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【黒柳徹子】“美しいもの”に対して貪欲で正直な、シャンソン歌手の淡谷のり子さん

  • 2023.9.11
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第17回】歌手 淡谷のり子さん

ある時期まで、8月の終戦記念日前後に放送される「徹子の部屋」では、戦争を体験した方のお話を伺うことが恒例になっていました。終戦から80年近い歳月が流れたこの令和の時代には、戦争体験を語れる方のほとんどが、お亡くなりになってしまいました。なので番組では、以前ご登場いただいた方の、印象的なVTRを流したりもします。

以前は、兵隊として戦地に赴いたけれどなんとか生き延びて、戦後、俳優や歌手になられた方のお話もいろいろ伺っていましたが、シャンソン歌手の淡谷のり子さんが慰問活動を続けていたときのお話は、何度聞いても涙が溢れます。1991年の夏に伺ったお話を昨年、8月9日の放送回で流したところ、大変な反響がありました。

今の若い方はご存じないかもしれませんが、淡谷さんは「ブルースの女王」と呼ばれるほど、有名な歌手でした。大正時代の終わりから昭和の初めまで、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)で声楽を習い、「10年に一度のソプラノ」と絶賛されます。最初はクラシック歌手として活動するのですが、家計を助けるために流行歌も歌うようになり、昭和12年に発売された「別れのブルース」が100万枚(!)を売り上げるのです。翌年に発売された「雨のブルース」もヒットして、淡谷さんは、戦前のラジオ全盛の時代を代表するスターになったのでした。

ところが、ほどなくして第二次世界大戦が始まり、淡谷さんたちは、慰問活動をするようになります。戦争が長引くにつれ、食糧難になるだけでなく、英語を使うことが禁止されたりする中で、淡谷さんは軍の命令には従わず、軍歌は一切歌いませんでした。当時禁止されていたパーマヘアにお化粧もバッチリ、「これが歌手の戦闘服だから」と、華やかなドレスを着て兵隊さんたちの前に立つと、若い兵隊さんたちは拍手を惜しまなかったそうです。

淡谷さんが人前で初めて涙を流したのが、ある慰問先で、少年特攻隊員の姿を初めて目にしたときのことでした。目の前に大勢の兵隊さんがいるのはいつも通りでしたが、少し横に目をやると、20〜30人の、白鉢巻きをした子供がいることに気づきました。係の人に、「あの兵隊さんは?」と聞くと、「あれは特攻隊員です。飛行機ごと敵に突っ込んでいくので、命令が来て飛んだら、もう二度と帰ってきません。平均年齢は16歳です。命令が来たら飛びます。もし、歌っている最中に命令が来たら出ていきますが、悪く思わないでください」と言われたのでした。

敵に突っ込むから、二度と帰ってこない――。それを聞いて、淡谷さんの胸はつぶれそうになったそうです。目の前にいる白鉢巻きの少年たちは、子供のようにあどけない顔をしています。本来なら、16歳といったら、勉強したり、恋をしたり、好きなことに打ち込んだり。未来について、いろんな夢を描ける世代なのに。せめて、自分の歌っている間に命令がこないようにと思っていると、非情にも、特攻の命令が来てしまったようでした。

「そのとき、少年はさっと立って、ニッコリ笑って、敬礼して出ていくんです。私は……次の歌が歌えなくなりました。悲しくて。自分がいちばんつらいのだから、さっと去ってしまえばいいのに。一人一人が、笑顔で敬礼していくなんて……。あんなに悲しい思いをしたことはないです」

その話を伺っているうちに、私も自然に泣いていました。当時、淡谷さんは若い人の歌に対して、「どうしてもっと練習しないんだ!」と怒っていて、バラエティ番組や歌番組の審査員なんかでも、辛口のコメントをすることで有名でした。その理由を、「あのとき、笑って死んでいった特攻隊員がいかに無念だったか。笑顔の裏にある悔しさを知っているからこそ、必死にならない若い人たちを見て、私は怒るんです。誰のおかげでこうしていられるんだ、と」とおっしゃっていました。

ところで、淡谷さんが首席で卒業した東洋音楽学校は、私と私の母・黒柳朝の母校でもあります。しかも淡谷さんは母の先輩。母とは仲良しで、我が家にもよく遊びにきていました。テーブルの上にメイク道具を広げて、「この目の存在を明らかにせねば!」なんて言いながら、幾重にもアイラインを引いて、つけまつ毛をつけていた姿を、子どもだった私もよく覚えています。音楽だけじゃなく、おしゃれにしてもメイクにしても、いろんな“美しいもの”に対して貪欲で正直で、時代の先端をいく方でした。

淡谷のり子さん

歌手

淡谷のり子さん

1907年生まれ。青森県出身。1929年東洋音楽大学を首席で卒業。1930年のレコードデビュー後は、民謡や、映画の主題歌などをカバー。「別れのブルース」の大ヒット後は、日本におけるシャンソン歌手第一号として活躍。1970〜80年代は、バラエティ番組などでの辛口のコメントが人気に。一説には、ファッションやジュエリーなどに生涯で費やした総額は現在の貨幣価値に換算して8億円とされる。1999年没(享年92)。

─ 今月の審美言 ─

「『この目の存在を明らかにせねば!』と幾重にもアイラインを引いていた。“美しいもの”に対して貪欲で正直。時代の先端をいく方でした」

写真提供/時事通信フォト 取材・文/菊地陽子

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