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「主語が国、社会、家、キャリアであり、女性ではない」異次元の少子化対策が女性から総スカンな理由

  • 2023.6.9
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なぜ日本の女性政策は女性本人から受け入れられないのか。雇用ジャーナリストの海老原嗣生さんは「女性と子どもをテーマにした政策や言説は数多くある。ただ、本当に女性たちが心から嬉しくなるような『言葉』はそこにあっただろうか。『国と社会のため』が『会社と経済のため』に衣替えし、『妻として』『家にふさわしく』が『キャリアに資するから』『将来役立つ』へと進化・変化した。でも、そこにある主語は『国』『会社』『家』『キャリア』『将来』であり、女性自身ではない」という――。

主語は国、社会、家、キャリアであり、女性ではない

この100年間、女性と子どもをテーマにした政策や言説は数多くありました。ただ、本当に女性たちが心から嬉しくなるような「言葉」はそこにあったのでしょうか。

「国と社会のため」が「会社と経済のため」に衣替えし、「妻として」「家にふさわしく」が「キャリアに資するから」「将来役立つ」へと変化しています。でも、そこにある主語は「国」「会社」「家」「キャリア」「将来」であり、女性自身ではありません。

「人出不足」という新聞の見出し
※写真はイメージです

昔の言説に目を向ければ、現代人の感覚からはあり得ない暴論が目白押しで、本当に酷いの一語に尽きます。ただ、一皮むけば、現在行われている数々のキャリア論や少子化議論も同じなのではないでしょうか。

だからこそ、女性たちは言葉なき抵抗をやめないのでしょう。

そろそろ、政策論争や有識者提言が、女性を弄んでいるということに気づくべき時です。歴史の流れを紐解きながら、女性の脱“玩弄”を考えることにいたします。

「女性は子育てに尽くすべき」と唱えた平塚らいてう

明治維新で近代化が進む日本。封建制や士農工商の身分制が崩れ、自由民権運動の活発化や近代法の確立など、旧弊刷新が進んだ時代。ただ、女性の権利は捨て置かれたままでありました。その後、殖産興業の進展に伴い、女性の活躍の場も広がり始め、そこに大正デモクラシーの自由な風が吹いたことで、女権の拡大に対して、ようやくもの言う風潮が奇跡的に生まれます。

【連載】「少子化 女性たちの声なき主張」はこちら
【連載】「少子化 女性たちの声なき主張」はこちら

やがて戦争へと進む歴史の中で、一瞬の輝いた時代に繰り広げられた、幼い「女権」×「母権」論争。「虐げられた環境」で、精一杯のあがきが続けられました。当代きっての女性論客である与謝野晶子と平塚らいてうが繰り広げたこの論争は、現代まで続く、「理想vs常識」という二項対立の原型でもあります。

平塚らいてう(1886~1971)(
平塚らいてう(1886~1971)(写真=国立国会図書館ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

振り返れば、晶子は理想を、らいてうは常識を語っているに他なりません。

らいてうは性別役割分担を積極的に受け入れ、女性は家に入り子育てに尽くすべき。代償として、政府がその費用を負うべきという「母権」論を語ります。こんな、ともすれば「女性は家に入れ」という意見が、当時のモガ(モダンガール)からは絶大なる支持を受けていました。のみならず、文豪のトルストイや、北欧女性運動家のエレン・ケイなど、著名な進歩的文化人が、こぞって、この考え方に拠っていたのです。

「家事・育児・労働を男女平等に」と唱えた与謝野晶子

対して晶子は、「生物学的に言えば、女性にしかできないのは妊娠と出産のみであり、育児や家事は男女ともにできる。労働も男女平等にできる」という考え方です。今日的には当たり前であるこの「女権論」は、当時は理想的に過ぎると、多くの人が一歩引いた見方をしていました。ここが社会問題を考える時の難しいところです。

当時は、労働が男性に牛耳られていました。そうした中では、女性は劣悪な条件でしか職に就けませんでした。そこで、当代の文化人は、危険で低待遇な仕事に女性が就くよりも、家庭に入ることを勧めたのです。

与謝野晶子(1878~1942)
与謝野晶子(1878~1942)(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

その時代・その社会の営みとは、全てが累々と連関しているものであり、そうした系の中でしか物事は考えられません。その系を外れた提言は、「無理筋」であり、現実味がありません。ゆえに、理想論と揶揄されてしまうことになります。

ところが、時代が進み、社会条件が変わると、理想論こそ常識になり、過去の常識は唾棄すべき暴論に堕します。

この理想×常識のダイナミズムを、らいてうと晶子の論争から読み取り、社会を見る一つの糧にしてほしいところです。

西欧でも日本でも「妻は夫に従属するもの」という価値観

明治維新によって士農工商という身分制が改まり、四民平等が実現、国民には職業選択の自由が認められましたが、その恩恵を被ったのは主に男性でした。明治の初期は女性の職場は狭い範囲に限定されており、農業・自営商などの旧来的な職業以外では、新しい職種といえば、教師や看護師、製糸工場などにおける女工くらいのものだったのです。

しかも女性の場合、結婚後の地位が低く、1896(明治29)年に制定された民法第14条には「妻の無能力」が規定されていました。結婚前は自由であっても、結婚後、働くには夫の許可が必要。ただ、実はこの点について、日本が世界から見て大きく遅れていたとは言えないことを、付言しておきます。

こうした「妻は夫に従属する」という考え方が、近代のシビリアンロー(市民法)下でも成り立ったのは、元来、職業機会の少ない女性、とりわけ育児期の女性は、夫に守られているべきであり、その見返りとして、夫には妻に対する扶養義務が課される。それで男女は釣り合うという考え方です。簡単にいえば、「仕事のないお前を食わせてやってるのだから、文句は言うな」ということでしょう。

西欧でもこんな感じだったのです。この背景が見えると、次段落での平塚らいてうと与謝野晶子の「母権論争」、そしてエレン・ケイの男女役割分担論も読み解くことができるはずです。

らいてう率いる青鞜社につめかけた「新しい女」たち

明治も中盤以降になると、政府の殖産興業施策によりさまざまな産業が勃興し、それに伴い、女性の職場も次第に増えていくことになります。女性の電話交換手が生まれたのは1890(明治23)年、国鉄と三越がはじめて女性社員を採用したのが、それぞれ1900(明治33)年、1901(明治34)年。ただ、こうした職域もやはり、アシスタントもしくは色添えとしての側面が強く、産業界のメインで活躍するという類いのものではなかったようです。

それでも、社会で働く女性の増加は、従来の良妻賢母型の女性像を打ち壊す解放運動につながっていったのは確かでした。その流れの最初の理論的支柱となったのが、1911(明治44)年に創刊された女性雑誌『青鞜』です。平塚らいてうが書いた「元始、女性は実に太陽であった。(中略)今、女性は月である。(中略)私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」という発刊の一節が大きな反響を呼び、発行元の青鞜社に購読ならびに入社希望者が殺到しました。社屋周辺に集う女性たちは「新しい女」と呼ばれたそうです。

『青踏』の創刊号。
『青鞜』の創刊号。(画像=高村智恵子作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
晶子とらいてうの「母性保護論争」

ところが『青鞜』は一度発禁処分となり、その後1916(大正5)年、わずか52号で休刊。らいてうはより一層の女性解放を目指し、市川房枝らとともに、1920(大正9)年に新婦人協会を設立し、「女子高等教育、婦人参政権、母性保護」などを目標に掲げました。

その平塚が、1918(大正7)年から翌年にかけ、歌人、与謝野晶子と繰り広げたのが「母性保護論争」です。「元始女性は太陽であった」の一文が寄せられた『青鞜』創刊号には、与謝野晶子も有名な「山の動く日来る」で始まる詩を書いています。つまり当初は両女がそろい踏みしているのですが、晶子はその後、『青鞜』とは距離を取っています。そこには、らいてうと晶子の女性解放に関する根本的な方向性の違いがあったのではないか、と思われます。

端的にいえば、晶子は女性が経済的に自立することが第一であり、そうすれば、夫からの自由を勝ちうるという考え方があります。彼女は、家事・育児こそ女性の生業という男女性別役割分担論を忌避しました。ここが、らいてうとの最大の違いと言えるでしょう。

子育ては母だけの役割ではない

晶子は「母性偏重を排す」の中で次のように述べています。

「人間は単性生殖を為し得ない。男は常に種族の存続に女と協力して居る。この場合に唯だ男と女とは状態が異なるだけである。男は産をしない、飲ますべき乳を持たないと云ふ形式の方面ばかりを見て、男は種族の存続を履行し得ず、女のみが其れに特命されて居ると断ずるのは浅い。

トルストイ翁もケイ女史も何故か特に母性ばかりを子供の為めに尊重せられるけれど、子供を育て且つ教へるには父性の愛もまた母性の愛と同じ程度に必要である。殊に現在のやうにまだ無智な母の多い時代には出来るだけ父性の協力が無いと子供の受ける損害は多大である。母親だけが子供を育てることは良人が没したとか、夫婦が別居しているとか云ふやむを得ざる事情の外は許し難いことである」(「母性偏重を排す」 1916/2)

何も子育ては母だけの役割ではなく、あくまでも男女平等という主張は昨今、ようやく「イクメン支援」などで日本にも定着しつつある。100年以上前にそれを唱えた晶子はまさに開明的といえるでしょう。

エレン・ケイ「女の生活の中心要素は母となること」

この論点を深める上で、二人が対照的な受け止め方をした、当時のスウェーデンの女性思想家エレン・ケイの発言を書いておきます。

「女の生活の中心要素は母となることである。女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥すべし」

いかがでしょう。「結婚と出産、子育てこそ女の喜び」といった典型的な性別役割分担観を感じずにはいられない言葉ですね。これに対して、晶子は猛反発し、以下のように反駁はんばくしています。

エレン・ケイ(1849~1926)は、スウェーデンの社会思想家・教育学者・女性運動家(右)。
エレン・ケイ(1849~1926)は、スウェーデンの社会思想家・教育学者・女性運動家(右)。(画像=Carl Milles『en biografi』/PD Sweden/Wikimedia Commons)

「私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、寧ろ私が母としての私をも実現し得たことは其相応の満足を実感して居る…(中略)女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか。人間の万事は男も女も人間として平等に履行することが出来る」(「母性偏重を排す」 1916年2月より)

劣悪な環境で働くのなら、家に入った方がいいという主張

一方、らいてうは、エレン・ケイに心酔し、その翻訳までしているため、晶子のエレン・ケイ批判を甘受することができません。

エレン・ケイが性別役割分担的に映る考えを発した背景には、当時の社会状況があります。女性は、不平等で劣悪な環境下で労働を押し付けられていました。だから、女性は危険な労働に出るよりも、家事育児優先で、社会はその保障をすべき、と説いたのです。こうした女性の育児労働により、子どもは国家の担い手へと育ち、社会を支えていく。だからこそ、国がその手当を払うべきと論を進めます。

対して晶子は、劣悪な女性の労働条件の改善、そして、男性の扶養に頼らない女性の自立を希求すべきと対論を張りました。らいてうは晶子の主張に対し、女工の悲劇的な労働状況を挙げて再反論するという形で、両者のバトルは熱を帯びていきます。

現代の感覚から読み解くと…

この両者を現代的な感覚で評価すれば、以下のようになるのではないでしょうか。

与謝野評 男女平等、アンチ性別役割分担という意味では至極まっとう。
ただ、国家の補助さえも半ば否定的なのは、いささか不思議な気もする。たぶん、彼女の活躍した時代は、全体主義的風土が強く、国家に対する信頼が乏しかったせいもあるだろう。現在であれば、国の補助に対して、彼女も違った見方をしたのではないか。
論拠の弱さは、当時の未成熟な労働社会において、本当に女性は自立できたか、という点。現代なら正しく思われるが、当時では疑問が持たれる。 平塚評 母性主義、性別役割分担甘受という点は違和感がある。が、悲劇的なほどの女性労働の不平等において、逃げ込み先として家庭労働があり、また、その際に、夫への従属感が増さないよう国家補助が必要という考え方は理解できる。ただし、悲劇的と彼女が示唆した女工労働だが、①それでも当時の実家での生活よりは上等、②男性の労働者、なかんずく鉱山や林業、製鉄所、などでも至る所で「悲劇的」であり、幼児労働さえ盛んだった。そうした現実を見たら、「誰もが(危ない)労働をせず家事に逃げ込むべき」と反論されそう。

らいてう「よい子を育てる母を国家がサポートすべき」

らいてうと晶子の二つ目の大きな違いは、国家による育児サポートにあります。らいてうは、育児期は夫の収入に頼る妻の立場は弱くなり、さらに自由も損なわれると唱えます。

「母親をして安んじて家にあって、その子供の養育並に教育に自身を捧げしめ得ると同時に、その生活を男子によらねばならぬ屈辱からも免れしめる」(「母性の主張に就いて与謝野晶子氏に与ふ」より)

現在の育児休業手当の概念と通じるところがあり、また夫に頼らざるを得ない環境からの脱出という意味でもよくわかる話です。

では、その原資はどこから出るのでしょうか。

「子供の数や質は国家社会の進歩発展にその将来の運命に至大の関係あるものですから、子供を産み且つ育てるといふ母の仕事は、既に個人的な仕事ではなく、社会的な、国家的な仕事なのです。そしてこの仕事は婦人のみに課せられた社会的義務で、これは只子供を産み且つ育てるばかりでなく、よき子供を産み、よく育てるといふ二重の義務となって居ります。しかもこの二重の社会的義務は殆ど犠牲的な心身の辛労を通じてでなければ全うされないもので、とても他の労働の片手間などのよくし得るものではありません。ですから国家は母がこの義務を尽くすといふ一事から考へても十分な報酬を与へることによって母を保護する責任があります。

その上かうして母性に最も確実な経済的安定を与へることは、母である婦人が母の仕事以外の職業に就く必要を除きますから、余儀なく子供を疎にしたり他人の手に任せたりする機会も減ずる訳で、自然児童の死亡率を低くし、その生みの母の無限の愛や感化や、真の母でなければ到底出来ない行き届いた注意や、理解によって、児童の精神も肉体も一般に健全なものとして育ちますから、国家の利益とも一致します」(「母性保護問題に就いて再び与謝野晶子氏に寄す」1918年7月より)

つまり、こうして育てられた子どもは、お国のため、富国・強兵に資するのだから、この女性の損失に対して、国は保障を行うべきとの考えがありました。

「国に頼った分、国に返す義務が起こる」危険性を予見した晶子

対して、晶子はある面賛成しながらも、この国家保障論さえも忌避するのです。

「平塚さんが『母の職能を尽し得ないほど貧困な者』に対して国家の保護を要求せられることには私も賛成します」(「平塚さんと私の論争」 1918年6月より)
「妊娠や分娩の期間には病気の場合と同じく、保険制度に由って費用を補充すると云ふやうな施設が、我国にも遠からず起るでせう。否、大多数の婦人自身の要求で其施設の起る機運を促さねばなりません」(「平塚、山川、山田三女子に答ふ」 1918年11月より)
「国家の特殊な保護は決して一般の婦人に取って望ましいことでは無く、或種の不幸な婦人のためにのみやむを得ず要求さるべき性質のものであると思って居ます」(「平塚さんと私の論争」1918年6月より)

与謝野晶子の著書
撮影=プレジデントオンライン編集部

大正デモクラシーの自由な風が吹く当時だから、女性たちが男や社会に向かって論争することが許されたのでしょう。そして、らいてうは、国と女性がgive-and-takeの関係で、育児保障を行うことを良しと考えました。

が、晶子は用心深く、易々と国の恵みは受けないという姿勢をとります。晶子の抱いたその器具は、1世代後の昭和前半において、現実となっていきます。育てた子供たちは、お国のためにと駆り出されていくわけですから。「国に頼った分、国に返す義務が起こる」を予見していたのかもしれません。加えて、軋轢や問題も多いままの現社会を肯定して国・母協定を結ぶ(即ち現状維持に陥る)ことを危惧したのでしょう。

らいてうは、社会学の基本を押さえていない

二人の論争を現代から見た視点で解説してみましょう。本来、環境条件が異なる時代を論評するのは公平性に欠け、当事者への非礼にあたるのですが、ここは「いつの時代でも起きている良識と常識の違い」を知るために、あえてタブーを犯すことにいたします。

まず、男女性別役割分担を認め、女は母であることが勤めであり喜びでもある、という考え方には、多くの読者が鼻白む思いを抱くのではないでしょうか。この点で、晶子の意見の方が、現代的であることは間違いがありません。

「女性も男性のように稼ぎ、自立すべき」という晶子の主張に関しては、その趣旨自体、多くの現代人が賛成するでしょう。ただ一方で、極度に差別された大正時代において、劣悪・低待遇の労働は女性を不幸にするという、らいてうの考え方に納得する人も少なからずいるはずです。この点については、晶子を理想論、らいてうを現実論という形で両者痛み分けと見ることが妥当そうです。

ただし私は2点、付言しておきたい。

まず、らいてうの挙げる事例はことごとく、「女性の悲惨な環境」であり、この点は、社会学の基本を押さえていない、煽情的なジャーナリズムとも言えそうです。当時は男性の労働も同様に悲惨なものでした。だから、この手の話では、お相子あいこの水掛け論になってしまうのです。それよりも、労働機会の少なさ、同一労働下の給与条件の違い、昇進格差、身分保障格差などをしっかりと提示しなければならなかったでしょう。当時、まともな雇用ジャーナリズムが確立されていたならば、らいてうの持論はもう少し公平性を兼ね備えたデータや事例が補なわれ、「現代人」の心も引きつけたのではないでしょうか。

一方、晶子の考え方を補強するのであれば、「らいてう型の運動では現状の中での次善策にしかならず、改善・進展は見られない」のだから、「あくまでも現時点では理想であるが、その理想の方向に社会を変えるための第一歩として、運動をすべき」と説いたらどうか、などと感じています。

西欧からの常識的な良識をありがたがる「出羽守」パラダイム

本稿は大部分が、らいてうと晶子の「母権×女権」論争に終始しましたが、この問題を振りから、いくつか重要なポイントが見えてきます。

まず、時代の圧倒的な支持を受けたらいてうの意見が、今から見ると、古臭く差別的なものでしかない、ということ。

これが一つ目の大きな示唆。

翻っていえば、現代人が「開明的」と思う論調も、同じ危惧があり、時代を下った未来人たちからは、嗤わらわらわれる可能性があるでしょう。多くの現代人に支持される意見とは、「現代という一瞬」の常識に過ぎないということです。

そして、こういう「時代を代表する卓見」というのはいつの時代も、欧米からの直輸入というのが、悲しいところです。あのエレン・ケイやトルストイが言うのだから、「性別役割分担論」は正しいと、らいてうほどの人が語る様子。似たような風景が、今も論壇で日々繰り返されています。そんな「出羽守(何かというと”欧米では・・”という人たち)」が古来日本では、幅を利かせ続けているのでしょう。

時代に収まる良識より奇説珍説が案外正しい

二つ目は、現代から見ても正しく感じる普遍的正論は、時代が早すぎると「理想論」、下手をすると「奇説珍説」と扱われ、大衆からは謗そしられるということ。性別役割分担を忌避し、男女平等を強く説き、全体主義的国家運営につながる国家保障政策に危惧を感じた晶子の論は、時代の支持を受けず失速しがちでした。同じことは、20~30年前にも「今からすれば当たり前の」男尊女卑批判を唱えた田嶋陽子女史が、男性コメンテーターの並ぶバラエティー報道番組で嗤いものにされていたことなどを彷彿とさせます。

今でこそ、ルッキズムや性の商品化などが当たり前に批判され、ミスコンを中止にする大学も続出しています。こうした点について、50年も前に、上野千鶴子女史は『セクシィ・ギャルの大研究』で既に問題視していました。ただ、その頃、彼女の言説を支持した人がどれほどいたでしょう。

類似する話は枚挙にいとまがありません。

私たちが現在、「開明的」と思っている良識さえ、現代の常識の最先端にあるに過ぎないのでしょう。案外、いつの時代でも、奇説珍説と笑われ、蔑まれ、憤りをぶつけられている意見こそ、普遍的には正しいのかもしれません。

そんな「常識的な良識」と「開明的な奇説珍説」という言論パラダイムを、ぜひとも心してほしいところです。

海老原 嗣生(えびはら・つぐお)
雇用ジャーナリスト
1964年生まれ。大手メーカーを経て、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。広告制作、新規事業企画、人事制度設計などに携わった後、リクルートワークス研究所へ出向、「Works」編集長に。専門は、人材マネジメント、経営マネジメント論など。2008年に、HRコンサルティング会社、ニッチモを立ち上げ、 代表取締役に就任。リクルートエージェント社フェローとして、同社発行の人事・経営誌「HRmics」の編集長を務める。週刊「モーニング」(講談社)に連載され、ドラマ化もされた(テレビ朝日系)漫画、『エンゼルバンク』の“カリスマ転職代理人、海老沢康生”のモデル。著書に『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』(ともにプレジデント社)、『学歴の耐えられない軽さ』『課長になったらクビにはならない』(ともに朝日新聞出版)、『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書)などがある。

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