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進撃がぴたりと止まった…生涯最大の負け戦で存亡の危機にあった家康を救った"ありえないほどの強運"

  • 2023.5.7

駿河攻めではウィンウィンの関係だった徳川家康と武田信玄の同盟は、1572年、決定的に破綻。信玄は大軍を率いて家康の領地に侵攻する。歴史学者の黒田さんは「有名な三方原合戦は、徳川軍の物見の兵が偶発的に始めてしまった可能性が高い。そして、これほどの大敗は、家康にとってまさに最初で最後の生涯に一度だけのことだった」という――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

家康の領土に攻め入った信玄はやっぱり強かった

信玄は元亀3年(1572年)11月晦日に二俣城を攻略すると、同城に進軍し、同城の普請をすすめた。これは信玄が、同城を遠江支配の拠点にしようとしたことを示していよう。家康はいよいよ信玄を迎え撃たなければならなくなった。

しかし家康と信玄では、動員できる軍事力にあまりにも格差があった。それを解消するには信長の援軍が必要であったが、信長自身は朝倉・浅井両家などへの対応のため、出陣してくることはできなかった。そのため援軍が派遣された。すでに11月19日の時点で、3000余の軍勢が派遣されてきていた。信長も翌日に謙信に宛てた書状で、「一手」を派遣したことを述べている。その軍勢とは、信長から家康への取次担当であった家老の佐久間信盛、重臣の平手汎秀、そして従属国衆の水野信元であった(「当代記」など)。しかしこれでも武田本軍に対しては劣勢にあったことはいうまでもない。

そうして起きるのが三方原合戦である。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
知られざる三方原合戦の発端の真相とは

この合戦の実態を伝える当時の史料はなく、これまでは『三河物語』の内容が取り上げられてきた。

そこには、信玄は三河から東美濃通って上洛しようとしていて、三方原の台地に上がって、井伊谷を通って長篠に進もうとして、井伊谷領祝田に下ろうとしていたところ、11月22日に家康は、「浜松城から三里に近づいているので打って出て合戦する」と宣言し、「大勢であっても我が屋敷の裏口を通ろうとしているのに、内にいて出ていって咎めない者はいない、負けると思っても出て行って咎めるものだ、我が領国を通っていくことを、大軍だからと出て咎めないわけにはいかない、合戦せずにはすまない、合戦は軍勢の多さではなく天道次第である」と言って、家臣を鼓舞したことが記されている。小説やドラマで馴染みのある場面であろう。

これに対して『信長公記』には、信玄は堀江城を攻撃し、そこに家康が出陣してきて、三方原で合戦になったと記している(角川ソフィア文庫本228頁)。信玄の進軍先が長篠城であったのか堀江城であったのか、両史料では一致していない。近時、信玄は堀江城攻撃に向かったため、家康はそれを阻止するべく出陣し、三方原で合戦になったとする見解も出された(平山優「遠州堀江城と武田信玄」など)。

徳川の物見の兵が武田軍とうっかり交戦したという説

しかし『信長公記』には、信玄は堀江城を攻撃し、在陣したと明記されている。この内容を前提にすると、家康が出陣してきたことで、三方原で合戦になっているのだから、それは武田軍が徳川軍迎撃のために引き返したことになる。結論を出す前に、合戦についてのもう一つの重要史料をみてみたい。これまでの三方原合戦についての研究では十分に利用されていないが、内容の信頼性は高いとみなされるものがある。すなわち「当代記」の記述である。

これによれば、信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、22日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方原に進軍した。そこへ徳川軍の物見勢10騎・20騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけずに武田軍と合戦になってしまった。

三方原合戦関係図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成
三方原合戦関係図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成(出所=『徳川家康の最新研究』より)

徳川軍は敗北し、1000人余が戦死した。武田軍は浜松近辺を放火したが、城下には攻め込まなかった。武田軍では浜松城を攻撃するかどうか評議したが、家康の居城であるため簡単には攻略できないと話し合い、10日ほど無為に在陣した。この時に信長からの援軍は佐久間信盛・平手汎秀・水野信元などで、平手は戦死し、水野は岡崎まで退却し、裏切りしたような有様で、おそらく信玄に味方するための企みだろう、という。

“神の君”家康は勇猛ゆえに合戦を始めたわけではない

この「当代記」の内容は、『三河物語』にみえているような、家康の勇壮さのような、家康を美化するようなところはなく、実に自然な内容であるとみなされる。そのため合戦の実態をもっともよく伝えているものと認識できる。ここからすると合戦は、徳川方の物見衆が、偶然にも武田軍に遭遇してしまい、戦闘に入ってしまったので、家康はそれら家臣を救出するために出陣してきたが、逆に戦闘に巻き込まれて、武田軍と本格的な合戦になってしまったという、いわば偶発的に生じたものであった、とみることができる。私はこれこそが、三方原合戦の真実であると考える。

また武田軍の行軍経路として、都田から三方原に南下していることからすると、これは浜松城への牽制とみられるであろうか。その場合、その先の進軍目標がどこかは判断できない。堀江城の可能性もないとはいえないが、合戦後に気賀の刑部に転進していることからすると、三方原に在陣した時には、三河に進軍することを予定していたように思う。

史料の矛盾はあるが偶発的な衝突が戦の発端となった

『信長公記』では、堀江城攻撃中に、徳川軍が出陣してきたと記されていた。しかし「当代記」は、都田から三方原に進軍した武田軍に、徳川軍の物見が遭遇したことで合戦になった、と記していた。両者が伝える内容は、微妙に矛盾している。

しかし『信長公記』の内容も、「大沢基胤合戦注文」の存在を踏まえれば、基本的には事実を伝えているとみなされる。それらの記載について整合的な解釈をこころみれば、『信長公記』での、徳川軍の出陣は、武田軍が三方原に転進してきたことをうけてのことと理解し、「当代記」での、都田から三方原に進んだ、というのは、途中の堀江城攻撃を省略したと理解すれば、解決できるように思う。

歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

そして武田軍が堀江城から三方原に転進したのは、徳川軍が出陣してきたからではなく、堀江城攻略を中断して、徳川軍を牽制するため、あるいは奥三河に進軍するため、と考えられるのではないか。平山優氏(『徳川家康と武田信玄』)が検討したこの地域の交通状況をもとにすると、堀江城から奥三河に向かうには、一旦、三方原に出る必要があったと考えられ、三方原への転進は決して不自然な行動ではなかった。

堀江城攻撃の中止の理由はわからないが、徳川軍に出陣の気配がみられたことによるかもしれない。ここでは三方原合戦が生じる経緯については、以上のように考えておきたい。

1000人以上の戦死者を出した家康はお家存亡の危機に

合戦は徳川軍の大敗で、「当代記」では、両軍の軍勢数を武田軍は2万人、徳川軍は8000人であったとし、徳川軍では1000人余が戦死したという。この戦死者数は、信玄が朝倉義景に戦勝を報せた際に、「千余人討ち補り」と述べているのにも一致している。徳川方の大敗であったことは間違いない。

しかもこれほどの大敗は、家康にとって、まさに最初で最後の生涯に一度だけのことであった。そのため家康を神格化した江戸時代に、この大敗についても美化されて、『三河物語』の内容が生み出されたのであろう。なおまたこの時の大敗を教訓とするために描かれたものとされるものに、いわゆる「顰像(しかみぞう)」がある。しかしこれについても近年、江戸時代後期に作成されたもので、三方原合戦との関わりを示す根拠もないことが、明らかになっている(原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」)。

なぜか進撃してこない信玄、反撃できない家康

家康は信玄に三方原合戦で大敗を喫してしまった。しかもそれは偶発的に生じてしまったものであった。家康としては、武田軍とは圧倒的に戦力差があったため、正面切っての合戦を回避する方針であったと思う。ところが偶発的に合戦におよんでしまい、しかも大敗してしまったのである。そのためすぐの反撃は難しい状況になったに違いない。ところが武田軍は、合戦後すぐに動くことなく、10日も在陣を続けた。おそらく気賀の刑部においてであろう。そしてそこで越年してしまうのである。

そもそも信玄は、二俣城を攻略してから20日ほど、何の行動も示していない。そして合戦後も10日ほど動いていない。それはいうまでもなく、信玄の病状が悪化していたためとみてよかろう。また刑部に在陣を続けたのは、家康の出方を探るためであったろう。

「当代記」にも、浜松城は家康の本拠のため、攻略には時間がかかることが見越されていた。信玄は、家康が反撃に出てくることはないと確信したことで、年明けになって行動を開始することにしたと思われる。

そこでの行動についても「当代記」に詳しい。明けて天正元年(1573)正月3日に進軍を開始した。三方原合戦から11日後のことであった。刑部での在陣はちょうど10日ということになる。その日、井伊谷領井平(浜松市)を通って三河に入り、野田城の攻撃を開始した。しかし攻略には時間を要し、攻略したのはそれから1カ月以上が経った2月17日のことであった。

月岡芳年『大日本名将鑑 武田大膳大夫晴信入道信玄』(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
月岡芳年『大日本名将鑑 武田大膳大夫晴信入道信玄』(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
病床の武田信玄は甲斐へ戻ろうとするが途上で死去

これをうけて信玄は、長篠城に入った。この長篠への移動について、後退したとみる考え方もあるが、奥三河衆の人質をこの長篠城に集めていること、野田城についてはその後、廃城にしていることからすると、信玄は奥三河における拠点に、この長篠城を位置付けたと考えられるであろう。

信玄がそこからどのように軍事行動しようと考えていたのかはわからない。信玄は3月12日には、奥平家の作手城、田峯菅沼家の田峯城(設楽町)や武節城(豊田市)などに在城衆を置いたうえで、甲斐への帰国の途について退陣したようである。軍勢も16日には信濃に向けて退陣したらしい。その状況は、「一円隠密」で、「物紛れに退く」ものであったという。しかし信玄の病状は極めて悪化していたのであろう、甲斐に帰国するまでその生命はもたず、その途上で、4月12日に信濃伊那郡駒場(阿智村)で死去してしまった。

ピンチのときに敵が引き揚げていく家康の幸運
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)

この武田軍の退陣、そして信玄の死去によって、家康はまさに窮地を脱することになった。信玄の病状が深刻化することなく、そのまま進軍を続けていたとしたら、残された領国をも経略されるなど、徳川家の存立そのものが危機におちいった可能性すらあった。

しかし家康は、その危機を乗り切った。しかもそれは信玄の病気という、家康にはどうしようもないことによった。ここに家康の、桶狭間の戦いの後、今川氏真に攻められたとき以来の強運をみることができる。家康はかろうじて、滅亡を覚悟せざるをえないほどの、信玄の脅威から解放されたのであった。

黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。

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