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人柄をあらわす名追悼。宮崎駿、松本隆、ポールマッカートニーらの愛があふれる、さよならのことば

  • 2023.6.4
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羽鳥好美 イラスト

「されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆふべ)には白骨となる身なり」。葬儀の際によく読まれる蓮如上人の「白骨の御文章」は、美文として語り継がれている。朝は元気だったのに、夕方には白骨となってしまうという、人の世のはかなさが切々と述べられている。

追悼のことばは美しい。この世にいなくなってしまった故人を思い、出会ったのはいつだったか、どんな印象だったのか、一緒に過ごした日々の記憶やエピソード、当時は言えなかったこと、そしてメッセージが綴られている。

宮崎駿の高畑勲に対する尊敬の念や、阿川弘之・佐和子の緊張感と愛情が入り交じった複雑な親子関係。それらが表されたことばには、綴った人と贈られた故人の関係性が滲み出ていて、故人の知られざる一面を垣間見ることができ、生き方や仕事観、思想を窺い知ることができる。

親しい人の死は悲しい。しかし、追悼のことばには、悲しみの中に、遺された人の生きる決意がきらりと輝く。ことばは死なないのだ。

大貫亜美 → さくらももこ

わたしがいつもももちゃんを痛烈に思い出すワンフレーズがある。歌詞の引用とか無粋すぎて嫌なんだけど仕方ない。
歌の最後の方に「なんとかなるさと山登り なんにもならずに川下り」というのがあり、うまく言えないけどすごくももちゃんらしさを感じる一節だと思っている。
なんにも考えずに挑戦してみたけどやっぱダメで、けどそれを責めるでもなくスイ〜ッと下りてくるという、結果何でもないこの感じ。わたし的には、これがさくらももこなのでは!と思う。これが最後なんて最高じゃん!

共通の知人の紹介で出会った2人は、お互いの家を行き来し家族ぐるみの付き合いであった。さくらももこの提案で、アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「すすめナンセンス」をPUFFYが歌うことになった。“お笑い”が好きな2人は、よく面白かったお笑いについてやりとりしていたという。さくらのナンセンスな歌詞が本人を体現する。(『小説すばる』2018年12月号より)

陣内孝則 → 内田裕也

「媚びない」「ぶれない」「すぐ怒る」の三拍子そろっている。

ロック少年だった高校時代に内田裕也のステージを観て衝撃を受け、バンド〈ザ・ロッカーズ〉を始めた俳優の陣内孝則。内田は自身がプロデュースするフェスでは必ず陣内に声をかけた。「怒ることがエネルギー」だったが、「言ってることもやってることも、子どものまんま」「実はシャイ」だというチャーミングな一面を語り、ロック魂を受け継ぐと言った。(『婦人公論』2019年4月23日号より)

横尾忠則 → 梅原猛

幻視者であり、予言者のよう。

地方のテレビの仕事で共演したときに“霊性”で結びついたという2人。梅原猛が原作を手がけたスーパー狂言では、横尾忠則がポスターを手がけ、後に装束、舞台美術も担当している。その舞台では、内容と現実が奇妙にリンクする不思議な現象が起きた。横尾は、梅原といると「創造力がひっぱり出されていく」感覚があったと述べている。(『芸術新潮』2019年4月号より)

野坂麻央 → 野坂昭如

「あなた」と問いかけ敬語で話し、娘たちも小さなレディとして扱って、例えば父は私の目の前で着替えたことがない。
自分なりの「ダンディズム」に溢れた人だったと思う。

自身の戦争体験を描いた『火垂るの墓』をはじめ、多くの作品を残し、作家のみならず歌手、タレント、政治家としても活躍した野坂昭如。歯に衣着せぬ物言いや酒癖の悪さが有名だが、家では愛妻家、子煩悩のよき父であった。娘・麻央の授業参観に純白のスーツとサングラスで現れたり、結婚式に一本のバラを手渡すなど、独自のダンディズムを貫いていた。(『婦人公論』2016年2月9日号より)

阿川佐和子 → 阿川弘之

羽鳥好美 イラスト

“最後の晩餐”での言葉は「まずい!」だった

作家の阿川弘之、94歳、大往生だった。娘で同じく作家・エッセイストの佐和子によると“わがままで短気”、家族に対する厳格さは亡くなる前日まで健在だったそう。これは、入院先の病院で佐和子が持ってきた天ぷらを食べた後にぽろりと言った一言。最後までわがままを通した父らしいエピソードをユーモアを交えて語った。(『週刊朝日』2015年12月18日号より)

小西康陽 → ムッシュかまやつ

羽鳥好美 イラスト

1960年代、当時の若者たちの間で「愛と平和」を尊ぶ風潮が生まれた。戦争や暴力を嫌い、男女平等を当然と考え、弱者に手を差し伸べる。
そんな「優しい時代」の空気を誰よりも巧みに表現したのがビートルズの音楽だと考えているが、ジョンやポールの人柄を間近に知るわけではないぼくにとって、ムッシュこそは「優しい時代」の体現者だった。

日本のポップミュージックとカルチャーに大きな影響を与え、「ムッシュ」の愛称で親しまれたかまやつひろし。高校1年生の時からスパイダースの音楽に触れてきた小西康陽は、若いスタッフにもこまやかな神経を使うかまやつを「カッコよくお茶目な人」「本当に優しい人だった」と。そしてムッシュの精神を継ぎ、誰に対しても優しくありたいと述べた。(北海道新聞2017年3月24日より)

オバマ夫妻 → アレサ・フランクリン

羽鳥好美 イラスト

「アメリカには君主がいません。ですが、その代わりに時代を超えた不朽のものを手にいれるチャンスには恵まれています。テネシー州メンフィス生まれ、ミシガン州デトロイト育ちのアレサ・フランクリンは、父親の教会でゴスペルを歌いながら育ちました。
それから約60年、彼女は歌う度、我々は神を垣間見ることができたのです。作曲と比類なき音楽の才能を通じて、彼女は『アメリカらしさ』を定義付けしてくれました。彼女の歌声を通じて、我々の歴史のすべて(あらゆる点を含め)、我々のパワー、心の痛み、闇と光、救いの追求、そして我々がようやく手に入れたリスペクトを感じ取ることができます。
彼女は人と人との繋がり、希望、人間性をより強く感じさせてくれました。また時には、すべてを忘れて踊りたい気分にもさせてくれたのです」

膵臓癌で76歳でこの世を去った“ソウルの女王”アレサ・フランクリン。バラク・オバマ元大統領夫妻はアレサのファンであり、よき友人。2009年のバラク・オバマ元大統領の就任式でも歌声を披露した。その様子をツイッターで「時が止まったようだった」と妻ミシェルが語ったという。(2018年8月16日オバマ夫妻の共同声明「ハーパーズ バザー・オンライン」より、Reiko Kuwabara翻訳)

嵐山光三郎 → 安西水丸

ブルーのコートを着て伏し目がちに話す水丸と会ったとき、「ただ者ではない」という妖気を感じた。市川雷蔵が演じる眠狂四郎のような虚無感と、「汚れた英雄」という映画のジェラール・ブランのような甘い色気があった。

嵐山光三郎が勤めていた平凡社にニューヨーク帰りの安西水丸が入社した1971年からの仲。初対面で妖気を感じ、すぐに親しくなったという。嵐山の紹介で『ガロ』に漫画を連載したり2人で絵本を出版したり、語り尽くせぬ思い出があると述べている。追悼文では「東京」「美女」「散歩」を安西の人格を形成する3要素とし、人生や作品と絡めて評した。(『小説現代』2014年5月号より)

坂口恭平 → 石牟礼道子

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みっちんは歌だ。だから、肉体そのものとなって、口を開き、体を振動させ、声帯を鳴らせば、いつでもみっちんが途端にあらわれでてくる。
これからも死ぬまでずっと歌をうたっていこう、そうすれば何も消えることはなく、ささやかな風と同じように今もこの現実に漂い続けることができる。そういうことを身をもって体験させてもらった。歌は死なない。

熊本を拠点として活動する作家の石牟礼道子と坂口恭平。年齢差がある2人だが、そんなのは関係ない。坂口はたびたびギターを持って石牟礼のもとを訪れ、彼女のことばに伴奏をつけて歌っていたという。体が思うように動かなくなっていた石牟礼だが、坂口が歌うと、それに合わせるように体をくねらせて踊っていたと綴る。歌で2人の魂は響き合ったのだ。(文藝別冊『追悼 石牟礼道子』より)

杉作J太郎 → 水木しげる

羽鳥好美 イラスト

哲学の部分も水木先生からいただいたものです。生きている根本に水木先生がおられました。水木先生の形成した天体を運行する小惑星なのかもしれません。
お亡くなりになりましたことはご冥福をお祈りしますが、まったく水木先生を喪失したつもりはなく今後も僕は水木先生の形成した天体で生きていくと思います。

妖怪漫画や戦争漫画などの作品はもちろん、よく眠り、よく食べ、気ままな性格で多くの人に愛され、93歳で大往生を遂げた漫画家の水木しげる。盈虚王を受けた作品の話や、水木の豪快で珍奇なエピソード、「妖怪(あちら)の世界へ行った」という発言が多いなか、漫画家・杉本J太郎の、漫画も哲学も、生きるすべてに瑞樹がいるということばはグッと心に突き刺さる。(『アックス』第109号より)

矢作俊彦 → 赤瀬川原平

草の生い茂るゆるやかな屋根の傾斜で、そのことにやっと気づいた。私はあのとき、一生働かないこと、恐れず迷わず遊んで暮らすことを選んだのだ。修行を求めない魔法使いのようなものの弟子になったのだと。
さよなら師匠。あいにく神も仏も信じないもので、もう二度と会うことはないけれど、残る生涯まだまだ遊んで暮らせるだけの遺産をありがとう。

赤瀬川原平の一番弟子だという作家の矢作俊彦。出会いは高校時代。弟子にしてほしいと懇願すると「貢ぎ物を持ってこなくっちゃ」と返答。偶然通りかかった米軍キャンプの前にあった看板を持ち帰り、ドリルと彫刻刀と2B花火で弾痕をこしらえ持参し、見事弟子となった。しかし、その後20年以上会う機会がなかったという不思議な師匠と弟子の関係を綴った。(『新潮』2015年1月号より)

野口五郎 → 西城秀樹

おまえの思うラブソングを天国で極めてくれ。

1970年代に「新御三家」と呼ばれ、アイドル歌手の一時代を築いた西城秀樹と野口五郎。弔辞では「ある時は兄のようでもあり、ある時は弟のようでもあり、親友でもあり、ライバルでもあって」と46年間の深い関係性を語った。西城が本物のラブソングを届ける歌手を目指していたことを近くで見てきて知っていると言い、大切な親友の63歳の早すぎる死を弔った。(西城秀樹 告別式より)

寺尾紗穂 → 寺尾次郎

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私も父も彗星だったのかもしれない。暗い宇宙のなか、それぞれの軌道を旅する涙もろい存在。二つの軌道はぐるっと回って、最後の最後でようやく少しだけ交わった。そんな気がした。
ねえ、パパ、次にすれ違うのは何十年後、何百年後かな。
そのときまで、元気でね。

ロックバンド、シュガー・ベイブのベーシストであり、解散後はフランス映画の字幕翻訳を手がけた寺尾次郎。娘の紗穂も音楽と文章の道を歩んでいるが、その関係は「単純なものではなかった」。幼い頃から別に暮らしていた父。癌が発覚し、死が現実になろうとした時、遠い存在であった父の重たさに気づく。その複雑な関係性が「彗星」という言葉に表れている。(『新潮』2018年8月号より)

山田洋次 → 原節子

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美しいままに永遠に生きている人です。

日本映画の黄金期を支えた大女優の原節子。小津安二郎、成瀬巳喜男、黒澤明といった日本映画の巨匠の数々の作品に出演し、1962年、42歳で引退。その後は取材も一切受けず、隠遁生活を送り、95歳で亡くなった。山田洋次監督は原との面識はないが、彼女のことを「永遠に生き続けてほしい」「神の領域」と述べ、往年の大女優の喪失を嘆いた。(『週刊朝日』2015年12月11日号より)

藤原竜也 → 蜷川幸雄

蜷川さん、あなたは僕を生みました。

1997年に蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』でデビューした俳優の藤原竜也は、蜷川の葬儀で涙ながらに弔辞を述べた。全身全霊で舞台に向かい、俳優たちに対して厳しい演出で知られた蜷川に恐ろしいほどのダメ出しの数々を受けたエピソードを振り返り、厳しい言葉の中にあった優しい一面を紹介。「馬鹿な仕事をしてたら、怒ってください」と師へメッセージを伝えた。(蜷川幸雄 告別式より)

宮崎駿 → 高畑勲

羽鳥好美 イラスト

パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人に泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。
僕は夏のエアコンの止まった休日にひとり出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。
僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった。

日本のアニメーションにおける礎を築いた東映動画の先輩後輩であり、その後多くの作品を生み出した盟友でもある宮崎駿は、高畑勲(愛称パクさん)の葬儀でエピソードを披露。宮崎がアニメーターとして初めて彼と組んだ作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』での製作現場の様子についてだ。よく粘り、何枚も始末書を書いて「圧倒的な表現」を生み出した。(高畑勲「お別れの会」開会の辞より)

松本隆 → 大瀧詠一

北へ還る十二月の旅人よ。ぼくらが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だね。
なぜ謎のように「十二月」という単語が詩の中にでてくるのか、やっとわかったよ。
苦く美しい青春をありがとう。

音楽とラジオ、プロデュース。型にはまらないスタイルで日本のポップソングの歴史を作り、65歳で旅立った大瀧詠一。はっぴぃえんど結成からの同志である作詞家の松本隆はお別れ会で、細野晴臣、鈴木茂の3人で棺を抱えたこと、最初のシングル「12月の雨の日」誕生の瞬間のエピソードを語り、同じく12月に帰らぬ人となった大瀧に向けて哀悼の意を述べた。(大瀧詠一 お別れ会より)

上條淳士 → デヴィッド・ボウイ

羽鳥好美 イラスト

ぼくの星だった

デヴィッド・ボウイの訃報が流れてほどなく、ツイッターでは漫画家の上條淳士が描いた『Low』のジャケットの似顔絵とコメントが飛び交った。その後のインタビューで上條は、中学生の時からボウイに憧れ、漫画『To-y』の主人公トーイのモデルの一人がボウイであること、変化をし続ける生き方に影響を受けたことなどを語った。(2016年1月11日 本人ツイッター@atsushi19630312より)

マドンナ → デヴィッド・ボウイ

才能があって、ユニークで、天才。
変革を起こす人。
地球に落ちてきた人。
あなたの魂は永遠に生き続ける。

マドンナはデヴィッド・ボウイの訃報を知るとすぐにSNSでコメントを発信。少女時代にデトロイトで観た、生まれて初めてのコンサートがボウイであったこと。男性的であり女性的であり、挑発的な彼の姿や音楽に衝撃を受け、人生が変わったと述べた。彼の死後、自身のツアーではボウイの「Rebel Rebel」をカバーし哀悼の意を捧げた。(2016年1月11日 本人ツイッター@Madonnaより)

ポール・マッカートニー → デヴィッド・ボウイ

雨の朝、とても悲しいニュースで起こされました。デヴィッドは偉大なスターで一緒に過ごした時間は私の宝です。彼の音楽は英国の音楽史の重要な位置を占めており、世界中の人々に与えた影響の大きさを考えると誇らしい気持ちになります。
彼のご家族には深い追悼の意を送ります。笑い合った日々を一生忘れません。彼という星は、空で永遠に輝き続けるでしょう。

自身の公式サイトでデヴィッド・ボウイへの追悼コメントを発表したポール・マッカートニー。ビートルズ時代には目立った交流はないが、その後1985年のライブ・エイドや86年のプリンス・トラスト、2001年にポール自身が発起人となったザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティなどで共演している。(公式サイトhttps://www.paulmccartney.com 2016年1月11日ニュースより)

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