1. トップ
  2. 恋愛
  3. 武田勝頼には家康の首を取る千載一遇のチャンスがあった…「取り逃がしたのはわが運の末」と嘆いた幻の作戦

武田勝頼には家康の首を取る千載一遇のチャンスがあった…「取り逃がしたのはわが運の末」と嘆いた幻の作戦

  • 2023.6.18

武田勝頼は長篠合戦で大敗した後も、粘り強く織田信長・徳川家康軍と戦い続けた。大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当する平山優さんは「家康は武田に通じた嫡男信康と正妻築山殿の処遇に悩みながらも北条氏政と組み、武田領の駿府に出兵。しかし、北条は武田と戦おうとせず、勝頼に家康を討つチャンスが到来した」という――。

※本稿は、平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

長篠合戦後、家康は築山殿・信康の処断に追われていた

長篠合戦の4年後、天正7年(1579)7月、武田勝頼と北条氏政が断交し、交戦状態に入ると、家康は北条氏との同盟を模索し始めたらしい。ただ家康は、同年6月頃から岡崎城の息子信康・五徳夫妻と正室築山殿の問題に忙殺され、これに一定の決着がつく8月まで身動きが取れなかったとみられる。だが、信康を岡崎城から追放し、逼塞ひっそくさせた8月上旬以後、ようやく対外政策に取りかかる余裕が出たらしい。

月岡芳年作「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」
月岡芳年作「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」

家康の動きが停滞するなか、勝頼は、天正7年8月、遠江高天神城に番替ばんがわり衆1000人を派遣したという。それを率いていたのは、岡部元信(駿河衆、前遠江小山城将)、相木常林(信濃衆、依田阿江木よだあえき氏)、旗本足軽大将・江馬右馬丞(飛騨衆)、横田尹松ただとしらであった(『軍鑑』他)。これが高天神城に対し、勝頼が実施した最後の大規模な兵員入れ替えとなったのである。

小田原の北条氏政は勝頼と断交し、家康に乗り換える

9月、家康は家臣・朝比奈弥太郎泰勝(今川氏真旧臣)を使者として、海路伊豆に派遣し、北条氏と協議を行わせた。その結果、北条氏政は、家康との同盟を了承し、9月3日に、相互で起請文の交換がなされたという(『武徳編年集成』他)。

これは事実の可能性が高く、朝比奈派遣はそれ以前から行われていた外交交渉の仕上げという意味があったとみられる。朝比奈は、9月5日に浜松に帰り、家康に復命している。これを受けて家康は、徳川家中に、北条氏との同盟成立を通達した。そのうえで家康は、9月13日、諸将に対し、来る17日に北条氏と協同で武田勝頼を攻めることを明らかにし、出陣の下知を行っている(『家忠日記』)。これを受け、徳川方諸将は、17日に続々と軍勢を率いて懸川城に集結した。

いっぽうの北条氏政は、9月14日に家康重臣・榊原康政に書状を送り、同盟と共同作戦の成立を喜び、今後は家康への取り成しを依頼すると申し送っている。

武田氏は、8月15日に、家康が近く駿河に出陣するとの情報を得て、同20日、駿河に出陣した。勝頼は、徳川の出方を窺いながら、沼津に軍勢を進めつつも、家康の進出に備えて、浮島ヶ原に在陣し、武田軍を沼津三枚橋城から浮島ヶ原にかけての東海道沿いに配置した。

武田と北条は伊豆に軍隊を動かして一触即発状態に

これに対し、北条軍は9月17日に伊豆に出陣し、三島から初音ケ原(三島市川原ヶ谷)にかけて布陣した。そして両軍は、黄瀬川を挟んで対峙たいじし、しばしば矢軍やいくさや夜襲が実行されたものの、本格的な開戦には至らなかった。

この時、氏政が動員した兵力は大軍であったらしく、3万6、7000人(『軍鑑』)とも、6万余(『信長公記』)ともいわれるが、それは誇大だとしても相当の軍勢だったことは間違いない。それに対し、武田軍は、武蔵鉢形城の北条氏邦の動向に配慮して、西上野の軍勢を残留させたため、甲斐・信濃衆を中心に1万6000人ほどであったという(『軍鑑』)。武田軍の寡兵は否めなかった。

北条軍の出陣を確認した家康は、9月18日、懸川から牧野城を経て、二山(藤枝市末広にあった本宮山<正泉寺山>と藤五郎山の総称)に布陣した。なお、この直前の9月15日に、家康嫡男信康が二俣で自刃している。

家康は勝頼が北条とにらみ合っているすきに駿河を攻撃

家康は、武田軍が黄瀬川で北条軍と対峙しており、容易には動けぬと判断し、9月19日、1万余の軍勢を率いて当目峠を越え、駿府の関門である持船もちぶね城(用宗城)に猛攻を仕掛けたのである。当時持船城には、駿河衆三浦兵部助ひょうぶのすけ義鏡よしかねと武田海賊衆向井伊賀守正重らが在城していたが、徳川軍の猛攻により遂に城は陥落し、三浦・向井らは戦死した。

勢いに乗った徳川軍は、そのまま一挙に駿府に乱入し、駿府浅間神社などを放火したばかりか、一部の徳川方は由比(由井)、倉沢に進み、一帯を放火したという。この様子は、浮島ヶ原の武田勝頼からも望見できたであろう。勝頼は、家康と氏政に挟撃される恐れが出てきたのである。なお家康自身は、重臣・酒井忠次の諫言かんげんもあり、駿府には進まず、持船周辺に在陣して事態を見守っていたという。

勝頼は命運をかけ北条に決戦を申し入れたが断られた

家康に、駿府が蹂躙じゅうりんされたことを知った勝頼は、武田家の命運をかけた一戦を決意し、これを評議にかけたという。この席上、主戦論が大勢を占めたが、穴山信君のぶただただ一人が反対した。だが、信君の反論は主戦派に押し切られ、北条との決戦が決まったという(『軍鑑』)。勝頼は、北条氏政に使者を送り、決戦を申し入れたが断られたといい、氏政は武田軍の攻撃を警戒して、陣備えを強固にするよう命じた。柵を結い、弓、鉄で待ち構える北条軍の陣所をみて、武田信豊らは長篠合戦の二の舞になることを危惧し、決戦を中止するよう勝頼に諫言した。

勝頼もこれに同意し、北条には戦意がないと考え、ここは陣払いとし、長駆の移動を行い、駿府周辺を荒らし回る徳川軍との決戦を実施することとした。

勝頼は、沼津三枚橋城に、春日信達、武田信豊、城意庵じょういあん・昌茂父子ら3000余を配置し、北条軍の押さえとしたうえで、残る全軍を率いて駿府に向かった。陣払いする時にも、氏政に向けて「家康が山西に攻め寄せ、当目に陣取っているとのことなので、明日はここを引き払い、家康に向かおうと考えている。追撃されるのであれば、覚悟して来られるがよい。また合戦をしようと思うなら結構だ、どこでなりとも出向くので返答されたい」と伝えたが、北条は返事をしなかったという(『三河物語』『当代記』『軍鑑』他)。

勝頼は峠に布陣している家康を急襲しようとするが…

勝頼は、持船城攻略後、家康が当目峠を下りて布陣していることを知ると、「これは家康を餌壺えつぼに入れたようなものだ。それならば、武田軍を率いて宇津ノ谷峠を越え、田中城に移動し、徳川の帰路を塞ぎ、ひと合戦してやろう」と考え、駿府に急行したという(『三河物語』)。

芳宗「撰雪六六談 天目山 武田勝頼」,秋山武右衛門,明治26.
芳宗「撰雪六六談 天目山 武田勝頼」,秋山武右衛門,明治26.国立国会図書館デジタルコレクション

いっぽうの家康は、武田軍は北条軍に拘束され、動けぬと考えており、その急接近にまったく気づいていなかったらしい。ところが、武田軍の移動速度が急に落ちたのである。それは、勝頼重臣・長坂釣閑斎ちょうかんさい光堅こうけんが自重を促したからであったという。長坂は、背後に北条の大軍を放置したまま家康攻撃に向かうのは危険であり、浮島ヶ原で様子をみるべきであると主張した。

勝頼は、北条には戦意がなく、心配は無用だと言ったところ、長坂はそのように敵を甘くみたことが長篠敗戦を招いたのだと重ねて諫言した。さすがに長篠合戦の教訓を持ち出されては、勝頼も反論できず、武田軍は川成島(富士市)に布陣し、背後の北条軍の動向を窺うことになってしまった。9月23日のことであったとみられる。

家康は武田軍の接近にまったく気づいていなかった

そこに運悪く、九ツ時(昼12時頃)から降雨となり、それはまもなく豪雨となったといい、富士川の水嵩みずかさが増えていったという。北条軍に動きのないことを確認した勝頼は、家康撃滅の好機を見逃せぬと、富士川の渡河を強行した。だが増水した富士川に吞まれて、多くの犠牲者が出たという。武田軍は、それでも駿府に急行し、家康を捕捉しようと躍起になっていた。これは24日のことと推定される。

「富士川」
「富士川」(写真=Mocchy/PD-user/Wikimedia Commons)

武田軍の接近にまったく気づいていなかった徳川軍のもとへ、9月25日、一人の僧侶が駿府から駆けつけてきた。この僧侶は、家康家臣大久保忠世の家来・嶋しま孫左衛門まござえもんの甥・越後という人物であったという。彼は家康に、「勝頼が接近してきているので、一刻も早く撤退したほうがいい」と言上したという。ここで初めて武田軍の接近を知った家康は、急ぎ全軍に撤退を指示した。家康は、軍勢をとりまとめ、その日のうちに色尾いろおから大井川を渡河して遠江に無事撤退を完了した。

絶好のチャンスを逃した勝頼は落胆して悔しがった

勝頼が駿府に到着したのは、25日夜のことであつた。すでに家康は陣払いをしており、陣所の跡は、取る物も取りあえず急ぎ撤退した痕跡が明瞭であったという。家康をすんでのところで逃がした勝頼は、切歯扼腕せっしやくわんして悔しがった。

平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)
平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)

彼は「戦ってはならぬ長篠で合戦に及び、戦わねばならぬ今度の好機を逃がしたことは残念だ。家康を駿河に取り込んで撃滅できれば、織田信長が如何に勢力を大きくしようとも、家康なくして武田との合戦は思うに任せないはずだ。家康を討ち滅ぼし、遠江・三河を手に入れれば、信長の領国尾張に出兵することも可能となり、武田も勢力を持ち直したであろう。今ここで家康を取り逃がしたのは、わが運の末である」と嘆じ落胆したと伝わる(『三河物語』)。

間一髪で勝頼の襲来をかわした家康は、9月28日まで色尾に在陣し、勝頼の動向を窺っていたが、北条氏政より作戦終了と撤退を知らせる使者を受けると、10月1日浜松城に帰還した。

勝頼は、その後も駿河に在陣し、高天神城に警備の強化を指示するいっぽう、穴山信君が在城する江尻城の大改修を実施させている。この大改修で、江尻城には「百尺城楼」と呼ばれた高層の櫓やぐらが建設された(戦武3187号)。この高層の櫓は、武田氏が築いた天守だとする論者もいるが、その詳細は明らかになっていない。

平山 優(ひらやま・ゆう)
歴史学者
1964年東京都生まれ。山梨県在住。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県立中央高等学校教諭などを経て健康科学大学特任教授。著書に『山本勘助』(講談社現代新書)、『真田三代』(PHP新書)、『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)、『武田氏滅亡』(角川選書)など。新刊に『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)がある。

元記事で読む
の記事をもっとみる