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ADHDだった? 和田秀樹さんが初めて綴った半生

  • 2023.6.24
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精神科医でありながら、数々の著作を生むベストセラー作家でもあり、映画監督をも務める和田秀樹さん。多彩な才能はどのようにして花開いたのだろうか。

新著『わたしの100歳地図』(主婦の友社)は、和田さんが初めて自身の人生を振り返り、 これからの人生を語る、和田さん自身の「人生100年時代の設計図」だ。

今回は序章「0~60歳までの地図 ~生まれついての変わり者」から、多方面で活躍する和田さんの原点をひも解いていこう。

周囲に適応できなかった小学生時代

1960年、大阪で生まれた和田さん。地元の公立小学校へ入学したが、父の転勤などの都合で、中学校へ上がるまでに6回の転校を経験した。「行く先々で問題や悩みを抱える」子どもだったと言い、こう明かしている。

「どうやら、わたしには、現代でいう注意欠陥・多動性障害(ADHD)や自閉症スペクトラム障害に当てはまるような症状があり、それが原因でどこの学校へ行っても環境への適応状態があまりよくなかったのでした」

なかなか周囲に馴染めなかった和田さん。それでも、母は「周りに合わせろ」とは絶対に言わなかったそうだ。和田さんは、繰り返しこんな風に言われて育った。

「周りの人に合わせるより、勉強をして見返してやれ。あなたは変わり者なのだから、会社員は務まらない、それよりも医者、弁護士など、何か資格のある仕事に就くほうがいい」

母の影響は非常に大きかったそうで、「いま、精神科医として拠点をつくれているのは母のおかげ」と感謝の気持ちを綴っている。

一方で、もともと映画監督を志していた和田さんが、医師をめざすきっかけとなったのは、母の言葉だけではなかった。高校生のころに知った、当時、京都府立医科大学の学生だった大森一樹さんの存在も大きい。大森さんは、医師免許を持つ異色の映画監督として広く知られている。

彼の姿から、「映画資金を得るためには、医師になってお金を稼げば良い」と考え、医学部をめざすことにしたのだと言う。

東大合格は遺伝より経験知

和田さんと言えば、受験勉強のテクニックに関する著作も多いが、医学部をめざして受験勉強に取り組んでいた当時の経験も反映されているようだ。

灘高時代、真面目に授業に出ていなかった和田さんは、成績を挽回する必要があった。そんな中、定期テスト前に成績優秀な生徒の数学のノートを使って勉強したことで、初めて満点を取れたことがきっかけに、試験勉強のコツを掴んだという。

「このとき気づいたのは、親がいい大学を出ている人たちは、受験の仕組みを知っているから子どもにしっかり勉強させることができる。親が東大だと東大に入りやすいのは、遺伝ではなくて、親に経験知があって勉強のやり方を知っているからだということ」

和田さんはその後、晴れて精神科医となり、2007年には「受験のシンデレラ」という作品で念願の映画監督デビューも果たした。本作には医師としての経験が役立ったそうで、その後も、劇場で公開された映画の監督を5本手がけている。

忙しいはずのお医者さんなのに、1年に何冊も本を出し、映画まで撮って、よくそんなにいろいろなことができるよなぁ、と思っていたが、本書を読んで、そのどれもが地続きであると知った。母といういちばんの理解者がいたことや、周囲の人物に影響を受けたことは確かだけれど、ちょっとしたきっかけから真理にたどり着く洞察力や、チャンスを逃さず引き寄せる力はさすが。

本書の1章からは、60歳、70歳、80歳を超えてからの地図、そして100歳の地図へと続いていく。和田さんの半生を知れば、その内容がより深みを帯びてくる。

次回は第2の人生のスタート、「60歳からの地図」を見ていこう。

■和田秀樹さんプロフィール

わだ・ひでき/1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。高齢者専門の精神科医として、三十年以上にわたって高齢者医療の現場に携わっている。『80歳の壁』『70歳の正解』『マスクを外す日のために』『感情バカ』『バカとは何か』(すべて幻冬舎新書)など著書多数。

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