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「豊臣秀頼は本当に秀吉の実子だったのか」女性に囲まれていた秀吉が50代になって急に子宝に恵まれる不思議

  • 2023.9.10

16人以上の側室がいて女好きを自認していた豊臣秀吉だが、なかなか子供はできなかった。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「側室の淀殿が産んだ秀頼は、秀吉の実子ということになっているが、秀吉が淀殿の懐妊を知ったのは妊娠7カ月の段階と遅く、秀吉は正室に向けて『私たちは子供を欲しくないと思ってきた』という手紙を書いている」という――。

歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
秀吉存命時から噂されてきた「秀頼は秀吉の子ではない」説

大坂夏の陣(1615年)で、徳川家康に滅ぼされた豊臣秀頼。秀頼は、豊臣秀吉の子である。教科書をはじめとする多くの歴史書には、そのように書かれていると思います。しかし、秀頼は、秀吉と淀殿(秀吉の側室。北近江の武将・浅井長政と織田信長の妹・お市との間に生まれる)との間に生まれた子供ではないという「異説」もあるのです。しかも、その異説というのは、現代の一部の歴史家が書物に記しているというだけではなく、江戸時代の書物にも記されていたのでした。

例えば『明良洪範』という書物がそうです。同書は、16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏や諸大名、その他の武士の言行・事跡などを収録した逸話集であります。江戸時代中期頃に編纂されたと考えられ、著者は江戸千駄ヶ谷・聖輪寺の住持である増誉。同書の成立年代や性質からして、信用できる史料というわけではないのですが、そこに秀頼の出生に関して、次のような話が記されているのです。

「豊臣秀頼は、秀吉公の実子にあらずと密かに言っている者もいる。その頃、卜占(占い)に巧みな法師がいたのだが、その者が言い始めたとのこと。淀殿は、大野修理と密通し、捨君と秀頼君を産んだのだ。秀吉公の死後は、淀殿はいよいよ情欲に耽った。大野は、邪智で淫乱で、なおかつ容貌が美しかった。名古屋山三郎は美男であったので、淀殿は思いを寄せ、不義があった。大坂(豊臣家)が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正より起こった」と。

淀殿が側近の大野治長と密通していたという逸話集も

この一文に登場する「大野修理」というのは、大野治長(生年不詳〜1615)のこと。淀殿の乳母で侍女ともなった大蔵卿局の子です。関ヶ原の戦いでは、東軍に属するも、戦後は淀殿の信任を得て、頭角を現し、大坂方の中心的な人物となりました。大坂夏の陣においては、秀頼や淀殿に殉じて、自害しています。ちなみに、彼には大野治房という弟がいて、治房は徳川に対する主戦論者として有名です(大坂の陣後は、消息不明となる)。

文中に出てくる「捨君」というのは、秀吉と淀殿の間に最初に産まれたとされる男子・鶴松のこと。『明良洪範』の収録文によると、鶴松(1589〜1591)も、秀頼(1593〜1615)も共に、淀殿と大野治長の子だというのです。

秀吉嫌いの宣教師フロイスは「秀頼誕生に世間は笑った」

江戸時代中期成立の書物だけではなく、淀殿らと同時代人も、淀殿と大野治長の「密通」について書いています。毛利氏に仕えた内藤隆春の書状(1598年10月1日付)があって、そこに、お拾(秀頼の幼名)は淀殿が密通してできたのではないかとの風評が書き留められているのです。ただし、隆春は、鶴松や秀頼が治長の子とまでは書いてはおりません。

淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉の「子」に関しては、外国人も書物に記しています。戦国時代に来日し、信長や秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイス。

彼の著書『日本史』には、秀吉と鶴松について「かれ(筆者註=秀吉)には唯一の息子(筆者註=鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもを作る体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」「関白には信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男子(鶴松)が産まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」と書かれているのです。

秀吉には子種がないと言われる中、淀殿だけが2回妊娠

秀吉と淀殿の間に生まれたはずの鶴松。しかし、秀吉には子種がないとして、多くの者が、秀吉の実子ではないと内心思っていたというのです。鶴松が生まれた天正17年(1589)当時は、秀吉の弟・秀長にはまだ子は生まれていなかったと推測されます(後に女子2人を授かる)。秀吉の甥の秀次には当時、女子はいましたので、フロイスの記述は正確ではありませんが、1589年段階の文章としては、大外れというわけではありません。

しかし、秀長や秀次は、子供を作っていますので「その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」という部分は、間違いとしなければなりません。

以上、資料から記したことは、世間の噂程度のものであり、そこからもってして、鶴松や秀頼が秀吉の「実子ではない」と結論付けることは慎重でなければいけません。秀吉は「女狂いは、自分の真似はするな」と甥・秀次に書き送るほど、女好きでした。側室も16人はいたとされます(もちろん、関係を持った女子の数はもっと多かったはずです)。にもかかわらず、正室・寧々(北政所)との間には子はできませんでしたし、多くの側室のなかで、秀吉の子を産んだとされるのは、淀殿だけです。

秀頼の誕生日から逆算すると、受胎時に秀吉はいなかった?

鶴松は、秀吉53歳の時の子、秀頼は57歳の時の子でした。多くの女性に囲まれていて、それまで全く子ができなかったのが、50代になって急に子宝に恵まれる。もちろん、世の中さまざまなことがありますので、そういったことを一概に否定はできませんが、不思議といえば不思議です(鶴松以前に、秀吉には男子・秀勝が生まれていたが夭折していたとの説もある。一方で秀勝は実子ではないとの説もあり)。

また、淀殿が秀頼を受胎した際に、秀吉と淀殿は一つどころにいなかったとする見解もあります。歴史学者・服部英雄(九州大学名誉教授)によると、秀頼の受胎想定日は「文禄元年(1592)11月4日頃」(秀頼は1593年8月3日に誕生)。ところが、文禄元年10月1日には、秀吉は大坂から九州へ向けて出発。10月30日に博多到着、11月5日には、肥前(佐賀県)名護屋にいたのです。淀殿が秀吉と共に九州に下向したのなら話は別だが、一般的にはこの時、淀殿は大坂城にいたとされます(淀殿は九州に行ったとする説もあり)。よって、淀殿は秀吉の子(秀頼)を妊娠できるはずはないというのです。

大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像
大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像
秀吉は正室への手紙の中で本音を漏らしたのか

文禄2年(1593)5月には、秀吉は淀殿の妊娠を知るのですが、その時、彼は正室・北政所に宛てて、次のような書状(同年5月22日付)を書いています。

「二の丸殿(淀殿)が懐妊したとのこと、めでたいことです。我々(秀吉と寧々)は、子供は欲しくないと思ってきた。太閤(秀吉)の子は、鶴松だが、既にこの世にはいない。(今度生まれてくる子は)二の丸殿一人の子で良いのではないか」

亡き鶴松の生母は、淀殿であるが、秀吉が「両人の御かか様(お母様)」というように、鶴松には「二人の母」がいました。一人は当然、淀殿。もう1人は「政かかさま」(北政所)、秀吉の正室でした。鶴松は生まれてすぐ生母・淀殿の手から引き離されて、北政所のもとで養育されたと言われます。前述の書状に話を戻すと、今度生まれて来る子は、そのようなことをせず、淀殿1人の子で良いのではないかと、秀吉は正室に言っているのです。

秀頼は実子ではないという説も否定しきれない

秀吉が淀殿の妊娠を知ったのは、彼女が妊娠7カ月の頃。妊娠しているかどうかは、それよりも早くに分かるはずであり、「吉報」ならば、もっと早く知らされても良いはず。それが、なぜこのように遅くなったのかは、謎です。また、淀殿の妊娠を知った時の秀吉の書状の文面がどこか冷めていると感じるのは、筆者だけでしょうか。「めでたい」とは書いていますが「太閤子は、鶴松である」との文言も見え、今度生まれてくる子は「自分の子ではない」と言っているようにも聞こえます。

拾(秀頼)が生まれたと聞いた時も、秀吉はすぐに大坂には戻っていません(母・大政所の危篤の報を得た時は、秀吉は大至急戻っています)。鶴松や秀頼が、秀吉の「実子」であったのか否か。そのことを明確にするのはなかなか困難とは言えます。が、実子でない可能性も、以上、見てきたような理由から、全く根拠のないものではないと思うのです。

伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(江戸時代、東京藝術大学所蔵、PD-Japan/Wikimedia Commons)
伝・花野光明作「豊臣秀頼像」(江戸時代、東京藝術大学所蔵、PD-Japan/Wikimedia Commons)
秀吉は秀頼を溺愛したが息子が5歳のときに死去した

とはいえ、幼い秀頼を秀吉が溺愛したのもまた事実。拾(秀頼の幼名)宛の書状が残されており、その中には「やがてやがて参って、(拾の)口を吸いたい。しかし、私が留守の間に、他人に口を吸わせていることだろう」(1595年1月2日)との文言があります。拾に早く接吻したいとする秀吉の感情。また、秀吉は臨終間際(1598年8月5日。死去は8月18日)に「返す返す、秀頼のこと、頼み申し候」と徳川家康ら豊臣家重臣5人に手紙を残したことはよく知られています。

「実子でないのに、ここまでの感情になることはあるだろうか」との疑問を持つ人もいるでしょう。しかし、秀頼の誕生前にも、秀吉は甥の秀次や豪姫(前田利家の四女)らを養子にしています(秀次は後に秀吉の怒りをかい切腹に追い込まれますが、豪姫は可愛がられたと言われます)。筆者は、たとえ実子でなくとも、秀吉がこのような想いになることは十分考えられると思うのです。実の子でなくとも、養子や里子でも、十分な愛情を持って、可愛がるという人は、今も昔もいるからです。

※参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965)
・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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