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38歳になった横道世之介。シリーズ完結というが...いつかまた見たい!

  • 2023.8.19

2013年に公開された映画「横道世之介」(沖田修一監督)は、青春映画の傑作として記憶している人も多いだろう(第56回ブルーリボン賞作品賞)。高良健吾が気のいい主人公・世之介を演じ、吉高由里子、池松壮亮らが脇を固めた。ラストがせつなかった。

原作は、吉田修一さん原作の同名小説(2009年、毎日新聞出版)。本書『永遠と横道世之介』(同)は、その第3作にあたる。

こう書くと、第1作と第2作『おかえり横道世之介』(2019年、中央公論新社、文庫化にあたり改題)を読まないと、ついていけないと思うかもしれないが、心配は無用。吉田さん自身が、作中でこう書いている。

「シリーズを通して、ほとんどストーリーらしきストーリーがなく、もっと言えば、起承転結はもちろん、伏線があって最後に回収などという手の込んだ仕掛けもないのである」

「簡単に言ってしまえば、第一作の『横道世之介』は、この物語の主人公たる世之介が、大学進学のため、故郷長崎から上京してきた一年間を描いた物語であり、二作目の『おかえり横道世之介』では、せっかく大学は卒業したものの、バブル景気の波に乗り遅れ、就職もできずにバイト暮らしを送っている二十四、五の世之介の、なんてことのない一年が綴られている」

世之介の1年間の日常が淡々と描かれるという本シリーズの構造はそのままだが、世之介もはや38歳になっており、カメラマンとしてなんとか自立している。それを知り、第一作、第二作を知る読者は安堵するとともに、男盛りになった世之介のあれこれを知りたくなるだろう。

世之介が住むのは「ドーミー吉祥寺の南」という下宿。「住みたい街ナンバーワン」に選ばれる東京・吉祥寺にあるかと思えば、さにあらず。「吉祥寺駅からだとバスで十五分ほど(まったく渋滞しておらず、信号にも一度もつかまらなければだが)で、もっと言えば、肝心の住所が吉祥寺を有する武蔵野市ではなく、はっきりと三鷹市であり」、もっと言えば、「住所は三鷹市でも、あの辺りはもう調布よね」という、わりと大規模な農園やビニールハウスとともにマンションやスーパーがある、のどかな場所である。

なんでそんなところに世之介が住んでいるのか。下宿オーナーのあけみちゃんと事実婚したからである。カメラマンと言っても、事務所から手配されたスーパーのチラシの商品撮影や修学旅行の専属カメラマン、有名になった兄弟子のアシスタントなど、雑多な仕事の毎日。懐にあまり余裕はない。

学生や書店員、元芸人の営業マン、知り合いの教師に頼まれ預かった引きこもりの少年らとの日々が割と濃密に描かれている。下宿人総出のエキストラ出演、春は秩父でのキャンプなどイベントも盛りだくさんだ。そういった「人情下宿」系のお話かと思ったら、なにやらそうではないらしい。

先が長くないことを知った上で交際し、結果的に2年後に亡くなった最愛の女性、二千花のことがフラッシュバックのように何度も登場する。同居するあけみちゃんには、「二番目に好きだけどいいか」と小学生のような台詞を吐き、一緒になったこともおいおいわかってくる。

「この世で一番大切なのはリラックスしていることですよ」

とは言え、「この世で一番大切なのはリラックスしていることですよ」という世之介の口癖通りのまったりとした日常は読んでいて、癒される。

そんな中にも変化はある。売れっ子写真家だった兄弟子は定期収入が断たれ、没落する。その一方、スキャンダルで姿を消していた敏腕編集者がどういう風の吹き回しか、毎日新聞社を思わせる新聞社に職を得て、かねて評価していた世之介を週刊誌グラビアのカメラマンに起用する。

青森から太平洋を南下しながら、漁港と土地の人々を撮影した写真は好評で、クレジット入りの連載となる。ようやく世之介も世に出るのか。古い読者ほど、万感胸に迫るものがあるに違いない。

前作はバブル期の東京が舞台だったが、本作では回想シーンに戦前、戦後の東京がしばしば登場する。新橋の芸者だったあけみちゃんの祖母は旦那から手切れ金よろしく、武蔵野の畑ばかり広がる土地をもらったこと、戦争孤児だった二千花の父親がどんな思いで鎌倉に家を構えたかなど、戦後史を視野に入れた叙述になっている。

作者の自作解説が飛び出したり、いわゆる「神」の視点から悠揚迫らざる描写が続いたり、作風はまったく違うが、評者が連想したのは、司馬遼太郎である。

1980年代以降の日本について鋭い文明批評がここにある。「シリーズ堂々完結」ということだが、前作を知る読者がそれを信じるか。中年になった世之介をいつかまた見たいものである。

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