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38歳、不妊治療してまで生んだのに...。疲れた心を照らす、窪美澄の短編集。

  • 2023.6.5
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「きれいな形でなくてもいい。 きっと誰かが照らしてくれる。」

昨年、『夜に星を放つ』で第167回直木賞を受賞した窪美澄さん。喪失、困難、そこからかすかに見える希望が描かれていた。

本書『夜空に浮かぶ欠けた月たち』(KADOKAWA)は、やさしさとあたたかみに満ちた「癒し」と「再生」の物語。疲れたとき、傷ついたとき、読む人の心にそっと寄り添って「ダイレクトに効く」連作短編集となっている。

これまで読んできた窪さんの作品の中で、個人的にはガツンとくるものの印象が強かったが、本書は全編にわたってやわらかい空気が流れていた。

東京の片隅にある2階建ての一軒家。庭には季節のハーブが植えられている。病院というより普通の家にしか見えないここは、精神科医の夫・旬(じゅん)とカウンセラーの妻・さおりが営む「椎木(しいのき)メンタルクリニック」。

キラキラして見える同級生に引け目を感じ、学校に行けなくなった女子大生。忘れっぽくて約束を守れず、「ADHDなんじゃねーの」と同僚から言われる自称・ダメサラリーマン。彼氏にひたすら尽くしても、重たがられて終わるアラサー会社員。

クリニックには今日も、悩みを抱える人々が訪れる――。

私だって本当なら

美菜(38歳)は、不妊治療を経て娘を産んだ。真夜中に娘が泣いても夫は起きない。「昼間も働いているのに、夜も働かせるの!」と言われたときは失望した。

近隣住民からうるさいと思われている気がする。命を預かっている責任が重くのしかかる。そこにもう1つ、悩みがあった。ようやく授かった命。それなのに、「かわいい」という気持ちが自然に溢れ出てこないのだ。

壁にかかった名画のカレンダーをぼんやりと見る。アンリ・ルソーの「エデンの園のエヴァ」。林檎を食べて楽園を追放される前だろうか、巨大な満月の下で裸のエヴァが花を折っている。美菜は心の中でエヴァに声をかける。「楽園にそのままいたほうがいいよ、子どもなんか産まないほうがいいよ......」

ある日、ぐったりしたままSNSを眺めていると、設計事務所時代の元同僚のインタビュー記事が目に留まった。美菜は仕事の忙しさと人間関係のストレスでパニック障害になり、結婚を機に仕事を辞めた。一方、彼女は母親業と仕事を両立させて活躍し、インタビューまでされている。

「私だって本当なら......。(中略)パニック障害なんかにならなかったら、裕樹と結婚なんてしなかったら、玲奈が生まれなかったら......残酷な『もし』で頭のなかがいっぱいになっていく。」

美菜は夫に休みの「許可」をもらい、美容院に行った。それから「純喫茶・純」に向かったところで、パニックになってしまった。店主の純(じゅん)に助けられ、そこで「椎木メンタルクリニック」を紹介された。純も通っていたことがあるという。

完全な丸じゃなくても

「純喫茶・純」は年季の入った煉瓦造りの2階建てで、外壁には蔦が伸びている。「椎木メンタルクリニック」とともに、この町で悩みを抱える人々の居場所となっている。

知人に見られたらどうしよう......と思いながら、美菜はクリニックへ。涙が溢れてきて、話を聞いてもらい、言葉をかけてもらった。美菜の目には、さおりも純も強くしなやかな女性に映る。しかしそれぞれに、今の姿からは想像もつかない「過去の出来事」があった――。

心を病んだことを認めたくない登場人物もいる。ただ、それは「いつでも、誰にでも、起こりうること」で、美菜が嫉妬した元同僚も何か事情を抱えているかもしれない。誰にでも、誰かに支えられた過去や支えられている今があることを、本書は伝えている。

「このクリニックにはね、ほんの少し、ううん、ひどく心が疲れてしまった人がたくさん来るの。人間だもの、そういう時期は誰にでもあるよね。でもね、人間は完全な丸じゃないし、誰だってどこかが欠けているものなの。」

この町では、人と人とのつながりがほどよい密度で張り巡らされている。誰かが自分のことを気にかけて、話を聞き、言葉をかけてくれる。それがどれだけ自分の力になることか。これまであちこちで転んできたし、これからもそうかもしれないけれども、そこで立ち上がってまた歩き出せそう......。そんなふうに思える言葉とたくさん出合える1冊。

「心が疲れてしまったとき、どうにもやりきれないとき......。そんなときにはこの一冊があなたの支えになるかもしれません。」――窪美澄

■窪美澄さんプロフィール
くぼ・みすみ/1965年、東京都生まれ。2009年、「ミクマリ」で第8回「女による女のためのR‐18文学賞」大賞を受賞。11年、受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞を受賞、本屋大賞第2位に選ばれた。12年、『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を受賞。19年、『トリニティ』で織田作之助賞を受賞。22年、『夜に星を放つ』で直木賞を受賞。その他の著作に『アニバーサリー』『よるのふくらみ』『水やりはいつも深夜だけど』『いるいないみらい』『ははのれんあい』『夏日狂想』『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』などがある。

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