氏編』3691号文書部分訳)

続けて康長はこの分なら敵方も「長陣」は難しいから、「早々世静に」なるだろうと楽観的な観測を述べている。

豊臣軍の飢餓状態は、ほかの文献に確かめられていないから、「事実誤認だろう」「豊臣の情報操作に乗せられたのでは?」とする見方もあるが、フロイスの『日本史』に「関白(秀吉)の兵士たちは、遠隔の地方の出であったことと、長途の旅とで衰弱しており、豊富な食糧にありつけぬばかりか、その点では不足をさえ告げていた」とあるのを無視するべきではないだろう。

北条主従も愚かではない。こんな重要局面で、敵軍の様子を見誤るぐらい無能であれば、北条相手に苦戦した上杉謙信や武田信玄も無能ということになろう。彼らに勝てなかった信長とて、その程度の武将ということになる。

第一、豊臣軍がここで兵糧不足をアピールする理由がなにもない。秀吉なら、むしろ贅沢ざんまいに振る舞って見せつけるだろう。自軍を弱く見せるより、虚勢を張ってドヤるのが好きだからだ。

米110kgで約9万円というのが当時の相場だが……

では、先の長束正家を介しての補給作戦と比較してどうなのかというと、両者の記録は意外にも一致するのである。

まず、松田康長が記した「兵糧1升が鐚銭100文ずつ」という米の値段を見てみよう。

当時の相場として、米1石(110~150kg相当、100升相当)は、1貫(9万円相当)であった。

古い日本の家に入った米袋
※写真はイメージです

そしてここに出てくる鐚銭というのは、古すぎて形の悪くなった貨幣のことだが、鐚銭3文はおよそ永楽銭1文に値する。古い300円硬貨が、新しい100円硬貨で両替されるようなものだ。

銭の価値は論者によって評価が異なる(1文60~150円が多い)が、計算の都合で1文90円で計算するとしよう。びた銭1文なら3分の1で30円だ。

米1升は本来10合のことだが、中世から近世の計算は世知辛く、なんと7.5合ほどであった。例えば江戸時代は「足軽に米を1升ずつ支給する」と言って、1升用の容れ物に75%の米だけを入れて配るのが当たり前だった。

北条氏政は米価3倍にして豊臣軍を飢えさせた

非道な話に思えるが、悪代官ではなく実際の武士が普通にそう計算していたのだから仕方がない。

するとこのとき、戦地近くでは「兵糧一升」こと米7.5合が「びた銭百文」、現代の金額で3000円になっていたことになる。そう考えると法外な値段ではなさそうに思えるかもしれないが、「一六世紀初頭の大内氏領国では、税を徴収するための巡回使節に対して、日当として一日五〇文か米五升のどちらかが支払われていた」という(川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020)。この計算に従えば、米1升は銭10文に相当する。

つまり米一升は鐚銭30文ぐらいが妥当である。それが100文で売られていたのだから、相場の3倍以上に高騰していたことになる。しかもその兵糧はすぐに売り切れた。

日本の米と稲穂
※写真はイメージです

豊臣軍の将兵にとってこれは計算外だったらしい。ここで康長は「おおっ……これは。御屋形様の計画通りになりましたぞ!」と思い、この事実を特筆したと思われる。

なにが氏政の「計画通り」だったのか? 今からそこを説明しよう。

実はかなりいい加減だった豊臣軍の兵站体制

豊臣軍の兵糧は潤沢だったかというと、そうではなかった。最初に示した秀吉が正家に命じて駿河に輸送させた兵糧20万石は、前代未聞の大変な量である。

だが冷静に考えてもらいたい。戦国時代の兵は、1日に1人1日1升(7.5合)の米を消費していた。
東海道を進む軍勢は、先に述べたとおり約7万人。1石は100升なので、1日の消費量は7万升すなわち700石。20万石からこれを割ると、285日分ほどになる。

分量は充分だが、問題は輸送力である。当時の輸送船である関船は、100~500石積みで、20万石を輸送するにはこれを400~1600隻用意しなければならないが、それがどれぐらい困難だったかというと、文禄の役で朝鮮半島に出兵していた豊臣軍の総員撤兵に動員された船舶数は、469艘。そして撤兵が完了したのは2カ月半で、往復にこれだけの時間を要している(中井俊一郎『知られざる三成と家康』2023)。

小田原合戦の豊臣軍はこの規模に相当する動員を実行したはずだが、初めての試みであったので、“想定外”の混乱は山のようにあっただろう。後述する理由から、輸送スタッフもそれほど焦ってはいなかったはずだ。

それが氏政の罠により、兵糧輸送の遅れは大変な事態を招いた。ゆえに豊臣軍先鋒は、まともな食事が取れなくなり、高値の米を買い漁ったり、芋を掘り起こしたりすることになった。
そして現地で買い取れる食品はここに尽きてしまった。もはや、明日を生きるための兵糧がない。兵糧がなければ、継戦能力はそこで終了である。

伊豆山中城を抜かなければ、北条の本拠地・相模小田原城へ向かえない。これでは兵站の準備などないに等しい。
それでも戦国時代は、こういうやり方で問題なくやっていた。だから秀吉の小田原侵攻作戦は、常識の範囲で不備があったわけではない。

戦国時代の常識は「全て自費で何とかしろ」ということ

なぜなら将士の兵糧は、配給制ではなかったからである。
戦国の兵糧は、自弁(手弁当)と現地調達がメインであった。自弁というのは、自費である。

当然のことだろう。例えば、この戦争に従軍する徳川家康は、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を領していた。ここに秀吉が「全軍の兵糧は予が用意して進ぜよう」と全ての物資を渡してくれるわけがない。むしろ米一粒すら渡さないのが普通だろう。江戸時代の参勤交代がそうであったように、「全て自費でなんとかしろ」が普通だったのである。

秀吉が送らせた兵糧は、あくまでも「もしもの時の予備」であったと思われる。そんなものなくても普通はなんとかなっていた。戦国の兵糧は、現地調達に依存していたらである。

──と言っても略奪ではない。メインは現地の商人・寺社・百姓からの買い取りだ。
戦国の「兵粮金」つまり軍資金は、このためにあった。

「相馬野成」
※写真はイメージです
遠征軍の兵糧事情は軍資金しだいだった

意外に思う人も多いと思うが、戦国時代までの中世は、平時と戦時の区別なく、通常の商取引が可能な環境にあった。

実証となるのは、応仁の乱である。10年以上もの間、東西の大軍が在京していたが、彼らが略奪で食いつないでいた形跡はない。本国から頻繁に兵糧を輸送してもいない。もしそんなことをしていたら、輸送路を狙う作戦が展開されたはずだが、そのようなことも起こっていない。

信長、謙信、信玄──彼ら名だたる戦国の軍隊はみな行く先々で兵糧を買い集めて戦争していた。金さえあれば、食料など現地で仕入れられたのだ(もちろん売ってくれない地域、孤立状態にある城には輸送した)。

理屈としては、我々が遠方のコンサート会場に行くのに、保存食を用意しなくていいのと同じである。戦国時代になっても日本の経済は崩壊するどころか発展していたことを考えれば、納得してもらえるだろう。

遠征する時は、第一に金を持っていく。ついで非常食としてカロリーメイト代わりの腰兵糧も用意する。そして可能なら、上位権力が作戦を柔軟に展開させるため、予備の資金や兵糧を用意する。

圧倒的に不利だった北条氏政はどんな作戦を立てたのか

今回の長束正家がやったのもそういう仕事だった。

豊臣全軍の兵糧を1人残らず緻密に計算して、これを問題なく配給するなどありえない。秀吉のもとに、そんなことのできる部下など育成されていなかった。文官代表のように見られがちな石田三成ですら、「武働き、ご苦労」とばかりに、最前線の武蔵忍城への攻撃に派遣されている。

天下取りの途上にあったベンチャー政権に、たった数年で官僚制を仕立てて人材を揃えられようか。そんなものは織田政権も作らなかった。あったとしたら、三成や正家の前に織田政権からそっくりそのまま流用したはずである。

小田原合戦の豊臣軍は、後世から見ると、兵站の事前準備をかなり適当に進めて「ヨシ!」としていた。これまでどおり、大将たちがお金を持参して戦場に向かい、そこで食料を買い込ませながら小田原城を取り囲む。それでなんとかなると思っていたのだ。

ここに北条氏政の勝算があった。

※この記事は「後編」に続きます

乃至 政彦(ないし・まさひこ)
歴史家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」

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