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欲望はどんな香り? 直木賞作家・千早茜が問う「正しい執着のかたち」とは

  • 2023.6.27

通学路の景色、教室の風景、家族で囲んだ食卓、夏休みに行った祖父母の家、好きだった人......。匂いを嗅いだ瞬間、写真や映像を見たかのようなリアルさをともなって、うんと昔のことが思い出されて懐かしくなることがある。

今年1月、『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞した千早茜さんの新著『赤い月の香り』(集英社)は、人の「欲望」を「香り」に変える天才調香師の物語。2020年に刊行され、第6回渡辺淳一文学賞を受賞した『透明な夜の香り』(集英社)の続編だ。

「匂いは残るんだよね、ずっと。記憶の中で、永遠に」――。人並外れた嗅覚を持つ天才調香師・小川朔(おがわ・さく)。古い洋館でひっそりと、香りのサロンを営んでいる。幼馴染みの探偵・新城(しんじょう)が連れてくる依頼人たちは、香りに関する執着があり、自分だけの秘密の香りを欲していた。

「執着」と「愛着」の違いとは何か、「正しい執着のかたち」とは何かを考えながら、千早さんはこの2作品を執筆したという。

通して読んでみると、個性の強いキャラクターやストーリー展開を楽しみつつ、実際に香りを嗅いで、光を浴び、色を見ているようだった。千早さんの他の作品にも通じる気がするが、ほの暗くて静かな空気の中に、濃密さと鋭さを感じた。

嗅覚で見る

『透明な夜の香り』は、洋館の家事手伝いのアルバイトとして雇われた若宮一香(わかみや・いちか)の視点から語られる。

朔には、目に見えないものを「嗅覚で見る」という特殊能力がある。その人の心の動き、体調、生活習慣、さらにはコインロッカーに遺棄された遺体(死後1時間以内)まで嗅ぎつけてしまうのだ。朔が一香を採用した理由は、体臭がうるさくない(感情の浮き沈みが少ない)、噓つきの臭いがしない(これが大事)からだった。

野生動物並みの嗅覚を持つ朔のもとには、人には言えない事情を抱えた依頼者が訪れる。亡くなった夫の体臭、生きる力を呼びさます香り、傷口の香り......。どこを探しても手に入らない、本人にしかわからない、この世にたったひとつの香りを作ってほしいと彼らは言う。

そんな依頼者の事情とともに、朔と一香それぞれの過去も語られる。ふたりの雰囲気を想像してみると、透明感のあるところが似ている気がした。ただ、心の中に何の不純物もない人間などいるはずもなく、朔と一香にも、心の奥にしまい込んでいる感情や記憶があった。朔は一香と出会って、一香は朔が作った香りを嗅いで、それらがじわじわと出てくる。

「――香りは脳の海馬に直接届いて、永遠に記憶される
けれど、その永遠には誰も気がつかない。そのひきだしとなる香りに再び出会うまでは。」

香りに結びついた記憶

シリーズものはやらない、一作ごとに違う世界に挑戦したい、という気持ちで作家活動を続けてきたという千早さん。ただ、「シリーズ」という課題もあると思い、今回が初めての試みとなる。「書いていて『この空間に戻ってこられてうれしい』と感じる小説だからかもしれません。そういう意味では珍しい作品ですね」と語っている(集英社文芸ステーション『赤い月の香り』刊行記念インタビューより)。

超人的でとらえどころのない朔。軽さと荒っぽさがありつつ、いい奴な新城。このコンビにすっかり親しみを覚えたのと、朔と一香のその後が気になったのとで、わくわくして続編を読みはじめた。

『赤い月の香り』は、一香の次に洋館のアルバイトとして雇われた朝倉満(あさくら・みつる)の視点から語られる。初対面のときに朔は、満から「怒りの匂い」がすると言った。実際、満は衝動を抑えることができず、目の裏が真っ赤に染まり、怒りに支配されることがあった。

「月の荒野にいる夢をみた。(中略)ここにくれば良かったんだ、と思う。月にいれば、月は追ってこない。赤く燃えて迫ってくることはない。もう逃げなくていい。」

そんな満にとって、洋館にただよう瑞々しい草花や樹脂の香り、朔がまとう凜とした孤独を感じさせる静かな香りは、「赤い情動に呑み込まれるのを防いでくれる」もので、満の身体はそれらを欲していた。「俺はきっと、俺から、逃げたい」――。朔の香りに染まっていくにつれて、満は「自分の輪郭が朧(おぼろ)になる」気がした。

しかし、いつまでも自分から逃げているわけにもいかない。朔が作った香りに導かれて、満は過去を思い出す。そこでようやく、怒りの匂いと赤い月の正体にはっと気づく。そして最後、朔が満を雇った本当の理由が明かされる。

千早さんは、『透明な夜の香り』は「朔が少しだけ人に近づき、一歩踏み出すようになるまで」の話、『赤い月の香り』は「朔が継続して人とかかわりを持とうとし始める話」としている。

何でも「透視」できてしまう朔の嗅覚、朔と一香の何とも名前をつけがたい関係、登場人物たちの個人的な嗜好、執着している香り......など、読みどころはいくつもある。欲望の香りをあなたも嗅いでみては。

■千早茜さんプロフィール
ちはや・あかね/1979年北海道生まれ。幼少期をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。翌年、同作にて泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、23年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。著書に、『男ともだち』『わるい食べもの』『神様の暇つぶし』『ひきなみ』など多数。

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