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家康が立派な戦をしたのは生涯で一度だけ…「小牧・長久手」で戦の天才・秀吉に勝てた納得の理由

  • 2023.8.20

徳川家康が秀吉と正面から戦ってみごとに勝利した「小牧・長久手の戦い」。日本史研究者の本郷和人さんは「家康は信長や秀吉のように戦で画期的な創意工夫はできなかったが、才能のない人でも経験値の蓄積で勝てることがある」という――。

※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。

平凡な家康は戦国最強の武田軍団と戦って経験値を積んだ

家康の戦歴をふり返ると、まず三河武士を率いて三河で独立を果たす。その後に信長と同盟を結び武田と戦うことになったわけですが、圧倒的に強い武田に対して家康はいつも防戦いっぽう。そもそも戦術的な才能のきらめきを見せる場面がなかったともいえます。結局のところ「三方ヶ原の戦い」のように大敗して、脱糞して逃げるのがせいぜいでした。

ただこれは逆にいうと、家康は常に強大な武田と戦って、地道に努力を続けていたということでもあります。このキャリアのおかげで彼の戦いの経験値は蓄積されていった。もともと才能がない人でも経験値の蓄積は大きな力になるものです。だから家康は、戦争というものをまったくの机上の空論で語る人と比べると、立派な武将だったのだろうと思います。

そうして経験値を積んだ家康の采配が唯一、見事にはまって輝きを見せた戦争が「小牧・長久手の戦い」(1584年)でした。

楊洲周延 作「小牧山戦争之図」
楊洲周延 作「小牧山戦争之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
織田信長と柴田勝家の死後、対秀吉戦が始まった

この戦いではまだ羽柴と名乗っていた秀吉が攻めてくる。徳川家康を打ち破り、うまくいけばここで徳川を滅ぼしてしまえということで、東海地方をめがけて軍勢を率いてやってきます。家康としては、三河まで来られてしまうと自分の領地を荒らされてしまうわけですから得策ではない。美濃尾張、現在でいえば岐阜や愛知で防御することを考えて、それで尾張の小牧山城をとります。秀吉は、その動きに対抗するかたちで犬山城に入る。

ここで当時の戦争の方法論として、両者は「野戦築城」を行います。これは織田信長が考え出した、戦場で防御を固めるという工夫。有名な「長篠の戦い」で実践されたアイディアです。このときに信長は武田と戦うわけですが、兵隊すべてに木材を持たせて戦場に送り出した。そして現場で馬防柵をつくり、武田の攻撃を防御しつつ戦い、勝利しました。

そのとき、塹壕ざんごうを掘るという発想が出てきて、戦場で突貫工事を行うようになっていきます。縦横に塹壕を掘り、敵の攻撃を防ぎつつ攻撃する。信長はそうした野戦築城を、最初に実践した人かもしれないと思います。

信長の考え出した工夫は、すでにこの時期、武将たちに共有されるようになっていました。秀吉のように「新しいもの好き」の人だけではなく、脳筋タイプに見られがちな柴田勝家なども、盛んに野戦築城を行っています。

城にこもって防御を固め膠着状態に持ち込んだ家康

秀吉と家康が対峙たいじした「小牧・長久手の戦い」でも、犬山城と小牧山城で防御を固め、さらに周辺でも野戦築城を行って碧を築く。そうすると、よくいわれる「先に手を出したほうが負け」という状況が出現するわけです。くり返しいっているように、ふつう城を攻めるときには防御側の三倍、できれば五倍の兵力を用意する必要があることは、これは戦争の鉄則です。それだけ攻撃する側が不利。つまり、両者が防御を固めて対峙している場合は、先に手を出すほうが不利になるわけです。

「小牧長久手合戦図屏風」
「小牧長久手合戦図屏風」(画像=『新修豊田市史 別編 美術・工芸』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

防御側の家康は「負けなければ勝ち」。がんばって対峙していればそれでいい。しかし攻める秀吉としては、多くの将兵を用意していますので、なんとかして決戦に持ち込みたいと思うわけです。そこでなにを考えたかというと、おそらく秀吉は対柴田勝家戦「賤ヶ岳の戦い」でうまくいった作戦を、再び実行しようとしたと、私は考えています。秀吉の戦争のやり方として、とにかく動くのです。彼は足軽などの部隊を、さまざまに歩かせた。歩かせて歩かせて、その中で勝機をつかむ。

秀吉最大の独創はとにかく兵士を歩かせること

秀吉の用兵の独創は、この「歩くこと」にあった。対明智光秀戦で見せた「中国大返し」では、平均して1日20キロほどの移動を行ったといわれます。それであっという間に中国地方から京都に戻り、「え、もう帰ってきたの⁉」と驚く明智光秀を打ち破った。

秀吉は「賤ヶ岳の戦い」でも、こうした軍の移動を行って勝機をつかんでいます。このときも両者が野戦築城を行い、防御を固めてにらみ合うかたちになった。そこで秀吉はわざと美濃に部隊を動かして見せるのです。賤ヶ岳というと琵琶湖のほとりですが、そこから美濃に動く。美濃には、柴田勝家と連絡をとって秀吉と戦おうとしていた織田信孝がいました。この人は信長の三男ですが、秀吉は彼を攻めてあっという間に降伏させます。

そうした秀吉の動きが柴田陣営に聞こえる。「お、秀吉はいないんだ。では今のうちに叩こう」ということで、柴田陣営の中でも戦術面で優秀な武将だった佐久間盛政が出撃し、羽柴陣営を攻めた。それで明智光秀との戦いでも重要な役割を果たした中川清秀などが戦死しています。

本能寺後の「中国大返し」より速かった「美濃大返し」

それほどの激しい戦闘が行われた。この知らせを美濃で聞いた秀吉は「しめしめ敵が出てきた」ということで、急いで引き返す。これが「中国大返し」と並んで「美濃大返し」と呼ばれる軍事行動になるのですが、「美濃」のほうは、それほど有名ではありませんね。しかし「中国大返し」よりもさらに速いスピードで移動したといわれます。ものすごい速さで戻り、戻るやいなや柴田軍に襲いかかって、それで一挙に勝敗を決した。

よく前田利家が秀吉サイドに寝返ったというエピソードが言及されますが、それはあくまでオマケであって、この戦いの本質は、秀吉がわざと美濃に移動してみせて、それで柴田軍を陣地からおびき出したことにあります。そうして柴田軍の中核である佐久間盛政の部隊を叩き、その勢いのまま柴田の本拠、福井の北ノ庄城まで攻め入った。勝家は自害することになり戦いは終わります。

楊洲周延 作「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」
楊洲周延 作「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
秀吉は2万の軍隊を陽動に使い家康を城から誘い出した

味をしめた、ということではないでしょうが、秀吉はこの「賤ヶ岳」でうまくいった手を、また「小牧・長久手」で再現しようとしたのだと私は理解しています。「小牧・長久手」でも両者は防御を固めて対峙するかたちになった。つまり攻撃する側が不利。そこで秀吉は2万人の兵士からなる別働隊を組織して、小牧城にいる家康の頭越しに三河を突く動きを見せた。

この部隊の名目的な主将は、のちに一時的に秀吉の跡目を継ぐことになる秀次、当時はまだ羽柴信吉です。そして実質的に軍勢を動かしていたのが池田恒興。彼の池田家は、のちに鳥取や中国地方の大名となります。また池田恒興の娘婿である森長可もいて、彼らが2万の軍勢の中核を構成していました。

昔からこの別働隊について、「隠密部隊だった」といわれてきました。しかし考えていただければわかりますが、2万もの軍勢が、隠密部隊のはずがないのです。2万人の兵士が道を行く。その間をぴったり詰めて歩くわけにはいきませんから、仮に1メートルの距離をおいて移動したとすると、ふたり並んで歩いたとしても1万人×1メートルで、頭から後ろまで10キロの行列となります。そんな隠密部隊なんてあるわけがない。すぐに見つかります。

家康は囮に食らいついて大軍にダメージを与えるが…

しかし見つかることは秀吉も計算のうちで、この軍勢は「囮おとり部隊だった」と私は考えています。別働隊に三河の本拠地をつかれると家康は絶対に困る。補給線も断たれてしまい、長期滞陣もできなくなります。秀吉は自分が部隊を動かすことで、家康がやむなく陣地から出るしかない状況をつくり出そうとした。そして家康が出撃したところを捕捉し、野戦に持ち込もうとしたのだと思います。野戦になれば秀吉の軍勢のほうが多数ですから、有利になります。

結果として徳川家康は、その囮部隊に食らいついた。その攻撃を受けて囮部隊はほぼ全滅に近いかたちになります。「賤ヶ岳」における中川清秀と同じで、実質的な指揮官である池田恒興やその息子、森長可も戦死してしまった。

秀吉という戦の天才の予測を超えた家康の動き

ここまでは、秀吉も読んでいた。家康は、秀吉の読み通りに動いたわけです。しかし秀吉の予測を超えていたのはその速さで、このときの家康は非常に俊敏に動いたのです。秀吉の別働隊が動き出したことを知ったとたんに小牧山を出て、捕捉に動く。そして見事に撃破する。そして別働隊を全滅させるやすぐに兵を戻して、また小牧山に立てこもります。

秀吉にしてみれば「家康が餌に食いついた。よしっ」ということで犬山から出撃し、家康を捕捉しようとした。そして「家康どこだ、家康どこだ」と相当、探し回ったのですが、家康はすでに城に戻っていた。それほど迅速に行動したのです。秀吉は結局、家康を捕捉できずに終わる。餌だけ取られたかたちで、犬山城に帰ることになります。そしてふたたび、両者の対峙がはじまりました。

楊洲周延 作「小牧役 加藤清正 本多忠勝」
楊洲周延 作「小牧役 加藤清正 本多忠勝」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

結局、「家康とまともに戦って降伏させることはなかなか難しい」ということで、秀吉は政治的に家康を追い詰める方向に転換します。

家康はこのとき織田信雄と同盟を組んでいました。この人は信長の次男。父の才能は受け継がず凡庸な人ですが、もともと家康は、織田家の後継者はこの信雄であり、それをないがしろにする秀吉は許さないということで、戦いの正統性を打ち出していました。秀吉はその信雄を攻めて、居城の伊勢長島城を攻撃します。すると信雄は、みっともないことにすぐ降伏してしまいました。

家康と組んでいた信長の次男・信雄はあっさり降伏

家康にしてみると、信雄が降伏してしまうと、単独で戦う大義がなくなってしまうのですね。秀吉はまず家康から戦う意義を奪い、その後、秀吉は朝廷を利用する。彼はあっという間に関白になり、豊臣という姓もつくった。そして朝廷の威光のようなものをバックにして、家康が頭を下げざるを得ない状況を、政治的につくり出していくわけです。

しかし秀吉が、軍事的に家康を倒すことを諦めたことは事実。家康は一目も二目も置かれるかたちで、対秀吉戦という危機を乗り切った。だから「小牧・長久手の戦い」における家康は、たしかに見事な采配を示したといえるでしょう。

ただし、これひとつなのです。家康が「いや見事ですね!」と称賛されるような戦いぶりを示したのは、この「小牧・長久手の戦い」ひとつだけということになります。他の戦いで名将ぶりを示して、「おお、これは!」と思わせるようなキラリと光る作戦を見せたかというと、これがないのです。そもそも創意工夫は、家康の戦いにおいてはあまり見られないものでした。

ひらめきはないがアイディアを取り入れる柔軟性はあった

信長や秀吉が工夫したアイディアを取り入れることは、家康もやります。たとえば信長が考え出した野戦築城も取り入れる。「兵站の確立」も、信長と秀吉のふたりの創意工夫です。

それまでは戦いのときに、しっかりと食糧を持って行くことはあまり考えなかった。「攻め込んだ現地で調達しなさい」といった、そうした安直な考え方がありました。しかし秀吉は確実に食い扶持を持って行くようにします。あるいは現地でお米を手に入れるとしても、ちゃんと対価を払う。そしてきちんと補給も行う。こうした兵站についての考え方も信長、秀吉のときに確立されます。

本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)
本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)

秀吉の軍事については「城攻め」が有名ですね。堤防を築いて城をまるごと水没させたりする。城攻めに創意工夫が発揮された。それはその通りなのですが、秀吉の最大の独創性は、先にふれたように「兵の運動性を重視したこと」にあると思っています。

そうした先例を見ている家康ですから、野戦築城もやる。兵站もきちんと整備する。行軍も大事にする。そうした工夫を取り入れて、家康は軍事をやります。「富国強兵」もおそらくできる。きちんと領土を経営して富を築き、兵をそろえる。家康は、これはできる。しかし戦場の名将と見られるような戦績は、実は持っていない。彼自身が新しく目ぼしい工夫を凝らしたということもない。そこがなんとも家康らしいなと感じます。

本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。

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