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【賢者の選択心理テスト】怪談『はかりごと』

  • 2023.9.20

今回は小泉八雲の『怪談』から、短編『はかりごと』をお届けします。ちょっと変わった物語で、深く考えさせられてしまうオチが待っています。さっそく見ていきましょう!

今回は怪談をご紹介しましょう。怪談と言えば、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。その小泉八雲に、『はかりごと』という、ちょっと変わった怪談があります。 侍の時代のお話です。

あるお屋敷の庭で、罪人がお手討ちになることに。お手討ちとは、刀で首を切り落とすことです。罪人は、それを深く恨み、

「怨霊となって、この家にたたってやる!」

と叫びます。 それを聞いた、お屋敷の主人は、「そんなことができるものか。もしできるというなら、 その証拠に、首を切られた後、その目の前の庭石にかじりついてみろ。もしそれができれば、皆もおまえの怨念を怖れるだろう」 と言います。

「かじりついてみせるとも!」 罪人は怒りに震えながらわめきます。 刀が振り下ろされ、罪人の首はズバリと切り落とされます。 地面に落ちた首は、不自然にころころと転がって、庭石のところまでくると跳ね上がり、がちりとかぶりつきました。

それを見たお屋敷の家来たちは、総毛立ちます。 罪人の怨念によって、この家にどれほどの怖ろしいたたりがあることかと、皆で怯えて、騒ぎます。 しかし、主人はそれを制して、こう言います。

「あのまま手討ちにしていれば、たたりがあったかもしれない。だが、あの男は、死ぬときに、ただ石にかじりつくことだけを念じていたはずだ。そして、それを果たした。もはや、この家に何のたたりもない」

実際、その後、そのお屋敷には、何事も起きなかったのでした。 さて、もしあなたが罪人の立場だったとしたら、首を切り落とされるとき、どんなふうに一心に念じると思いますか?

A.「やっぱり、『庭石にかじりついてみせる!』と念じると思う」

B.「庭石なんかどうでもいいから、『この家にたたってやる!』と念じると思う」

C.「殺されてしまうのなら、もう何を念じても仕方ないので、何も念じないと思う」

心が決まったら解説を読んでください。

このテストから学ぶテーマ 「Aが目的で、Bが手段だったはずなのに、いつの間にかAが目的に……」

この物語のお屋敷の主人は、いったい何をしたのでしょうか?

罪人のそもそもの目的は、「この家にたたること」でした。しかし、主人はその目的を「庭石にかじりつくこと」にそらしたのです。

罪人にとって、庭石にかじりつくことは、自分の怨念のすごさを皆に見せて怯えさせるための行為で、庭石にかじりつくこと自体が目的なわけではありません。庭石にかじりついたって仕方ないわけで。本来の目的は、この家にたたることです。

ところが、その手段に熱中するあまり、手段が目的となってしまい、本来の目的を見失ってしまいました。 それが主人の計略であったわけです。つまり【手段の目的化】です。

今回の心理テーマは、この【手段の目的化】です。人は、目的と、そのための手段を、とりちがえてしまいがちです。これは、本当によくあることなのです。この物語の主人のように、わざとそれを起こさせて、人を動かすこともあります。誰にも操作されなくても、自分で勝手に、目的と手段をとりちがえてしまうこともあります。

たとえば、家族のために仕事を頑張っていたのに、(つまり、家族の幸せが目的で、仕事が手段であったのに)いつの間にか、仕事に夢中になって、家族を放ったらかしにしてしまい、関係がこわれてしまったり。(仕事という手段を、目的化してしまったため、 本来の家族の幸せという目的が果たせなくなってしまった)

幸福になるために、有名大学や有名企業に入ろうとしたのに(目的は幸福で、手段が有名大学や有名企業に入ること)、いつの間にか「有名大学や有名企業に入ることが人生の目標」になってしまい、それができなかったせいで、もう人生が終わりのような気になったり。本当は、ただの手段であれば、別の手段を選ぶこともできるはず。それを目的化してしまっているから、もうダメという気持ちになってしまうのです。

ただ、【手段の目的化】は悪いことばかりではありません。たとえば、女の子にモテようとして、スポーツを頑張っているうちに、本気でそのスポーツに打ち込むようになって、 デートもせずに頑張って、それこそオリンピックに出られるような選手になれたとしたら…、手段を目的化できて、良かったなーということになります。

注意しなければいけないのは、この物語の場合のように、人に誘導されてしまう場合でしょう。「○○したかったら、まず□□してみなさい」という言われることは、よくあるのではないでしょうか?

それはもしかすると、○○から気をそらして、□□を目的化させようとしているのかもしれません。

いずれにしても、いったい自分が何を目的としていて、何を手段としているのか、そのことをいつもよく自覚しておくことが大切です。それを曖昧なままにしておくと、いつの間にか【手段の目的化】が起きてしまって、この物語の罪人のように、本来の目的を果たせなくなってしまいます。

<賢者の答え>

A「やっぱり、『庭石にかじりついてみせる!』と念じると思う」 をもっともだと思ったあなたは……

あなたは、目の前のことに集中し熱中できる力があります。しかし、そのせいで、手段を目的と取り違えてしまいやすいところも。もちろん、それは必ずしもよくないことではありません。たとえば、お金を稼ぐために就職したとしても、ずっとお金を目的に働くよりは、手段である仕事が面白くなって、仕事をすること自体が目的になるほうが、楽しく働けるでしょう。

ただ、仕事や会社を目的にしてしまうと、それを失ったときに、たんに手段を失ったつらさでなはなく、人生の目的を失ったつらさを味わってしまうことになります。本当の目的は、幸福になることであり、仕事も会社もそのための手段だと思っていたほうが、まだしも衝撃はやわらぎます。なぜなら、手段であれば、また別のものを探すことができるからです。もちろん目標も変えることができますが、手段を変える以上の大きな精神力を要します。

いずれにしても、自分にとって何が目標か、何が手段か、ときどき考えるようにしてみてください。そして、手段を目的としてしまっているとき、本当にそれでいいのかどうか、自問してみてください。せっかくの集中力と情熱を、間違った方向に使ってしまわないために、これはとても大切なことです。

B「庭石なんかどうでもいいから、『この家にたたってやる!』と念じると思う」 をもっともだと思ったあなたは……

あなたは目的と手段を取り違えることのないほう。本来の目的をしっかりと見据えて、それがブレることがありません。

Aをするためには、まずBをしなければならず、そのためにはCを先に……ということはよくあります。多くの人は、その過程で、CやBを目的としてしまいがちです。それは必ずしもよくないことではありませんが、その分、Aに到達しづらくなるのは確かです。

あなたは、つねにAを見失うことがなく、その分、目的を達成できる可能性も高くなります。

ただ、大きな目的をつねに見失わないことは、それだけ精神的につらいことでもあります。なかなか到達できない遠いゴールを目指して走っているようなものなので。CやBをとりあえずの到達点として、それがかなった時点でも大いに喜ぶようにすることが大切でしょう。そうすれば、過程を楽しみながら、しかも遠いゴールにちゃんと到達できるようになります。

C「殺されてしまうのなら、もう何を念じても仕方ないので、何も念じないと思う」 をもっともだと思ったあなたは……

あなたはそもそも何が目的で何が手段かということについて、曖昧なところがあるほうでしょう。目的を明確に定めるほうではなく、したがって手段という意識もあまりありません。

たとえば、仕事に就かなければならないから仕事に就く。そのときに、「お金のため」とか「能力を発揮したいから」とか「幸福になるため」とか、そういった目的意識はあまり持たないほうでしょう。そのため、仕事が目的なのか手段なのかという区別もないわけです。それは決して良くないことではありません。人生の目的をしっかり定めるほうがいい生き方だ、なんてことはありません。目的なしに生きることは、それは それで素晴らしいことです。

ただ、目的も手段も曖昧なまま生きていると、たとえば「なぜ私は仕事をしているのだろう?」というような疑問を持ってしまったときに、答えが出なくて 困ることがあります。いったん生き方に迷うと、迷いがずっと晴れないことがあります。 そういうときには、仮にでもいいですから、何が目的で、何が手段なのかを考えてみるのも、いいかもしれません。物事を決断する、一つの指針にはなるでしょう。

津田先生より

今回の「はかりごと」という怪談は、『怪談・奇談』(角川文庫クラシックス)に入っています。 なお、小泉八雲という人は、たんに怪談の人ではなく、古い日本の文化を心から愛し、西洋化していくことを深く嘆いた人です。日本にやってきて、日本人の奥さんをもらい、日本人になりました。その奥さんが、小泉八雲の思い出を語っている「思い出の記」という文章があります。これがじつに感動的で、私はこれで小泉八雲が大好きになりました。

お話/津田秀樹先生

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