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"万年助手"として77歳まで東大に居座る…やりたいことしかやらない牧野富太郎の究極の「ズボラ力」

  • 2023.9.25
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初志貫徹し、日本初の近代的な植物図鑑を刊行して実績を残した牧野富太郎。その生涯を本にまとめた俵浩三さんは「牧野は職人気質でやりたいことしかやらなかった。ズボラといわれながらも東京大学植物学教室の助手として77歳まで雇われたのは、『余人をもって代え難し』という能力が認められていたからに違いない」と分析している――。

※本稿は、俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)の一部を再編集したものです。

高知の豪商である祖母に育てられ、経済観念がなかった

牧野富太郎の生家は、高知県佐川町で古くから小間物屋(雑貨商)と酒造業を営む豪商で、牧野が生まれたころは酒造業を主としていたという。しかし、幼いころに父母と死別し、牧野は祖母に可愛いがられながら育てられた。経済的には何ひとつ不自由する身ではなかった。松村任三教授が「婆あ育ちのわが儘者で、頼んだことをやらない」と評した性格は、このころの生育環境と関係があるのだろう。

植物学者 牧野富太郎氏
植物学者 牧野富太郎氏

しかし植物学をめざして上京した牧野は、家業を継ぐことなく実家の資産を研究費につぎこみ、やがては実家との縁がきれてしまう。大学に職を得たといっても、万年助手、万年講師の身分では安月給である。牧野は自ら、「私は元来、酒屋の一人息子として鷹揚に育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易ではなかった、……牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある」(『植物学九十年』)と回想するように、世間的な経済観念に乏しく、植物研究に必要なら先を考えずに金を遣ってしまうので、だんだん借金もかさんできた。

借金取りが来ると妻は門に赤旗を立て牧野に知らせた

結婚してからは子供がつぎつぎに生まれたので、生活はいっそう厳しくなった。

「食うために仕方なく借金をつづけた。そのために毎月、利子の支払いに苦しめられた。執達吏にはたびたび見舞われた。私の神聖な研究室を蹂躙されたことも、一度や二度ではなかった。私は、積みあげた夥しい植物標品、書籍の間に座して茫然として執達吏たちの所業を見まもるばかりだった。一度などは、遂に家財道具の一切が競売に付されてしまい、翌日は、食事をするにも食卓もない有様だった」(『草木とともに』)という。

執達吏は裁判所の命令によって、財産を差し押さえたり、競売に付したりするのが役目だから、牧野としても「茫然として執達吏たちの所業を見まもる」しかないが、相手が借金とりであれば、「もう2、3日待ってほしい」とか「いま金を工面しているから」とか、何とか口実をつくることもできる。しかし、そういう交渉は牧野の得意とするところではなかったらしい。そのへんのところは、すべて奥さんにまかせていた。奥さんは良妻賢母型の苦労人だったようである。

牧野が大学から家に帰ってくると、家の門に赤旗の出ていることがあった。それは「いま借金とりがきてますよ」と奥さんが気をきかせて出してくれる危険信号だった。

赤旗を見ると牧野は近所でぶらぶらと時間をつぶし、鬼のような借金とりが帰ってから家に入ったという。

妻の寿衛子が死んだのは貧乏で治療ができなかったからか

この奥さんは名を寿す衛え子こといったが、昭和3年(1928)に病原不明の病気となり、有効な治療もできないままに、54歳で亡くなった。ここで「病原不明」といったのは、牧野の自叙伝による表現である。牧野の娘、岩佐玉代の「わが母 寿衛子を語る」(『植物と自然』1981臨時増刊)によれば、「入院しても、お金が続かないために徹底的な治療ができなかったのです。最後は肉腫が原因で……」という表現になっている。その奥さんが亡くなる前の年、牧野は仙台で新種のササを発見したので、それに「スエコザサ」と名づけて、奥さんへの感謝の念を表わし記念とした。

牧野は経済的には苦しいなかで、本を買うことや研究には金を惜しまなかった。牧野が植物学の研究を志した若いころ、自分の決意を示した文章に「赭しゃ鞭べん一いっ撻たつ」がある(『植物分類研究』下巻)。赭鞭とは「赤いむち」のことで、昔の中国で本草学の祖といわれた神農が、薬草を調べるのに赤いむちを使って草を打ったという故事にちなんで、本草学のことを赭鞭ともいう。牧野が若いころは、本草学=植学=植物学の用語が混在していたこともあり、植物学に志す決意を「赭鞭一撻」(赭鞭を励ます)に表わしたのである。

本代を惜しまず知識に金をかけて植物学者を志した牧野

それは、「忍耐を要す」「精密を要す」「草木の博覧を要す」「書籍の博覧を要す」「植学に関係する学科は皆学ぶを要す」「洋書を講ずるを要す」「吝りん財ざい者しゃは植学者たるを得ず」など、15項目にまとめられている。

このうち「書籍の博覧を要す」では、植物に関係する書籍は「悉ことごとく渉しょう猟りょう閲えつ読どくを要す」ので、本をたくさん買う必要があり、植物学を学ぼうと思う者は「財を吝む者の能く為す所にあらざるなり」としている。また「植学に関係する学科は皆学ぶを要す」では、およそ植物学に関係する分野は、物理学、化学、動物学、地理学、天文学、解剖学、農学、絵画学、数学、文学などがあるので、そのすべてを学ばなければならないとしている。

「洋書を講ずるを要す」では、外国の書籍は「詳細緻密にして、遠く和漢の書物に絶ぜつ聳しょうしようすればなり」と、和漢の書籍より洋書の方がはるかに優れているので、これを学ばなければならないが、やがては日本の植物学も進歩し立派な書籍が出るだろうから、これは「永久百世の論とするに足らざるなり」との見通しを示している。そしてこれらを一括するように、「財を投ぜざれば、書籍、器械等一切求むる所なし、故に曰く財を吝おしむ者は植学者たるを得ず」と決意している。

蔵書は4万5000冊、今も高知市の植物園に残る

もちろん、これは牧野が経済的に何ひとつ不自由することのなかった、若い日の話である。ところが牧野は、これを一生を通じて初志貫徹してしまった。牧野は自ら、「牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある」と回想するように、本を買うことにケチケチしていなかった。同じ本でも「版」が違えば買いそろえることがあった。

こうして牧野の蔵書は、和漢洋に及び4万5000冊にも達した。博物学の歴史に詳しい上野益三は牧野の蔵書について、「牧野先生は植物標本と同時に、書物の蒐集でもその右に出るものはなく、その万事徹底せねばやまぬ性格は、植物と名のつく本は、どんなつまらぬものでも集めた。……牧野先生の徹底癖は同一の著書でも版式のちがうものはみな集めた。ちょうど、植物の標本をつくるのに、多数個体を集めて、個体変異を確かめようとしたのと同じ行きかたである」(『博物学史散歩』)と紹介している。

これらの蔵書は幸いなことに、牧野の没後に遺族から高知県に寄贈され、高知市の県立牧野植物園のなかに「牧野文庫」として保存、公開されている。いま牧野文庫を拝見させてもらうと、なかには「牧野様」と書かれた古本屋からの請求伝票が添付された本も散見できる。この本代を支払うのに、どんな苦労が隠されていたかを思うと胸が熱くなる。

「東大の牧野氏追だしの陰謀」を伝える北海タイムス(1927年11月25日)
出典=『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)
「ズボラすぎて東大では追い出し運動が」と新聞に書かれる

一方で財産差し押さえをされるような経済的な苦況にありながら、他方では本を買うことに金を惜しまず、「吝財者は植学者たるを得ず」を実行できたのは、やはりスエコザサに象徴される家族の理解と協力があったればこそであろう。

ところが、昭和2年、牧野の札幌滞在中、札幌の新聞(『北海タイムス』昭和2年11月25日付)に驚くべき記事が掲載された(図表1)。

「東大の牧野氏 追だしの陰謀 ズボラな性格が禍い問題は更に紛糾する」という見出しで、「(牧野は)植物学界に対して多くの貢をしているが、とかくズボラな氏の性格が禍いを為して、学校へ出ることは二カ月に一度くらい、学生や教授に迷惑を懸けることは一度や二度ならず……、理学部の数名の教授が秘かに氏を追い出さんと陰謀を巡らし……」と書かれている。

「東大をやめよう」と覚悟するがその後も12年間勤める

この記事を読んだ牧野は、自分でも思い当たる節もあり、そろそろ大学をやめなければならないと覚悟し、「長く通した我儘気儘最早や年貢の納め時」と負け惜しみの都々逸を口ずさんだ(『植物集説』下巻)という。

しかし結果的にはこの記事は誤報であり、牧野は東大を追い出されることもなく、その後、昭和14年、77歳のときまで講師を務めることになったのである。当時は定年制がなかった時代であるが、77歳まで現役でいられるというのは、「冷遇」ではなく「優遇」といえなくもない。それだけズボラといわれながらも「余人をもって代え難し」という能力が、牧野には認められていたからに違いない。

古写真『東京帝国大学』1903~1904年ごろ(写真=PD US/Wikimedia Commons)
古写真『東京帝国大学』1903~1904年ごろ(写真=PD US/Wikimedia Commons)

東大における牧野の現役時代に、学生として牧野の講義を聞いた植物学者が何人か、その印象を記している(『植物と自然』1981臨時増刊)。

東大生からは「牧野先生の講義は楽しい」と好評だった
俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)
俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

それによると、「先生は時間に頓着なく来られておしゃべりを始める」(木村陽二郎)、「先生は適当の時間に来られる。決まっていない。時にはお菓子を持って、時には菜っ葉を引っさげて、登場されるのである。教室はたちまち座談室となり、それからそれへと話がはずむ。……一定の規律はないけれども、まことに滋味あふれる授業であったことを感謝している」(前川文夫)、「先生の講義は型式にとらわれることなく、きわめて自由で、植物に関する幅広い話題にふれ、先生一流のユーモアを交え、時には川柳や都々逸まで飛び出すという誠に楽しいものであった」(加崎英男)、といった調子である。

この思い出から浮かび上がるのは、型にはまらず、時間にとらわれず、ざっくばらんでありながら、心に残る名講義だった、ということである。いわば熟練した職人の名人芸である。職人気質の人は、自らの内発的エネルギーが湧きだすときは時間もかまわず徹底してよい仕事をするが、気が向かなければ、いくら「えらい人」から外発的エネルギーを与えられても、さっぱりエンジンがかからないのである。

しかし、これを大学のカリキュラム規定とか、近代社会の枠組みという立場から見れば、「学生や教授に迷惑を懸けることは一度や二度ならず」、ズボラということになってしまう。

牧野は「ズボラに見えるのは違うことに凝り性だから」

牧野の昭和10年ころまでの業績は、『牧野植物学全集』に集大成されている。その全集を編集した園芸家の石井勇義は編集後記で、「牧野先生の厳密なる態度と、容易に纏めようとなさらない御性分とが、この全集にも反映して刊行が遅延し、……世の中に『頼まれた事は少しもやらずに、頼まれない事ばかり夢中になってやる人』という方があるとしたら、その第一人者は牧野先生であろうと思う」と書いている。

牧野はその辺のことを十分に自覚しており、「(石井)君がよく私の癖を吞み込んで、うまく其間を操縦調節したから」この全集をまとめることができたと感謝している。さらに牧野は自分のズボラな性格について、次のように弁明している。

私のズボラは質の悪いズボラではない、一方でズボラと見える時は必ず一方で精励して持ち前の凝り性を発揮して居る時である。丁度、天秤の様なもので、一方の下がった時は必ず一方が上がって居る。其の真相を洞見する明がなく、無闇に私をズボラな人間とけなしつけるのは、其の一斑を見て全貌を知らざる皮相の観察である。(『植物集説』下巻)

俵 浩三(たわら・ひろみ)
1930年東京都生まれ。千葉大学園芸学部卒業、北海道大学学術博士。景観学者、林学者。厚生省国立公園部(1953年、国立公園レンジャー日本第1号)、北海道林務部、北海道生活環境部に勤務したのち、北海道自然保護協会理事(1994~2004年、会長)、専修大学北海道短期大学教授(2001年~名誉教授)等を務めた。1980年に国立公園協会田村賞、1990年に日本造園学会賞(研究論文部門)、2002年に日本造園学会上原敬二賞を受賞。2020年没。

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